第3話 看板
店を出すには、まず名前が要る。
俺は三日かけて考えた。候補は六つあった。
「スローライフ食堂」
紙に書いて彼女に見せた。彼女はしばらく眺めてから、首を振った。
「読めません」
「あ、そっか。ごめん」
考えてみれば当たり前だ。俺の字で書いても、伝わらない。
発音を書いて、もう一度見せた。
「すろう、らいふ、しょくどう」
「すろうらいふ」
「うん」
彼女はもう一度紙を見て、それから言った。
「意味は、なんですか」
「のんびり暮らす、食堂」
彼女は少し黙って、首を振った。
「いい名前です。でも、これはあなたの店の名前です」
俺はそうか、と思った。俺の店。俺の名前で出す店。名義人は俺で、奴隷は店を持てない。だからこの店は、制度の上では全部俺のものだ。名前をつければ、それは俺の名前になる。
「じゃあ、なんて名前にする」
彼女は答えなかった。「あなたが決めてください」と言って、台所に戻った。
結局、俺が決めた。看板は「エルフ料理 リュシー」。
安直だと思う。でも彼女の名前を入れたかった。理由はうまく言えない。持っている、という感じがしないようにしたかったのかもしれない。名前を入れておけば、少なくとも看板の上では、この店は二人のものに見える。
準備は二週間かかった。
表の窓口を広げて揚げ場を作り、中に席を六つ置き、仕切りを一枚立てて、その奥にエルフ用の厨房を作った。
エルフ用、というのが難しかった。俺には何がエルフの料理なのか分からない。彼女が器具を選び、鍋を選び、包丁を選び、そのうえで俺にこう言った。
「この奥には、入らないでください」
ちょっと傷ついた。でも、そういうものかと思った。秘伝なんだろう。うちの唐揚げだって、粉の配合は誰にも教えていない。
書類は俺の名前で出した。名義人、三上陽太。奴隷、リュシー。
窓口の男は紙を見て、少し笑った。
「優しいご主人様だな」
そう言われて、俺は黙っていた。言い返す言葉が見つからなかった。
開店の日は晴れた。
朝の八時に戸を開けて、十一時まで客は来なかった。十二時になっても来なかった。
俺は窓口の前に立っていた。彼女は奥の厨房にいて、仕切りがあるので顔は見えなかった。音だけが聞こえた。包丁の音が、一定の間隔で鳴っていた。
二時になって、俺は椅子に座った。三時になって、揚げるのをやめた。
四時。通りを馬車が通った。
馬車は店の前で止まった。御者が降りて扉を開け、中から女の人が降りた。四十くらいで、服が明らかに高い。袖の刺繍が遠目にも細かい。
そのあとから、もう一人降りた。灰色の服の、若いエルフだった。
女の人は店の前に立って、看板を見上げた。
「エルフ料理、リュシー。……まあ」
それから俺のほうを見た。
「あなたが、名義人の方?」
「はい。三上陽太です」
「ローレンです。ローレン伯爵の妻をしております」
俺は頭を下げた。伯爵の妻。この店に、そんな人が来るとは思っていなかった。
「新聞で見たの」
夫人はそう言った。
「新聞」
「社交欄。『奴隷に故郷の味を食べさせる店がある』と」
俺は新聞に載った覚えがなかった。誰が書いたんだ、と思った。思ったが、訊かなかった。
「最近流行っているのよ。きちんとした家では、自分のエルフに、きちんとしたものを食べさせるの」
夫人は扇子で自分の首のあたりを扇いだ。
「うちのティナは、故郷の味を、もう十年も食べていないの」
後ろのエルフが小さく頭を下げた。ティナ、という名前らしい。
「エルフの料理は、うちの子が作ります」
案内しながら、俺はそう言った。うちの子、という言葉がすっと出て、自分でも少し驚いた。
「まあ。あなた、いい主人ね」
夫人はにっこりした。
「そういうの、大事よ。今の時代」
席に案内した。夫人が上座、ティナがその隣。夫人は自分の前に来た皿を、ティナの前に押しやった。
「ほら。遠慮しないで」
ティナは皿を見ていた。それから匙を持って、一口飲んだ。
止まった。
匙を持ったまま、止まった。まばたきもしなかった。それからゆっくり、二口目を飲んだ。
涙が出ていた。
夫人がそれを見て、嬉しそうに言った。
「ほら。泣いてる。よっぽど懐かしかったのね」
俺も、そうだと思った。故郷の味なんだろうな、と思った。十年も食べていなかったんだから、そりゃあ泣くよな。
俺は奥の仕切りを見た。
包丁の音は、いつの間にか止んでいた。
止んで、それからまた鳴り始めた。同じ間隔で。
***
その日、店の売上は二皿分だった。
夫人は代金を多めに置いていった。俺はそれを数えて、手が震えた。三日ぶりに明日の粉が買える。
ティナは帰り際に俺のほうを見て、一度だけ頭を下げた。夫人はその背中に手を添えていた。優しくなでる、というやつだった。
二人が戸を出たあと、片づけをしていて気づいた。椀を二つ出したのに、戻ってきたのは一つだけだった。
持って帰ったのか。
数え直した。一つだった。
気に入ったのかな。
そう思った。この店の椀は、町の道具屋で買った安物だ。気に入るような代物じゃない。だが、エルフの客はときどき、そういうことをする。皿を一枚、匙を一本、布巾を一枚。何も言わずに持って帰る。故郷を思い出したのか、ただの記念か、俺には分からない。
次の日、夫人が来たとき、それとなく訊いてみようかと思った。
やめた。
(皿一枚で気まずくなるのは嫌だ)
俺は椀を一つ、棚に戻した。
欠けた一枚のことは、そのまま忘れることにした。
彼女は戸口まで見送りに出なかった。台所の奥で皿を洗っていた。洗い方が丁寧だった。水を替えて、もう一度洗って、布で拭いて、伏せて、また拭いて。
俺はその背中に声をかけた。
「今日、どうだった?」
手が止まった。止まって、少しして、また動いた。
「あの人は」
彼女は言った。
「あの人は、また来ますか」
俺はほっと息をついた。
「来るんじゃないかな。気に入ったみたいだし。泣いてたし」
彼女は頷いた。それだけだった。
店が、ようやく少しだけ回り始めた気がした。
その晩、布団の上で銅貨を数えた。数え終わって壺に入れた。壺はまだ軽い。二千四百枚には、ほど遠い。
俺は天井を見て、明日のことを考えた。
明日も、昼から店を開ける。夫人が来るかもしれない。来たら皿のことを訊いてみようか。訊かないほうがいいか。訊かない。訊かないで、もう一枚、出そう。気に入ったなら、また出せばいい。
明日の夜は粉を買いに行く。屋台の分と店の分。金は足りる。
そこまで考えて、俺は寝た。
***
翌朝、店の裏口を開けると、包みが置いてあった。
布に包んで、紐で結んである。紐の結び方が丁寧だった。
開けた。椀がひとつ。昨日、足りなかった椀だった。
洗ってあった。縁を、布で拭いた跡があった。
返しに来たのか。
律儀だな、と思った。持って帰って、洗って、包んで、夜のうちに返しに来た。この店の椀だから、返さなければならないと思ったのだろう。そういう育ちなんだな、と思った。
(でも、なぜわざわざ)
売上は二皿分。椀代は銅貨三枚。三枚のために、夜中に歩いて戻ってくる。
律儀なのか。それとも。――なんだ。
椀の中には、何も入っていなかった。
ひとつだけ、針の先ほどの黒い点があった。焦げた跡かもしれなかったし、椀を焼いたときの釉の不良かもしれなかった。
俺はその点を、親指でこすってみた。
落ちなかった。
(まあ、いいか)
裏口の棚に戻した。
それから店を開けた。今日も二皿売れれば、明日の粉が買える。
***
一人目、受信を確認。




