34.掛けられた呪い
今日は、朝から曇だった。
分厚い灰色の曇は、今にも泣き出しそうな様子で空を覆う。これから雨が降るんじゃなかろうかと話す人々の合間を縫って、俺はフードを深く被り直し、早足に進んだ。
――"バベルの塔"。
そう呼ばれた高い塔の様相をした監獄。そこに、用があった。
バベルの塔には政治犯など、凶悪な犯罪者のみが収監されている。裁判に掛けられればまず、終身刑か斬首刑が言い渡される罪人ばかりだ。
そんなバベルの塔に今、お祖母様が収監されている。
罪状は"国家転覆罪"だそうだ。随分とまあ、大きく出たものだ。
現国王の反対派と組んで、クーデターを画策したということらしい。
確かに元よりウェスペル家は嫌われ者だったし、最近は貴族の犬と化していたから、実際罪に問われることもしただろうし、幾らでもでっち上げられるだろう。
ただ、今回の件だけに限れば、無実だ。
お祖母様が受ける依頼の中で唯一国家絡みなのは、クローディアを通して行える読心術で国家に仇なす間諜を見つけることだけだったからだ。
それ以外は普通の魔法使いと同じく、地域住民の困り事に手を貸すくらい。まさに、クーデターとは真逆の役回りだ。
(結局は、俺のせいなんだろうな…)
両親が事故死して、お祖母様が投獄されたのは、俺がジノン卿の言う通りに、魔力を増やす研究を続けなかったからだ。おまけに研究資料を持って逃げたから、俺に圧力をかけるためにこうしたのだろうと思う。
だから本当は、こうしてお祖母様に会いに行こうとするのは危険だ。けれど、お祖母様が処刑なりされてしまう前にしなくてはならないことがある。
クローディアを、俺に渡してもらいたい。
バベルの塔に到着すると、俺はバベルの塔の中の時を止めた。極悪人が入れられている場所とあって警備は厳重だったが、時間が止まってしまえば何人見張りがいても関係ない。
お祖母様の居場所は、捕まることを逃れて家に居たクローディアに教えてもらった。お祖母様は大人しく捕まって、冤罪が晴れるのを待つつもりだったようだが、クローディアはお祖母様を脱獄させたがっていたから、とても協力的だった。
「お祖母様」
そう呼ぶと、牢屋の隅で丸まっていた襤褸布の塊が僅かに身動ぎした。
余計な会話をしないようにか、一つのフロアに牢屋は一つだけだった。見張りも、部屋の前の階段下にいるだけだ。
「……アダ…ム…?どうして…」
嗄れた声で言っては、おずおずとお祖母様は鉄柵の前にやって来た。
「だいぶ、やつれましたね」
以前は年齢と見た目が合わないと思われるほど若々しかったのに、今は頬が痩けて目は窪み、すっかり老婆のそれだった。牢屋にいるからと言うより、一人息子を失ったことによるショックが大きいのかもしれない。その姿を哀れには思ったが、不思議と妙な高揚感も感じていた。ずっと俺の上にいたお祖母様が、この檻を介して俺の下にいるような錯覚を抱く。
「あなた……一体何をしたの?」
お祖母様は咎める口調でそう言って、俺を睨む。
やっぱりお祖母様にも、この事態の原因が俺にあると分かっているようだ。
(孫の心配より、断罪か…)
分かってはいたが、どこかで罪そのものよりも、肉親の情から慰めてもらえないだろうかと期待していた自分もいたようで、お祖母様の言葉で、俺は些か気分が沈んだ。
それと同時に、これからしようとしていることへの罪悪感が消し飛んで、より冷静になれた。
俺が時を止めておけるのは十五分が限界で、時を止めている間は他の魔法が使えない。
俺はローブの下に下げていた砂時計を確認する。ここへ来るまでに五分程経過している。あと十分以内に片をつけなければならない。
「今は時を止めています。長話は出来ないので、用件だけ言いますね。ここでは、医者が呼べないようですので、お祖母様が飲んでいた薬を持ってきたのです。どれくらいの間投獄されることになるか分かりませんし、こんな埃っぽいところにいたら、持病の発作が起きそうだと思いまして」
「!……その為に、来たの?」
お祖母様は、信じられないという顔をする。
「はい。……ついでに、一つお願いが」
「何?」
「お祖母様が亡き後は、クローディアを俺に譲ってくださいませんか?」
そう言うと、お祖母様の瞳が揺れた。
「あの子は……私で最後にしたいと言っていたのよ。だから、あなたが当主になっても譲渡しないつもりよ。聞いてるでしょ?」
「知っています。それでも、欲しいのです」
「……どうして?」
「俺は悪どい貴族に目をつけられました。身を守る為に、クローディアの力が必要なのです」
――本当は、そうでもない。
ただ俺が、クローディアを欲しているだけだ。俺が家族の中で一番心を開いていたのがクローディアだったから、そんなクローディアがお祖母様と一蓮托生なのが気に入らないだけだった。
当然、お祖母様にもそれは見透かされていたようで、お祖母様は疑うように首を傾げた。
「あなたは私よりも魔力が高い。クローディアが居なくても、上手くやれる筈よ」
「――不安なんですよ。お祖母様が居なければ、俺は一人になる……もはや『ウェスペル』を名乗るだけでも白い目で見られ、どこへ行っても四面楚歌の中で、俺は…どう生きればいいと言うのですか?」
「…アダム……」
半分は本心で半分は嘘だ。俺は誰も信用していない。四面楚歌なのは日常茶飯時だし、仕方のないことだと思っている。
けれど、傷心の今のお祖母様になら、泣き落としは効くかもしれないと思って、言ってみただけだった。まあ、ウェスペル家を存続させる為にのみ、俺に魔法を教えるようなお祖母様が、俺を憐れに思うわけはないだろうが――。
しかしお祖母様は、しばらく悩んだ末「――分かったわ」と小さく呟いた。
「!」
まさか上手く行くとは思っていなかっただけに、驚いた。
「……私は、ウェスペル家の為と言っては、あなたに厳しくあたってきた……一度くらい、あなたの我儘を聞いてあげなくちゃね…」
お祖母様はそう言うと、口の中でモゴモゴと呪文を唱えた。
するとお祖母様の目の前に、一枚の古びた羊皮紙が現れる。それは、クローディアとの契約書だった。
「クローディアが私と死ぬというのはね、口約束なの。だから、私が死んだ後にクローディアが自分で死ぬ必要があるのよ。でも、契約書で次の主人をあなたにすると書いてしまえば、あなたの許可なく死ぬことは出来ないでしょう。クローディアは抗うかも知れないけれど、あなたは魔力が高いから縛るのには難儀しないだろうし、ちゃんと話せば、クローディアも分かってくれると思うわ」
穏やかな様子でお祖母様は言って、契約書の上で指揮するように指を動かす。契約書にある名前の『クリスティアーネ』の横に『アダム』と付け加えられた。
「これで……二人が、契約者だから……私がいなくなれば、自動的に主人は、あなたよ……後で、クローディアが勘づいて、文句、を言うでしょうけど……あなたから上手く、言っておいて……私が、アダムを心配するあまり、勝手に書いてしまった…って……」
言いながらお祖母様は苦しそうに息をついた。
「お祖母様……息が苦しいのですか?」
「ええ……発作の予兆…みたいね……薬、貰えるかしら…」
「はい」
俺は少し迷ってから、粉末状になっている薬が入った小瓶を、水と共にお祖母様に渡す。
お祖母様は迷いなく薬を口に入れ、流し込んだ。一瞬ほっと息をついたが、次の瞬間、目を剥いて喉を掻き毟った。驚いた表情で俺を見る。
「アダ…ム…ッ!!」
「すみません。お祖母様。俺は"いつか"ではなく、"今すぐ"クローディアが欲しかったんです」
「ッぐ…がはぁっ!!」
声にならないうめきを上げて、お祖母様は俺を恐ろしい形相で睨みながら床に倒れ込んだ。
その姿を見て一瞬罪悪感が頭を掠めたが、それは人を殺すことに対しての感覚で、肉親が死んでしまうという悲しみは、含まれていなかった。
契約は書き換えてもらえていたのだから、何も殺す必要はなかったが、ただ、交渉が上手く行かなかった時用に念の為用意していた毒があり、お祖母様がタイミングよく発作を起こしたから、使いたくなったのだ。
運が良いというか悪いというか……。
(やっぱり俺は、他人に情が湧かない人間なんだな…)
ひょっとしたらお祖母様は今、俺との関係を変えようと、寄り添おうとしてくれたのかもしれない。
それでも俺は、条件が揃ったことで殺す判断を下した……。
そちらのほうが悲しく感じたが、それを悔いても仕方がない。
「…どう…じでっ…!」
お祖母様は苦しみながら俺のほうへ手を伸ばした。
"どうして"。そう、言いたいのだろうか?
「フフ……わかりませんか?本当はライオンやドラゴンのように強いくせに、ウサギのように振る舞って相手を手中で操ろうとするあなたが、俺はずっと嫌いだったんです。正直、顔を見なくて済むと思うとせいせいしますよ――さようなら」
なぜだか笑えてきて仕方がなかった。
時間停止の魔法が解けないうちにと、俺は血泡を吹いてのたうち回るお祖母様に捨て台詞を吐いて背を向け、階段に足を掛けた。
――『アダム』
「!?」
唐突にお祖母様の声が頭に響いた。驚いてお祖母様を振り返るが、そこには既に事切れたお祖母様の死体が転がっているだけだった。息を吹き返す様子はない。
「幻聴か?」
そう思って再び階段を降り始めると、また、声がした。
――『アダム……身内を殺すような非情な人間には、いつか凄惨な報いがあるでしょう。あなたは誰からも愛されない。あなたが誰かを愛するなら、愛した相手は、あなたの息の根を止める死神となることでしょう』
「ッ!」
それは、恐らくはお祖母様が最期の力で俺に掛けた呪いの言葉だった。
呪文…と呼べるようなものではないのかもしれない。単なる負け犬の遠吠えだ。
だが、その言葉で俺はようやく、心臓が止まるほどの衝撃と恐怖を味わった。
――『あなたは誰からも愛されない……』
――『愛した相手は、あなたの息の根を止める
死神となることでしょう』
…
……
………
「ッ!?」
体に触れられた心地がして、俺は慌てて飛び起きたが、それと同時に烈しい頭痛がして、再び倒れ込んだ。
「ご主人様?」
声がしたので薄目を開ければ、暗い視界の中、朧気に少女の顔が浮かび上がった。
「ごめんなさい。うなされていたようでしたので……驚かせてしまいましたね…」
(俺は……どうしたんだ……?)
周りは暗いから、夜……だろうか?いつ眠ったのか記憶にない。ここは――
「ご主人様?大丈夫ですか?」
声の主は少し俺に近づいて、俺の顔の方へと手を伸ばす。
「――俺を……殺しに、来たのか?」
思わず問うた瞬間、少女は瞳を大きく見開いて固まった。
「…そんな…こと……するわけ、ないじゃないですか!」
「!――シュ、ティレ…?」
大粒の涙を零しながら叫ぶように言う姿を見て、その少女の名が浮かんだ瞬間、自分の状況を唐突に思い出した。
確か昼間、魔法の掛けすぎによる負荷で熱を出して倒れた。それから今まで、眠っていたということか……。
久しぶりにまたお祖母様の夢を見たから、心が乱れていたようだ。
「シュティレ…」
「ご主人様を殺すなんて、出来ません!……私は……私は、ご主人様のことが好きです。大好き………愛…しているんです!ご主人様」
妙な事を言ってしまったから謝ろうとしたが、シュティレの言葉が被さって来た。
その言葉の勢いと内容に気圧されて、俺は言葉を続けられなかった。
(俺はまだ、夢でも見ているのだろうか?)
その割には、妙にリアルな気がする……。
呆然と泣いているシュティレを見ながら、しばし葛藤する。
シュティレの発した言葉が、胸の奥に刺さって、無視出来ない……。嬉しいような、哀しいような……恐ろしいような――。
シュティレは、俺とは違って正直な人間だ。クロを使って心を読もうとしなくても、大体の感情は顔に書いてある。だから今言われたことが、冗談でもその場限りの慰めの言葉でもないことは、すぐに分かった。
だが、こんなに真っ直ぐで純粋な気持ちを受け取る資格は、俺にはない。受け取るにはあまりに穢れている。
自分が生きづらいという理由だけで人を殺し、多少の同情はあれど、結局は俺の都合の為にシュティレを縛り、傷付けた。
――けれど本当は、そういう純粋な愛が、欲しくて欲しくて堪らない。今すぐシュティレの涙を拭って、自分も愛していると伝えて抱きしめてやりたい。抱きしめて、キスをして、それから――
(――駄目だ)
シュティレは世間知らずなだけ。俺しか見ないようにさせたから、俺が最良の相手だと勘違いしているだけだ。
言わばこの愛は条件反射。外の世界を見せれば、シュティレはもっと違う相手を選ぶ。俺が愛されるわけがない……。
「っ!?」
そこまで考えた瞬間、心臓が強く痛んだ。一瞬息が止まる。
――嫌だ……違う誰か……なんて……俺は……
俺はいつから、こんなにシュティレに入れ込んでしまったのだろう?
「……シュティレ……俺は……駄目だ……」
嘘をつくのは得意だ。本心と違う言葉を口にしても、普段の会話と遜色ない自信があった。
けれど……なんだか今は、発する一音一音が重くて苦しい。
「――俺は……愛していない…」
そう口にした瞬間、口の中が、酷く苦く感じた。口に入れるべきではないものを口にした時のような、全身がざわざわと粟立つような感覚……強い嫌悪感に、吐き気がした。まるで毒でも口にしたかのようだ。
シュティレが短く息を吸って、大粒の涙を流す。
シュティレが泣いているのを見るのが、苦しい。涙を止めてあげたいのに、出来ない自分がもどかしかった。
――いや……どの口がそんなことを言うんだ?散々道具として好き勝手シュティレを蹂躙したクセに……シュティレを泣かせているのは俺だ。俺は、シュティレを幸せにはしない。穢すだけだ。今更、善人ぶるのはやめろ。
「――嘘です」
シュティレは震える声で、しかしきっぱりと言い放つ。
「愛していないなんて、嘘です。……だって……泣いているじゃないですか……ご主人様」
(泣いている?俺が?)
思わず自分の目元に手をやると、指が濡れた。その水のような液体は温かく、頬を伝って流れている。
「っ!!」
それを意識した瞬間、何かが弾けた。思考の一切が遮断される……。
気がつけば俺は、シュティレを強く抱きしめていた。
「アダム様…」
名を呼ぶシュティレの声が、酷く耳に心地良い。
「――もっと…」
――名前を呼んでほしい……。
そう言う自分の声は掠れていて、消え入りそうな程小さく、弱々しかった。ひょっとしたら、俺が言ったのではないかもしれない……。
「アダム様」
しかし、シュティレには届いた。その証拠に、シュティレに最初よりももっと優しく、名を呼ばれる。
「…もっと」
「アダム様」
「もっと!」
「アダム様――ッひゃっ!」
堪えきれずにシュティレの首筋にキスを落とすと、シュティレは小さく声を上げて体を震わせた。そのまま今度は唇にキスをすると、シュティレは俺の背に腕を回してしがみついた。唇が離れると、慌てた様子で自分からキスをしてきた。だから、俺もキスを返す……。
そんなことを何度か繰り返すうちに、より思考はぼやけていくのに、体は、次にすべきことを理解しているように、淀み無く動いている。どこか機械的に……しかし確かな熱を持って、シュティレに触れていた。
※
気がつけば、俺はベッドに横になっていた。いつの間にか朝になっていて、カーテンの隙間から朝日が差している。
「…あれ?」
いつ眠ったのだか思い出せない。昨日の出来事を順に思い出しながら体を起こそうとして、左腕が重いことに気がついた。
「――あ…」
自分の隣に、シュティレが眠っている。規則的な寝息を立てる中、布団から覗いている肩が裸なのを見て、唐突に昨夜のことを思い出した。
「しまった…」
思い出しはしたが、細かい記憶が曖昧だ。
酒を飲んだ訳でもないのに、こんなに酩酊することがあるとは思っていなかった。それほどまでに、昨夜は衝動的だったのだろうか……。
それとも、いつも本心を抑え込んでいたせいで、溢れたものが大きすぎたのか――
「……ぅうん……」
考えていると、シュティレが身動ぎしては目を開けた。自然と俺と目が合う。
「…あ…」
シュティレは呟いた後に目を丸くして、しばし固まった。やがて顔を紅くして、布団を頭まで被ってしまった。
「――昨日は……悪かった」
思わず謝ると、シュティレはゆっくり布団から頭を出して、眉を顰める。
「ご主人様は……悪いことをしたのですか?」
「……ああ」
おかしな事を言う奴だ。
「ご主人様……あの……」
「どうした?」
シュティレは不安そうに視線を揺らす。
「……ご主人様も、私と同じ気持ちだから……触れてくれたのかなって…」
「……」
流石に即答は出来なかった。手を出しておいてなんだが、やはりシュティレにとって良くないと思ってしまう。ただ、こうなったのは、俺のせいだ。
「……違い…ますか?」
悲しそうな顔でシュティレが言う。
ああ。そうだ。違う。――そう言ってしまえば良いだけなのに、何故か口が動かない。動かした瞬間泣いてしまいそうだ。
(いけないのに……)
だが、下手に否定なんてすれば、今度こそシュティレが歯向かって来るかもしれないし、ここは同じ気持ちということにしたほうが良いかもしれない――いや、違うな。ずるい理屈を考えるな。昨夜シュティレに見せたのは俺の本心なんだろう?なら、俺の負けだ。潔く認めろ。
悔しいが、いつだかのクロの言葉が現実になってしまったようだ。
「違わないよ。……俺も、愛してる」
答えると、シュティレは目を大きく開いた。綺麗な桃色の瞳が潤んでキラリと光り、やがて涙を零しながら弧を描く。
シュティレは泣きながら、本当に幸せそうに笑った。その笑顔の愛しさに、胸が苦しくなる……。
久しぶりに、心に思った通りに話した気がする。すっきりする反面、妙な罪悪感が湧いてきた。
「良かった…」
シュティレはそう呟いて胸を撫で下ろす。それから起き上がろうとして、不意に動きを止めた。
「どうした?」
「あ、あの……服を、着たいので……少しの間、見ないでいただけますか…」
「ああ…」
昨夜素肌を見せたのだから、もう恥じらう必要はないのではないかとも思ったが、言われた通りシュティレに背を向ける。
背後でする衣擦れの音を聞きながら、自分もベッドの下に落ちていた自分の服を拾い上げて身に着けた。
(駄目だ……やっぱり、あまり覚えていない…)
どんな風にシュティレに触れて、それに対してシュティレがどう反応したのかきちんと思い出せない……いつも目の前の出来事と自分の感情を切り離して俯瞰して見れていたのに……。
昨夜の行動は、かなり理性が欠けていた。欲望のままに、かなり強引に求めてしまったかもしれない。
(シュティレは、辛くなかっただろうか?)
「シュティレ」
「はい」
衣擦れの音も治まっていたので振り返ると、シュティレが俺を見つめていた。体調が悪そうな様子はない。
「昨夜は……その――おまえに…無理をさせなかっただろうか?」
「?」
「……体は、辛くないか?……痛い所とか、ないか?」
「……はい。大丈夫だと…思います」
シュティレは少し考えるようにして言った。
(やはり、無理をさせたみたいだな…)
我ながら情けない。普段はシュティレをからかっていたくせに、いざそうなると配慮もせずに自分の欲を押し付けるとは……。
「……怖くなかったか?」
「はい。……ちょっと、びっくりはしましたけど――ふふ」
答えながら、シュティレは何故か笑った。
「何がおかしい?」
「ごめんなさい。あまりにもご主人様が優しいので、嬉しくて……私、ご主人様を怒らせちゃったかと思っていたので…」
「――悪い。おまえを痛めつけたい訳じゃなかったんだ」
昨夜からの出来事が全部夢であったらと願いたい。だが――
「よかった」
そう言って屈託なく笑うシュティレを、見られて良かったとも思ってしまう。全く……一度解放した俺の想いとやらは、相当に厄介な代物だ。
「シュティレ」
「はい?……っ!」
俺はシュティレの腰に手を回して引き寄せ、唇を重ねた。
(駄目だ……自制が効かない…)
考える前に体が動く。愛とは本当に厄介だな。
「……ご主人様…」
軽く重ねただけなのに、シュティレはとろけた表情で俺を見つめた。
また俺の理性を飛ばすつもりか?この魔女め……。
「そんな顔して……誘っているのか?」
シュティレに負かされっぱなしは癪だったので、強気に言ってみる。
「誘うって……何に…?」
「それは……」
俺はシュティレの腰に回した手を、ゆっくりと下へ伸ばす。尻に軽く触れてから太腿をなぞって、スカートの裾を捲し上げて素肌を撫でた。
シュティレは体を強張らせて驚く。瞳は戸惑うように左右に揺れた。
何をされているのか分からなくても、本能的に嫌悪感なり感じるだろうに、逃げる様子はない。俺が害意を持って触れることは絶対にないと、信じ切っているようだ。
(敵わないな……)
心も体も、俺に差し出したりなんかして――
初めの頃の俺なら、これでシュティレを生涯縛ることが出来るとほくそ笑んだだろう。
しかし今は、単純にシュティレの気持ちが嬉しいのと、シュティレの献身的な態度に責任を感じて苦しいばかりだ。
「昨夜のように、おまえに触れることだ」
言いながら髪を撫でると、シュティレの顔はみるみる朱に染まった。
「…い、今は!……困ります…」
「なぜ?」
「あ、明るくて――恥ずかしい……から…です」
「暗かったら、良いのか?」
赤い顔で小さな声で話すシュティレが愛おしくて、つい意地悪を言ってしまう。
「いや!そういうわけでは…」
シュティレはなんと言ったものかと、思案するように唸った。
ちょっとからかい過ぎたな。ここらで勘弁してやろう。
「悪かった。冗談だよ。今はしないから……あいつらが起こしに来そうだしな」
「そうですか……」
シュティレはホッとしたように息をついた。
本当は、命令で来ないようにすることも出来るが、シュティレを怖がらせたくないし、黙っておこう。
次にシュティレに触れる時は、もっと優しく、愛が伝わるようにしなくては――いや、次なんかがあるかどうか分からないが……。
「シュティレ」
「はい」
「本当に、俺でいいのか?……俺は、良い人間ではない。しつこく追って来るなら、ヒースも殺す。……そんな男でも、一緒に居たいのか?」
「……悪い人なら、たくさん知っています。けれど、ご主人様は、その人達とは違う優しい人です。私が出会った中で一番。それに……私とご主人様は似ています。誰にも一人の人間として必要としてもらえなかった……でも、私はご主人様に名前を貰ったこと、嘘でも優しくしてもらえたことが嬉しくて、幸せでした。今までの辛いことが全て報われた気がしたんです」
「……」
「だからもし、ご主人様が私を"愛している"と言って下さるなら、私がご主人様を幸せにします。誰が何を言っても、ご主人様が悪人だとしても、ご主人様を一人にはしません。私が救われたように、ご主人様にも救われて欲しいです。……ただの私の我儘ですけれど……」
(ああ……敵わない…)
シュティレが、真っ直ぐに俺を見る。シュティレの瞳がこんなに強く輝くのを、初めて見た。いつの間に、こんなに強くなったのだろう?恐らくは、最初からだろうか……。
「――迷惑…ですか?」
けれど再びその瞳はすぐに、不安そうに揺れた。
「……いいや。ただ……おまえのような真っ直ぐな好意に、慣れていないだけだ」
「そうですか」
シュティレは何だか嬉しそうに笑った。
何が嬉しいのか分からないでいると、俺の表情で察したのか、「すみません」とシュティレは謝った。
「ご主人様がかわいいなって、思ってしまって…」
「は?…可愛い?」
ますます分からない。俺の発言の一体どこに、可愛い要素なんてあったんだ?
「ご主人様にも、慣れないことがあるんだなって…」
「おまえ、俺を何だと思っているんだ」
「ごめんなさい。いつも、何でも知っていて自信があるように見えていたので……」
「それは……主人が自信なさげだと、安心出来ないだろうから、極力迷う素振りは見せなかっただけだ。それに、そういう隙は、使い魔の二匹には恰好の餌になってしまうしな」
「……ですが、あの二匹はきっと――」
俺はそこで手を翳して、シュティレの言葉を遮った。外に気配を感じたからだ。
「ご主人様。起きていますか?」
思った通り、クロの声がした。シュティレがビクッと体を震わせる。
そんなシュティレに、大丈夫と頷いて見せ、「起きてるよ」とクロに返事をすると、ゆっくりとドアが開いて、人型のクロが顔を覗かせた。
「――やっぱりそこに居たのね。シュティレ」
少し怒気の滲んだ声音に、シュティレは更に体を固くした。それを見て、クロは吹き出した。
「なんてね!冗談よ」
「へ?」
急な手の平返しに、シュティレが間の抜けた声を出す。
「ご主人様、具合はいかがですか?」
「ん?……そういえば、熱は引いたようだな」
正直、今まで忘れていた。
「どれどれ…」
クロはそう言って俺の側へ来ては、額に手を当てる。
「うん!大丈夫みたいですね。良かった。昨日医者に処方してもらった熱冷ましが上手く効いたようです。ですが念の為、今日は休んでいてください」
「いや、俺はもう…」
「「休んでいてください!」」
クロとシュティレの声が重なった。
「……分かった…」
それで仕方なく頷くと、クロは不思議そうに首を傾げた。
「あら。今日のご主人様は素直ですね。…シュティレ、何かしたの?」
「えっ!?な、なにもっ!」
シュティレはあからさまに動揺して、顔を真っ赤にしている。これはかなり、分かりやすいな。
「何慌ててるの。変な子ねぇ〜」
クロは言いながらちらりと俺を見た。その目は何かを察したようだったが、結局何も言わなかった。
「さて。起きたなら、朝食の支度を手伝って。シュティレ」
「は、はい!」
シュティレは慌ててベッドから出ると、部屋を出て行った。
「あらあら。何をそんなに慌てているのやら…」
置いていかれたクロはくすりと笑う。
そんなクロを見ていると、ふと謝りたくなった。お祖母様の夢を見たせいだろうけれど、今謝られてもクロには何のことか分からないだろう。だから……
「クロ。……いつも、ありがとう」
代わりに感謝を伝えると、クロは目を丸くする。
「ご主人様……やっぱりまだ熱、あります?」
「かもな」
笑って返せば、クロも目を細めて笑った。それから、俺に抱きついて来た。
「ご主人様…」
そう呟いて、俺の胸に顔を埋める。その心底嬉しそうな様子に戸惑いつつも、頭を撫でてやった。
「でしたら、ずっと熱があれば良いですね…」
「俺は嫌だな」
「ふふ……ご主人様。なんだか良いことがあったみたいですね」
「別に…」
「隠さないで下さいよ。私には分かるんですから」
確かに、俺は心を隠せるが、シュティレはそうじゃない。きっとクロには全てお見通しだ。今更取り繕っても遅いが、結局クロの思惑通りになった事実が面白くなくて、そっぽを向いた。
「大丈夫ですよ。私は茶化したりしません。ようやくご主人様が自分の気持ちを認められたようで、嬉しいと思っただけですから……後はもう少し、私のことも信じて下さればいいだけです。……クリスティアーネ様のことはもう、怒ってませんから」
「どうだかな……というかおまえ、いつまでくっついてるんだ。離れろ」
「今朝は寒かったですから、ちょっと温もりが欲しくて……いいじゃないですか。減るものではないですし。……シュティレじゃなきゃ、嫌ですか?」
「……からかわないって言った側から言うんだな」
「ふふふ…」
まあ、クロはこういう奴だ。
言われなくても、俺はクロのことは信頼している。ちゃんと言葉にしていないだけで、きっと俺のほうがクロに依存しているのだと思う。ただ、それを認めたら、今より弱くなる気がするだけだ。
魔物は人間とは違う。気は抜けない。
「あーっ!!なかなか来ないと思ったら、クロだけずるい〜!ボクもいーれーてー!」
ひょっこり現れたシロが叫んで、走ってくる。
「ま、待て。シロ」
そして、俺の静止を聞かずにベッドにダイブしてきた。
「うわっ!」
「ちょっと!」
シロはクロ諸共、俺を押し倒す。
「ふふふ……みんな、仲良しだ〜♪」
シロは嬉しそうに俺やクロに頬ずりする。
本当に最近のシロは益々邪気がない。あの恐ろしいウェルテクスはどこに行ったのやら……。
(俺は……知らないうちに変な魔法でも使ったのか?)
こんなに周りに好かれる理由が分からない。甘やかした訳じゃないし、厳しくしたことも雑に扱ったことだってあるのに、どいつもこいつも、俺に執着し過ぎじゃないか?
確かに使役の魔法は使っているが、これはその範疇を凌駕している……。
「……ご主人様。何だか難しい顔をしてますね」
クロが可笑しそうに俺を見上げる。
「別に」
苦し紛れに素っ気なく返したが、クロは見透かしたように笑みを深くする。
「私がご主人様に拘るのが不思議だと言ったところでしょうか?」
「……」
「ふふ……なら、教えてあげましょう。本当は黙っておこうと思ったんですけど……」
「――何だ?」
つい気になって訊いてしまうと、クロはしたり顔で微笑んだ。
「やっぱり、その事でしたか。……実はご主人様は、使役魔法を使うのが、一番下手なんですよ」
「はぁ?!」
内容が看過できずに大声を上げてしまった。
下手って何だ?今までちゃんと使えて……
「正確に言いますと、使えてはいます。ただ、ご主人様は無意識で、とても強い呪いを掛けるのです。この世で最も強い呪いです」
「……は?」
「自覚がありませんでしたか?いつも言ってるじゃないですか。ご主人様は口で仰るほど、私達を軽視なさらない。常に対等な立場で見て下さるんです。それが、魔力と相まって強い呪いを呼び寄せる…」
「それは、一体……」
「これ以上は、ご自分で気づいて下さい」
「?」
訳が分からない。俺は使役魔法でこいつらを縛ったのだ。他になんのまじないも呪いも使っていない……。
「ご主人様は、人の痛みが分かる人ですからね……」
クロが慰めるように優しい声音で話す。
「……人の痛みが分かる人間が、人を殺すと思うか?」
「そうですね……でも、私はご主人様を止められなかった……だからこそ、一緒に罪を背負います」
「ボクも!」
シロも便乗する。
本当にどいつもこいつも、恥ずかしいぐらいに真っ直ぐだな……いや。俺が歪んでいるだけか。
「おまえら……調子に乗るなよ」
怒ったフリをして、二匹を押し退けてベッドから降りる。
しかし、背後ではクロやシロの忍び笑いがしていた。
心を全て開くのはまだ、出来ない。けれどもう少しだけ……二匹も信じてみても、良いかもしれない。
それが弱さや隙に繋がるのだとしても、これからも生きていくなら、そうしたほうが良い……そうしたいと、願う。
もちろん、それを願ってはいけない人間であることを承知しながら……ではあるが。
俺がいいとずっと言っているコイツらくらいには、隙を見せても良いだろう。流石にもう、全てに気を張るのは疲れた。
それでこいつらに喰われるなら、それも本望だ。
――『愛した相手は、あなたの息の根を止める
死神となることでしょう』
お祖母様に言われたこの言葉は、ずっと呪いのように頭から離れなかった。
昔はただ恐ろしく、やはり俺を受け入れてくれる者などいないのだと絶望した。
しかし、道具達を受け入れると決めた今となっては、また違って聞こえる。
――なんと優しい罰だろう。
愛した相手に殺されるなら、何の恐れも存在しないではないか。
復讐の先に、そんな優しい罰が待っているなら、俺が生きた甲斐も、少しはあるのかもしれない。
ただ、俺が死んだ先に残されるコイツらのその後も考えてやらないといけない。特に、シュティレ。
あの感じなら、シュティレが俺に牙を向くことはないし、最悪、後追いで死にかねない。
(当分は死ねそうにないな…)
そう思うのはなんだか、擽ったくなるような甘さがあって……なぜだか少し、心が軽くなった心地がした。
お読み頂き、ありがとうございました。
ようやく、アダムが祖母を殺した経緯や、アダムが頑なに心を閉ざしていた理由が語られました。
それを踏まえ、アダムがこれからどうするのか、見守って下されば幸いです。




