第1話 揚げたての音
揚がったかどうかは、音で分かる。
衣が細かく泡を吹いて、じゅ、と短く鳴る。その鳴りが止んだ瞬間が、揚がったという合図だ。俺は菜箸でひとつずつ網に上げ、油を切りながら、まだ熱いのを紙の器に載せる。
「唐揚げ一皿、熱いうちにどうぞ」
受け取った男は、湯気の向こうで目を細めた。
「うまいな、これ。なんでうちの旦那は、こんなもんを食わせてくれねえんだろうな」
「揚げたてを食ったことがないだけですよ」
俺は笑って、次の鶏肉を粉に押しつけた。
三上陽太。二十歳。半年前まで日本の大学にいて、今はこの街の隅で屋台を出している。
この世界に落ちてきたのは、本当に突然だった。気づいたら路地に倒れていて、財布も携帯もなく、名前も身分もない。そういう男を、この国はあまり大事にしてくれない。パン屋の婆さんに拾われて三日働き、パンを三つもらった。それで分かったのは、俺は食うことでしか生きられない、ということだった。
料理は、もともと好きだった。
屋台を出して半年。唐揚げは一日に三十皿売れる。銀貨十七枚が、俺の全財産だ。屋台を買うのに二百枚借りて、まだ八十枚残っている。稼いだ分は、ほぼ全部そこへ消える。だから貯まっているのは本当にこれだけだ。
毎晩、布団の上で数える。十七、十七と声に出して、壺に戻して、枕元に置いて寝る。
何のために貯めているのかは、まだ誰にも言っていない。
その日は、屋台を早めに畳んだ。広場に寄る日だったからだ。
週に一度、広場の真ん中に人が集まる。露店が並び、その中央に一段高い台がしつらえてある。台の上に、人が立たされる。
奴隷市だ。
前から、そこを通るたびに足が止まっていた。別に何かできるわけじゃない。ただ、止まる。買えない値段だと分かっていて、それでも止まる。そういう場所だった。
その日は、七人目までが売れた。買い手がつくたびに台から降ろされ、買った人間の後ろについて、人の群れに混じって消えていく。誰も話さない。
八人目が、エルフだった。
台上に出てきたのは、若い女だった。年のころは俺と同じくらいに見える。灰色の服を着て、髪が少し乱れていて、足元を見ていた。
値段が安かった。他の売り物の半分ほどだった。
安いな、と値札を見るように品定めした瞬間、胃の底がすっと冷えた。命に値段をつけて値踏みしている自分に気がついたからだ。
俺は自分の手を見た。何も持っていない手だ。十七枚の銀貨は、布団の脇の壺の中にある。
入札が始まった。
俺の前の列で、男が手を上げた。
その瞬間、その男の隣にいた男が、軽く首を振った。手が下がった。
二度目も同じだった。三度目、誰かが声を出して値段が上がると、その後ろにいた別の誰かが、その人の袖を引いた。声が止んだ。
俺には、意味が分からなかった。安いから誰も欲しがらないのか、それとも何かあるのか。傷物とか、そういうことか。だが台上の彼女は、どこも悪くなさそうに見えた。
彼女は一度だけ顔を上げた。
俺のほうを見た。見たというより、通り過ぎた。俺の後ろの、もっと遠いところを見ていた。
台の係が声を張る。
「では、十七枚で」
俺は壺のことを考えていた。あれを出したら、明日の粉が買えない。
それでも口を開いた。
「十七枚で」
声が出たのは、自分でも驚いた。
広場が、一瞬だけ静かになった。それから誰かが小さく笑った。係が二度呼びかけて、誰も手を上げなかった。
「落札」
木槌の音がした。
手続きは簡単だった。紙に名前を書かされ、受け取りの印を押す。俺の名前はこの世界でも三上陽太で通っていて、向こうの名前のままなのが自分でも少しおかしい。
係が、彼女のほうを顎で示した。
「名前を聞いてやんな」
「名前は?」
彼女は答えなかった。目を伏せたまま動かなかった。
少し待って、それから俺は言った。
「じゃあ、リュシー。リュシーでいい?」
彼女はまばたきをした。それだけだった。頷きもしなければ、嫌だとも言わなかった。
けれど俺は、そのまばたきを返事だと思った。勝手に。そういうことにしておきたかったのかもしれない。
係が紙を一枚渡した。受け取り証だった。
この国の字で、びっしり書いてある。半分は読める。半分は読めない。
俺がしばらく睨んでいると、係が面倒くさそうに言った。
「名前を書いたところだ。そこだけ読めばいい」
指でなぞると、三上陽太、とあった。向こうの字で、俺が書いた名前だった。
紙を折って、ポケットに入れた。
この紙一枚で、この人は俺のものになった。そういう仕組みだ。悪いとも、いいとも、まだ思わなかった。ただ、そういうものなのだと覚えた。
その晩、俺は壺をひっくり返した。銀貨は一枚も残っていなかった。
代わりに、台所の隅に人がひとり座っている。灰色の服のまま、膝を抱えて、じっとしていた。
「腹、減ってる?」
答えはなかった。
けれど彼女の目は、俺の手元を見ていた。さっき揚げた最後の一皿を。
俺はそれを紙の器に載せて差し出した。
その前に、いつもの癖で、器の縁を指で一度ぬぐった。油がついていると客の手が汚れるから、屋台を始めてからずっとそうしている。考えてやっているわけじゃない。
彼女は、その手元を見ていた。
それから器を受け取って、両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
エルフが、人間の揚げ物を、両手で持っている。
俺はまだ、それが何を意味するのか知らなかった。
知らないまま、俺は布団に入った。明日は粉を買えない。何を作って売るか、朝までに考えないといけない。
考えながら、俺は眠った。




