第2話 解放税
朝、台所に立っている人がいて、俺は声を上げた。
灰色の服。昨日の服だ。髪は結わえてある。結わえ方が、俺より上手い。
まな板の上に芋が三つ、皮をむかれて並んでいた。むき方が均一で、速い。包丁の音が一定の間隔で鳴っている。
「起きてたの」
彼女は手を止めた。止めて、少し待って、また動き出した。
俺は寝ぼけていたので、それ以上は何も訊かなかった。訊かなかったことにして、顔を洗った。
朝飯は芋の煮たのと、昨日の唐揚げの残りだった。
彼女は座って食べた。膝を立てて、皿を胸に近づけて、音を立てずに食べた。拾ってくれたパン屋の婆さんは「音を立てて食え」と言う人だったので、俺は少しだけ気まずかった。
「おいしい?」
答えはなかった。けれど芋は全部なくなった。
空になった皿を見て、胸の奥の強張りが少しだけ解けた。単純だなとは思う。
そのあと、俺は役所へ行った。
奴隷を買ったら七日以内に届けを出す決まりで、紙を一枚もらって名前を書いて印を押す。窓口の男は俺の字を見て、少し笑った。この国の字は、俺にはまだ難しい。
「で、解放はいつにする」
男が言った。俺は聞き返した。
「解放、ですか」
「お前、買ったんだろ。連れて歩くのか」
男は面倒くさそうに、別の紙を出した。
そこに数字が書いてあった。俺はしばらくそれを見た。
桁が、二つ多かった。
俺の貯金はもうゼロだ。屋台の唐揚げは一日三十皿、一皿で銅貨が六枚、銀貨一枚が銅貨四十枚。
計算はすぐ終わった。一日二枚半で、二千四百枚。九百六十日。二年半だった。雨の日も、客の来ない日も、同じように屋台を出して、食うのを我慢して、それでやっと届くか届かないか。しかも男は言った。
「保証人も要るぞ。身元のしっかりした、人家のある者が二名」
そんな知り合いは、いない。パン屋の婆さんはたぶん無理だ。あの人は、俺を拾ったことを誰にも言っていない。言わないというのは、そういうことだ。
俺は紙を畳んでポケットに入れた。
帰り道、空が白かった。今日は屋台を出せない。粉を買う金がない。
何もできないな、と思った。人を買っておいて、何もできない。
店に戻ると、彼女は裏庭にいた。
うちは表が屋台で、裏が住まいで、その裏に小さな庭がある。庭といっても、土が少しと、壊れた樽と、日当たりだけの場所だ。
彼女はしゃがんで、土を見ていた。
俺は横に立って、しばらく黙っていた。それから言った。
「悪い。解放、まだ無理だった」
彼女は土から目を離さなかった。
「二年半くらいかかる。金が。それまでは、その、一緒にいてもらうことになるけど」
そこで言葉に詰まった。主人と奴隷、という言葉を使いたくなかった。使わないと話が進まないのに、使えなかった。
「嫌なら、ごめん」
そのとき、彼女が口を開いた。
初めてだった。
「店を」
声は、思ったより低かった。
「店を、開きたい」
俺は聞き返した。
「店?」
「エルフの料理の店を」
彼女はまだ土を見ていた。
「あなたが、名義人になって」
俺は頭の中で、昨日の窓口の男の顔を思い出した。奴隷は財産を持てない。店も持てない。だから店を出すには人間の名前が要る。名義人。世間でいう「奴隷に優しい主人」というやつだ。
「エルフの料理って、どんな」
彼女は少し考えて、それから言った。
「薄い味です」
「薄い」
「人間には、薄い草の味しかしないと思います」
俺は、それで商売になるのか、と思った。薄い草の味の店に誰が金を払うのか。
でも彼女は真面目だったし、何より、彼女がしゃべったこと自体が嬉しかった。
「いいよ。やろう」
彼女は初めて、俺のほうを見た。
それから指を一本立てた。
「条件が、ひとつ」
「なに」
彼女は裏庭の隅を指さした。
「ここに、鉢を置いてください」
「鉢? 花?」
「草です」
「草」
「私が世話をします。あなたは、触らないでください」
俺は笑った。条件が草ひとつなら安いものだ、と思った。
安い、と思った。その日、二度目だった。人を買って安いと思い、草ひとつで安いと思った。
「いいよ。鉢、買ってくる」
彼女は小さく頷いた。
俺は財布を見た。銅貨が十枚と少し。鉢を買ったら明日の粉は買えない。
まあいいか、と思った。明日のことは、明日考える。
夕方、市場でいちばん安い素焼きの鉢を買った。
店に戻ると、彼女はまだ裏庭にいた。土を、手でならしていた。
俺はその手を見て、少しだけ怖いと思った。この人は来て一日で、もうここに何かを植えようとしている。俺はこの店を、借り物みたいに使っている。この人は、根を張ろうとしている。
理由は分からなかった。分からないまま、俺は鉢を置いた。
「ここでいい?」
「はい」
彼女は鉢を受け取って、土を入れて、それから俺のほうを見た。
「土を、ください」
「土?」
「この庭の土では、だめです」
「じゃあ、どこから」
「あなたが、持っている土です」
俺は、意味が分からずに彼女の顔を見た。俺は土なんて持っていない。
「……どういうこと?」
「分からないなら、いいです」
彼女はそう言って、また土をならし始めた。
俺はしばらく立って、それから店に入った。
分からないから聞いたのだが、それ以上は何も言わなかった。
草ひとつでここにいてくれるなら、安いものだ。そう自分に言い聞かせて、明日からどうやって粉を仕入れるかを考え始めた。




