王女として
---窓辺に、やわらかな光が落ちていた。
白いカーテンが、風に揺れる。
その向こうに広がる庭では、近衛騎士たちの訓練が行われていた。
剣がぶつかる音。
短い掛け声。
規則正しい足音。
その中に、見慣れた二つの姿がある。
青銀の髪が揺れる。
それを追うように、黒髪の青年が動く。
息の合った動き。
背中を預けるような距離。
言葉なんて、いらないみたいに。
「……相変わらずね」
小さくこぼれた声は、風にさらわれて消えた。
エリシアは、そっと窓枠に手を置く。
触れているのは、冷たい石。
けれど視線の先にあるのは、温度のある場所だった。
楽しそうに笑うリゼ。
それを見て、ほんの少しだけ口元を緩めるクロード。
その距離に、迷いはない。
(いいな)
ふと、そんな言葉が浮かんで、
自分でも驚いた。
羨ましい、なんて。
そんな風に思ったことはなかったはずなのに。
「……変ね」
小さく笑う。
でも、その笑みはどこかぎこちない。
昔は、あの中に自分もいた。
名前を呼べば、すぐに振り返ってくれて。
当たり前みたいに、隣にいられた。
――けれど、今は違う。
立場も、距離も、すべてが変わった。
「エリシア様」
後ろから声がかかる。
振り返ると、侍女が一礼していた。
「本日のご予定ですが――」
「ええ、わかっているわ」
言葉を遮るように、静かに微笑む。
王女としての顔。
それは、もう随分と馴染んでしまった。
「……今日だったわね」
エリシアの、17歳の誕生日を祝う式典。
そして、夜には、王家主催の舞踏会。
もう一度だけ、と
エリシアは視線を窓の外へ向けた。
剣を交える二人。
その少し離れた場所に――
もう一人、立っている影。
青い髪。
金色の瞳。
誰よりも冷静で、誰よりも遠い人。
(……ゼン)
名前を呼ぶことは、しなかった。
呼んでしまえば、何かが崩れてしまいそうで。
ただ、見つめる。
届かない距離のまま。
風が、そっと吹き抜ける。
カーテンが揺れ、光が揺れる。
あの日と同じ風。
何も知らなかった頃、ただ笑っていられたあの時間の名残。
エリシアは、ゆっくりと目を細めた。
「……好き。」
誰にも聞こえないほどの、小さな声。
けれどその言葉は、
自分の心は、誰にも聞こえずに、宙に消えた。
エリシアは、ふ、と諦めにも似たような笑みをこぼし、侍女の方へと振り返る。
もう一度、窓の外を見ることはなかった。
ドアへ向かって歩き出す。
その背中に、迷いは見せない。
王女としての一歩。
けれどその胸の奥で、
消えない名前が、静かに残り続けていた。
風が、また吹いた。
まるで――
あの日の続きを、そっとなぞるようように、、、。
ーーー
ーー
きらびやかな音楽と笑い声が満ちる広間を抜け、エリシアはバルコニーへと出た。
夜風が、熱を帯びた頬をそっと撫でる。
昼間の式典では、主役として前に出て、ひどく疲れたというのに、休む間もなく夜の舞踏会にも主催者側として参加しなければならない。
せめて、束の間の息抜きをさせてほしかった。
「……ふぅ」
小さく息を吐く。
視線を戻せば、広間の中央。
ゼンが、令嬢たちに囲まれていた。
楽しげに笑い、言葉を交わすその姿は、どこから見ても“理想の貴公子”で。
――遠い人。
ふと、目が合った。
一瞬だけ、表情が緩む。
エリシアは、ひらりと手を振った。
するとゼンは、ほっとしたように息をつき、そのままこちらへ歩き出す。
彼を囲んでいた令嬢たちは、その行き先にエリシアの姿を見つけると、慌てたように身を引いた。
バルコニーの扉が開く。
夜の静けさが、二人を包んだ。
「ふぅ。助かったよ。ありがとう」
柔らかく笑うその顔に、
胸の奥が、少しだけ痛む。
「……相変わらずモテモテなのね」
軽く返した言葉に、ほんの少しの棘を混ぜる。
それに気付いたのか、気付かないふりをしたのか、
ゼンは一瞬だけ言葉を探すように視線を揺らした。
そして、
「エリシア様。17歳の誕生日、おめでとうございます」
――その呼び方。
その一言で、胸の奥が、静かに軋んだ。
17歳。
この国では、大人とされる年齢。
2人の姉も、この年に婚姻した。
そして当然のように、
自分にも、縁談が来ている。
(知っているでしょう……?)
どうして、何も言ってくれないの。
どうして――
昔みたいに、名前を呼んでくれないの。
「……」
言葉が出ない。
代わりに、じっとゼンの顔を見る。
何か言いたくて。
何かを待つように。
「エリシア様?」
不思議そうに呼ばれるその響きに、
胸の奥が、きゅ、と締めつけられる。
(その呼び方、やめて)
でも、言えない。
言えるはずもない。
「エリシアー!あ、兄様もいたのね!」
軽やかな声が、その空気を切り裂いた。
振り返ると、駆け寄ってくるリゼ。
水色のドレスに、肩までの青銀の髪。
どこから見ても公爵令嬢なのに、その笑顔は昔のまま変わらない。
「リゼ。ドレスを着て走るな」
ゼンはわざとらしく視線を逸らし、リゼに向き直る。
逃げるように。
「クロードは一緒じゃないのか?」
「知らないわよ。どうしてみんなクロードの居場所を私に聞くわけ?」
うざったそうにそう言って首を振るリゼに、エリシアは笑う。
「あなたたちいつも一緒にいるじゃない。」
「あいつがついてくるのよ。」
それより、とリゼ。
「兄様、向こうにリリアンがいたわよ!」
その名前が出た瞬間。
ほんのわずかに、ゼンの視線が揺れた。
(……ああ)
わかってしまう。
追いたくなんてないのに、その視線の先を、追ってしまう。
そこにいるのは――
かつて、ゼンが好きだった人。
今は、侯爵夫人となった女性。
『好きよ、ゼン。大好き!』
幼い日の、自分の声。
『ありがとう、エリシア。でも、ごめん。好きな人がいるんだ』
困ったように笑っていた、あの時のゼン。
(……まだ、好きなの?)
胸の奥に、静かに沈む問い。
「エリシア様。国王陛下と王妃様がお呼びでございます」
現実に引き戻す声。
「……ええ」
微笑みを貼り付ける。
王女としての顔。
そのまま一歩踏み出し、二人に軽く会釈する。
リゼはそのままクロードを見つけて、何やら言い合いを始めていた。
その光景に、自然と笑みがこぼれる。
――あの二人は、変わらない。
最後に、もう一度だけ、ゼンを見る。
けれどその視線は、すでに自分ではなく、広間の奥へと向けられていた。
フラン侯爵の隣に立つ、ひとりの女性へ。
「……」
何も言わず、エリシアは視線を外す。
夜風が、静かに吹き抜けた。
「エリシア様、こちらへ」
侍女に導かれ、エリシアは静かに歩を進めた。
今一度、息を整える。
――王女として。
そう言い聞かせてから、顔を上げた。
そこにいたのは、国王と王妃。
そして――
見知らぬ青年が一人。
薄く色づいたような檸檬色の髪
整えられた装い。
無駄のない立ち姿。
その場にいる誰よりも落ち着いて見えるのに、視線だけが、まっすぐこちらを捉えていた。
「紹介しよう。こちらが――」
父の言葉を待つまでもなく、その青年は一歩前へ出る。
そして、静かに膝をついた。
「エリシア・L・ロザリア様にご挨拶申し上げます」
よく通る、穏やかな声。
ゆっくりと顔を上げたその瞳は、一切逸れることなく、エリシアを見つめていた。
逃げ場のないほど、まっすぐに。
「レオン・アルディスと申します」
その名を聞いた瞬間、
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
(この人が――)
縁談の相手。
そう理解するよりも先に、その視線の強さに、息を呑む。
「……顔を上げてください、レオン」
なんとかそれだけを口にする。
レオンは静かに立ち上がり、ほんのわずかに距離を保った。
近すぎず、遠すぎない。
踏み込みすぎない、その立ち位置。
「本来であれば、正式な場を設けるべきでしたが」
レオンが口を開く。
「どうしても一度、先にお会いしたく、無礼を承知でこのような機会を頂戴いたしました」
その言葉に、父と母が嬉しそうに顔を見合わせた。
「なんと誠実な方だ」
「ええ、本当に。エリシア、素敵な方でしょう?」
楽しげな声。
期待に満ちた視線。
それが、自分に向けられている。
「……ええ」
エリシアは、微笑む。
王女として、正しい反応。
けれど、胸の奥は、静かに沈んでいた。
(……どうして)
こんなにも“正しい人”なのに。
どうして、こんなにも――苦しいのだろう。
「エリシア様」
レオンが、名を呼ぶ。
その響きは丁寧で、優しくて、
ちゃんと“自分”を見ている。
それなのに。
ふと、
視線が、逸れた。
意識したわけじゃない。
ただ、自然に。
その先に――
見えてしまったから。
広間の奥。
フラン侯爵の隣で、言葉を交わす一人の男。
青い髪。
金色の瞳。
(……ゼン)
楽しげに会話をしているように見える。
穏やかに、微笑んで。
その横顔は、いつもと変わらないのに。
どうしてか、距離を感じた。
遠い。
届かない。
――その時。
ふいに、ゼンの視線が、こちらを向いた。
一瞬だけ。
ほんの、一瞬だけ。
エリシアと、目が合う。
その瞳が、わずかに揺れた気がした。
けれどすぐに、何事もなかったかのように、また別の方へと視線を戻す。
(……気のせい?)
わからない。
わかるはずもない。
「エリシア?」
母の声に、はっとする。
「正式な顔合わせの場も、すぐに用意しましょうね」
嬉しそうな声音。
否定する理由なんて、どこにもない。
否定できる立場でもない。
「……はい」
それしか、言えなかった。
その間にも、レオンはずっとこちらを見ていた。
焦らず、急かさず、
ただ、静かに待つように。
(……この人は)
きっと、間違いなく、優しくて誠実な人なのだろう。
まっすぐに、エリシアを見ている。
――それなのに。
どうしても、目が、探してしまう。
もう一度。
ほんの一瞬だけでもいいから。
あの人の方を。
ーーーー
広間のざわめきが、やけに遠く聞こえる。
笑い声も、音楽も、すべてが薄い膜の向こう側みたいにぼやけていた。
「――ゼン殿?」
呼びかけられて、はっとする。
目の前にはフラン侯爵と、その夫人。
何かを話していたはずなのに、内容がまるで頭に入っていない。
「……失礼しました」
いつものように微笑む。
崩れない仮面。
それなのに、意識だけが、別の場所にあった。
――エリシア。
名を呼ぶことはしない。
できるはずもない。
視線だけが、無意識に、その姿を追っていた。
王族席の近く。
両親に囲まれて、
そして、その隣に立つ男。
(……あれが、縁談の相手か)
一目でわかる。
立ち居振る舞い。
視線の置き方。
無駄のない距離感。
――隙がない。
「……いい男だな」
ぽつりと、誰にも聞こえない声が落ちる。
皮肉でもなんでもない。
事実だった。
ああいう男が、
エリシアの隣に立つべきだ。
身分も、
立場も、
何もかもが釣り合っている。
(俺とは違う)
その考えは、あまりにも自然に浮かんだ。
違和感すらない。
だからこそ――
厄介だった。
ふいに、エリシアがこちらを見る。
一瞬だけ、視線が重なる。
その瞳に映ったのが、自分だったのか、
それとも――
確かめる前に、ゼンは視線を逸らした。
見てはいけないものを見たように。
(……やめろ)
心の奥で、誰かが制止する。
それ以上、踏み込めば、戻れなくなる。
「ゼン殿。」
再び呼ばれる。
今度はちゃんと、意識を戻す。
「申し訳ありません。少し考え事を」
「いえ、それより――あちらをご覧に?」
フラン侯爵の言葉に、視線を向ける。
その先。
エリシアが、両親と、そしてあの男と並んでいる。
嬉しそうな王妃。
満足げな国王。
そして、
静かに微笑むエリシア。
――完璧な光景だった。
誰が見ても、祝福すべき場面。
非の打ちどころなんて、どこにもない。
(これで、いい)
そうだ。
これでいい。
これが、正しい。
エリシアは、
ああして笑っていればいい。
それを守るのが、自分の役目だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
(……それで、いいはずだろ)
胸の奥で、何かが軋む。
押し込める。
見なかったことにするみたいに。
その時。
ふと、
エリシアの唇が動いた。
距離があるから、声は聞こえない。
けれど、その形だけは、はっきりと見えた。
――「はい」
その一言で、すべてが決まったのだと理解する。
縁談が進む。
あの男が、エリシアの隣に立つ。
(……そうか)
静かに、息を吐く。
不思議と、驚きはなかった。
覚悟していたことだから。
ずっと前から、わかっていたことだから。
「ゼン殿?」
「……いや、何でもない」
微笑む。
完璧に。
何一つ、乱さずに。
けれど、
その奥で。
ほんの一瞬だけ、
掴み損ねた何かに手を伸ばすように、
指先が、わずかに動いた。
――触れることは、ないと知りながら。
ーー
少し、2人でお話でもしてきたら?
王妃の言葉に、レオンは嬉しそうにエリシアに手を差し出した。
「王女、お手を。」
断る理由もなく、エリシアはその手を取る
「少し、庭を散歩しませんか?王女がよろしければ、ですが。」
どこまでも紳士的で、強引さのかけらもないレオンの人柄に、エリシアはふ、と微笑んだ。
優しい人なのね。
そして、そのまま広間を出る。
その姿を、ゼンが見ていたことに、エリシアが気付くことはなかった。
「、、、私のことを、覚えていませんか?」
庭園に出てしばらく歩くと、ふいに、レオンがそう言って足を止めた。
エリシアも驚いて立ち止まる。
「ずっと昔に、会ったことがあるんですよ、私たち。」
レオンの言葉に、エリシアは戸惑ったように瞳を揺らした。
「どこかで、お会いしたかしら、、、?」
エリシアの言葉に、少し寂しそうに微笑みながら、それでもエリシアのことをまっすぐに見て、レオンは続ける。
「、、、昔、ロザリアで開かれた舞踏会に、父上に連れられて参加したことがあるんです。その時、まだ幼かった君が、私にハンカチを貸してくれた。」
「、、、ハンカチを?」
レオンは、思いを馳せるように、目を細める。
「私の母上は、私が小さかった頃に病気で亡くなっていて、今の王妃は父上の後妻なんです。」
「君に初めて会った頃、その新しい母が王妃として王宮に来たばかりで、、、。その人を母と呼ぶことができずに、家族の中で私だけが馴染めずに、いつも寂しくて、泣いてばかりいたんです。」
エリシアは、レオンの話を聞きながら、必死に思い出そうと記憶を探る。
「その日も、舞踏会の隅で私は1人でした。一緒に参加した兄たちは昔から社交的で、新しい王妃ともうまくやれていたから、すぐに舞踏会の中に消えてしまってね。私は馬車から降りるときに転んで怪我をしてしまって、それを誰にも言えずに端の方でただ舞踏会が終わるのをじっと待っていました。そんな私に、声をかけてくれたのが君でした。」
ーーー
ー
『大丈夫?』
誰も気付かなかったのに、私が怪我をしていることに気付いた君は、
『これを使って。返さなくていいからね。』
そう言ってハンカチを差し出した。
ーーー
ーー
「それから私は、色々なパーティで君を見かけるたびに、ずっと君の姿を探すようになりました。」
「、、、ごめんなさい、私覚えていなくて、、、。」
いいんです。
ふ、と微笑んだレオンは、
「、、、君のことをずっと見ていたから、君が誰を見ているかすぐに気付きました。」
そして続くその言葉に、今度こそエリシアは目を見開いた。
「それでも僕は君を選びました。君に選んでほしくて、君に相応しい男になりたくて、たくさん勉強もしました。王妃とも、今では家族としてうまくやれています。」
それで、今日やっと、君の婚約者候補として、ここに来ることが叶いました。
そう、嬉しそうに話し終えると、レオンはふぅ、と息を吐き、そして再び歩き出す。
そんなレオンの背中を見つめ、エリシアはただ胸が痛かった。
そんなに昔から。
ずっと自分のことを想ってくれていた人がいる。
"私"を。
"私だけ"を想ってくれていた人。
エリシアにはわかる。
好きな人に好きと言えない苦しさも、振り向いてほしい切なさも、、、。
「覚えていなくても仕方ありません。きっと君にとっては当たり前のことだったのでしょう。でも忘れないでください。君に救われた男がいることを。」
レオンのその言葉に、エリシアは涙が込み上げそうになるのを必死に我慢する。
そして、
(この人を、選ぶべきだ。この人を選べは私は、、、。)
目を瞑ればエリシアの脳裏に、青銀と金が浮かぶ。
(忘れなくては。王女として。)
(そして私はこの方を選ぶ、、、)
エリシアは静かに顔を上げ、レオンの背中を見つめた。
ーーー
ー
式典と舞踏会も無事に終わり、ゼンは疲れた顔を誰にも見せまいと、王宮に用意されている自分の部屋へと急いでいた。
その時、「ゼン。」
ふいにかけられた声に、足を止めた。
「、、、ルシウス。」
見知った顔に、ゼンの表情が緩む。
「ちょっと茶でもしようぜ。」
ゼンの部屋。
本来のゼンの住まいはクラウディア公爵家にあるが、宮廷護衛隊総長としての任についている手前、城の中にも執務室とはまた別の、ゼンの部屋が用意されている。
開け放された窓から夜の風が入ってくる。
「お前はほんと、昔から女にモテるよな。」
ルシウスがそう言って部屋の隅にある椅子に腰をかけた。
舞踏会で令嬢たちに囲まれていた様子を見ていたのだろう。
普段は国王軍第3近衛騎士団団長としての責務を全うするこの男も、旧知であるゼンの前では年相応の青年に戻る。
「、、、お前の妹とお前の弟子は今日も仲良く喧嘩してたぞ。」
その言葉に、ゼンは苦笑する。
「ほんとに、世話をかける。」
気持ちが通じ合ったはずなのに、あの子たちは相変わらずよく喧嘩をする。
しかし、それは以前のように互いの距離感を測りかねて拗れるようなものではなく、言うならば、喧嘩するほど仲がいい、というそれで。
ゼンは、自分によく似た顔の妹と、弟子というならそうであり、本当の弟のようにも思っている少年を思い浮かべて優しい笑みを溢した。
「それそれその顔。その顔だよ。お前ほんとその顔で何人の女を泣かせてきた。」
「人聞きの悪いことを言うなよ。身に覚えがないな。」
冗談、そう言いながら笑うルシウス。
束の間の休息。
その時、部屋の扉がノックされた。
「どうぞ。」
とたん、宮廷護衛隊総長の顔に戻るゼン。
ルシウスも、近衛騎士団団長としての顔に瞬時に切り替える。
「総長、お休みのところ申し訳ありません。国王が、取り急ぎ話がしたいと、執務室にてお待ちであります。」
国王が?
約束も何もないのに、国王が訪ねてくる。
その事実に、戸惑うように揺れるゼンの瞳。
しかしその感情の揺れも一瞬で、ゼンは冷静に立ち上がった。
「、、、ゼン。」
「ああ。お前も同席してくれ。」
執務室の扉を、静かに叩く。
「入れ。」
中から聞こえたのは、紛れもなく国王の声。
ゼンは、ふぅ、と息を整えると、ギィ、とその重い扉を開けた。
部屋の中には、国王直属の護衛隊、第一騎士団の面々。部屋の後ろには、第二、第三の近衛騎士団の団長、副団長。
1番後ろには、今や第三騎士団副団長に昇格した、クロードの姿を見つける。
そして、その中央に、国王の姿があった。
エリシアの父親であり、ロザリア王国の国王であるその人は、エリシアによく似た、優しそうな目をしている。
「国王陛下にご挨拶申し上げます。」
腰を低く落とし、挨拶をする。
国王は、うむ、と低く返事を返すと、急にすまない、と言いながら、話を始めた。
「宮廷護衛隊総長、ゼン・クラウディア。今日は、将来クラウディア公爵家を継ぐであろう貴殿のこれからの在り方を話したいと思ってな。」
その言葉に、は、と息を呑む。
「貴殿もすでに知っていると思うが、我が末娘、エリシアももう17歳だ。隣国のアルディス王国の王子との縁談の話が持ち上がっておる。」
ズキ、と痛む胸に気付かれないよう、顔を低く下げた。
「存じております。誠におめでたいことと存じます。」
ゼンの返事に、満足そうに笑った国王は、さらに言葉を続けた。
「貴殿も今年で24になるな。公爵家を継ぐのであれば、宮廷護衛隊総長を退き、公爵家跡取りとして父上の仕事を学ぶのも時期相応か、と妻と話しておったのだ。」
、、、ゼンの表情は、誰にも見えなかった。
ただ、ルシウスは、恐らく気付いていたと思う。
クロードの隣、1番後ろで、心配そうにゼンの様子を見ていた。
「、、、お心遣い、恐れ入ります。誠にありがたく存じます。しかし、お言葉ですが陛下。今の護衛隊には、まだまだ未熟な者も多く、私が育てたい人材もおります故、今すぐには、、、」
「わかっておる。しかし、先ほども言ったがお前ももう24になる。長らく我が国王軍の護衛隊としてみなの先頭に立ってくれておったが、そのせいでお前の人生の幸せを奪ってしまっていると、妻が心を痛めておってな。」
国王の妻。
エリシアの母親。
つまりロザリア王国の王妃、クリスティーナは、ゼンとリゼの母親、クラウディア公爵夫人とはそれぞれが貴族令嬢であった頃からの親友で、小さな頃から自分とリゼをとても気にかけてくれていた。
「これからの身のあり方を、一度よく考えてみるのも悪くないと思ってな。」
その時、それまで国王の話を黙って聞いていた騎士団の面々が、ザワザワと騒ぎ出した。
そして。
「陛下。僭越ながら、申し上げます。」
最初に言葉を発したのはルシウスだった。
「我ら近衛騎士団としては、総長を、、、ゼン・クラウディア様を、このまま宮廷護衛隊総長としてお留めくださることを望みます。」
空気が、わずかに揺れた。
「私も、、、。私も、総長にはこのまま護衛隊総長として我らの指揮をとって頂きたいと思っております。」
「今の王宮の守りは、総長を中心に回っております。」
「近衛騎士団だけではありません。他の騎士団、兵団との連携も、全て総長あってこそです。」
ルシウスの言葉を皮切りに、1人が言えば次が続く。
「現場の判断、統率力、戦闘力、、、どれを取っても、代わりなどいません!」
「我々は、総長のもとで戦いたい!」
その言葉は、願いというよりーー確信だった。
「総長がいなくなれば、この国の守りは確実に揺らぎます。」
誰かが最後に言ったその言葉に、みなの脳裏に過ったのはあの戦場。
ロザリア国王側から1人の死者も出すことなく終結させたのは、紛れもなくゼンの戦闘力と統率力があってこそだった。
沈黙。
重い、沈黙だった。
ゼンは、何も言わない。
ただ、前を見据えている。
その横顔は、いつもと変わらなかった。
「、、、クロード。」
それまで黙ってみんなの言葉を聞いていた国王の視線が、1人の青年に向く。
「お前はどう思う。」
当然名前を呼ばれたクロードは、一瞬だけ息を止めた。
拳を握る。言葉が、喉に引っかかる。
「、、、総長がいなければ、困ります」
クロードの中には、色々な感情が絡み合っていたが、絞り出せた言葉は、それだけだった。
本当は違う。
本当は、そんな単純な話じゃない。
でも、それ以上は――言えなかった。
リゼの顔が、一瞬よぎる。
エリシアの存在も。
それでも、クロードは目を伏せるしかなかった。
沈黙が、さらに重くなる。
その時。
「……皆の言いたいことは、よくわかった」
国王が、静かに口を開いた。
ゆっくりと、椅子から立ち上がる。
その視線が、ゼンへと向けられる。
「ゼン・クラウディア」
名を呼ばれる。
それだけで、空気が張り詰める。
「お前がこの国にとって、どれほど重要な存在か」
「それは、私が一番理解しているつもりだ」
一歩、歩み寄る。
「正直に言おう」
ほんのわずかに、息を吐く音。
「――できれば」
その言葉に、全員の意識が集中する。
「私としても、このまま、総長としてこの国を支えてほしい」
それは命令ではなかった。
だが。
命令よりも、重かった。
「お前がいなければ、この国は困る」
静かに、しかし確かに突きつけられる現実。
「だが――」
国王は、そこで言葉を切った。
「それは“王としての願い”だ」
わずかに、視線が和らぐ。
「一人の人間としてのお前の人生を、縛るものではない」
その言葉に、空気が揺れた。
優しさだった。
逃げ道を与える、優しさ。
けれど。
だからこそ――残酷だった。
選べ、と言われている。
国か。
それとも――
ゼンは、何も言わない。
ただ、静かに目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、ひとつの光景。
金色の髪。
青い瞳。
笑った顔。
泣きそうな顔。
(……エリシア)
胸の奥が、軋む。
宮廷護衛隊総長としてこのままここに立つか、退いてクラウディア公爵家の跡取りとして父上の隣に立つか。
どちらを選んでも、隣にエリシアはいない。
ゆっくりと、目を開く。
「……陛下」
低く、落ち着いた声。
「過分なお言葉、ありがとうございます」
ーーー
ーー
廊下は、静まり返っていた。
高い天井に足音が小さく響く。
窓から差し込む光が、磨き上げられた床に淡く揺れていた。
レオンと話して、決意を決めた。
でもその前に、もう一度だけ、ただのエリシアとして、ゼンと話をしたかった。
執務室の前で、足を止める。
ノックをしようと手を出しかけたとき、扉の向こうに、人の気配を感じてその手を止めた。
――声が、聞こえた。
「…… 我ら近衛騎士団としては、総長を、、、ゼン・クラウディア様を、このまま宮廷護衛隊総長としてお留めくださることを望みます。」
近衛騎士団の誰かの声。
続いて、別の声。
みんなが口々に、ゼンを引き止めるような言葉を紡いでいる。
(、、、え?なに?何の話を、、、?)
エリシアは、聞いてはいけないと思いながらも、扉一枚隔てた先で発せられる会話に耳をすませた。
そして。
「総長がいなくなれば、この国の守りは確実に揺らぎます。」
(……え)
息を潜める。
――足が動かない。
ゼンがいなくなる?
不安と、それと同時に絶対にありえない僅かな期待に胸が揺れる。
舞踏会で一瞬目が会った気がした。
気のせいだと思っていたけれど、もしかして、、、。
しかし、僅かな期待は次の瞬間打ち砕かれる。
「ゼン」
低く、穏やかな声。国王だ。
「私としても、このまま、総長としてこの国を支えてほしい」
静寂が落ちる。
胸が、どくん、と鳴った。
(……ゼン)
名前を呼びたい衝動を、飲み込む。
沈黙。
ほんの数秒のはずなのに、永遠みたいに長く感じた。
その間に、いくつもの願いが胸をよぎる。
祈るように、目を閉じた。
そして――
「、、、承知しました」
長い沈黙の後、ゼンの声が、聞こえた。
ようやく絞り出したかのようなその声は、
いつもと同じようでいて、ほんのわずかに、低かった。
(ああ)
その声を聞いた瞬間、エリシアの胸の奥で、何かが音もなく崩れた。
「ありがとう、ゼン」
安堵したような国王の声。
それに重なる、騎士たちの気配。
でも、そのどれもが、遠い。
世界が、急に色を失ったみたいだった。
(そっか)
わかっていた。
彼の立場も、責任も。
誰よりも知っていたはずなのに。
――それでも、どこかで期待していた。
(……私、何を期待してたんだろう)
小さく息を吐く。
声を立てないように、ゆっくりと踵を返す。
扉に背を向ける。
(忘れよう)
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
(ちゃんと、忘れよう)
王女として。
この国のために。
選ばれるべき道を、選ぶために。
胸の奥でまだ疼く痛みに、そっと蓋をする。
「……」
振り返らない。
振り返ったら、きっと戻れなくなるから。
そのまま、静かに廊下を歩き出した。
ーーーー
ーー
執務室を出た後、ゼンの足は止まらなかった。
ただ、一人になりたかった。
部屋に向かうでも屋敷に帰るでもなく、ただ、夜風に当たりたかった。
気付けば、人気のない回廊に出ていた。
窓の外には、夜の庭。
風が、静かに木々を揺らしている。
そこで、ようやく足が止まった。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
先ほどの、国王の言葉を思い出す。
国王の言葉は善意で、その裏には余計なものは何もない。
ただ、本当に、ゼンの将来を思っての発言だと、わかっている。
わかっているからこそ、辛かった。
今自分が宮廷護衛隊から離れれば、それは余計にエリシアとの距離が開くということ。
壁に手をつく。
指先に、力が入らない。
、、、昔は、ただ、王女として、妹のような存在として、気にかけていただけだった。
だけどいつの間にか、かけがえのない、大切で大事な存在になっていた。
あの笑顔に、今どうしようもなく会いたいと思ってしまう。
声が、聞きたい、と。
そこまで考えて、自嘲のように、口の端が歪む。
本当はわかっている。
自分が何を選ぶべきか。
何を優先するべきか。
そんなことは、考えるまでもない。
この国を守ること。
そのために剣を取った。
そのためにここまで来た。
今さら、それを手放す理由なんてない。
エリシアのことが大事だ。
幸せになってほしいと、心から願ってきた。
身分が下の自分より、同等か格上の相手と一緒になって幸せになってほしいと。
そう、思う端から、思い浮かぶのは、やはりあの顔ばかりだった。
笑った顔。
拗ねた顔。
泣きそうな顔。
その顔を1番近くで、自分にだけ向けてほしいと、そんな独占欲にも似た感情に押しつぶされそうになるのを必死に抑えていた。
“ゼン”と、呼ぶ声。
昔と変わらない呼び方で、何も知らないみたいに、無邪気に。
(知らないわけがないだろ)
全部、知っているくせに、それでも、ああやって笑う。
ああやって、隣に立つ。
「……っ」
痛みが、少しだけ現実に引き戻す。
あの時、目が合った気がした。
エリシアの隣に立つ男を思い出して、胸が、強く締め付けられる。
そして、エリシアの手を引く、その姿。
自分は、触れることも叶わないのに、、、。
「……兄様!」
そのとき、酷く焦った声でリゼが走ってきた。
「エリシアが、いなくなっちゃったの!」
「さっき、執務室の前にいたのを見た人がいるんだけど、その後部屋に戻ってなくて、、、!」
ゼンの、顔色が変わった。
まさか、先ほどの国王との話を、聞いていたのか?
目を閉じる。
「……エリシア」
無意識に、名前が零れる。
はっとして、息を止める。
リゼには聞こえていない。
それでも、どこか後ろめたさが残る。
“様”をつけなかった。
ただ、それだけのことなのに。
それだけのことが――こんなにも重い。
ゆっくりと、拳をほどく。
(……考えるな。)
ここで終わらせればいい。
このまま何も言わない、何もしなければ、全部丸く収まる。
それが、一番いい。
……なのに。
ゼンは、ゆっくりと、顔を上げた。
夜の庭に、風が吹いている。
ざわり、と木々が揺れる。
その音を聞いた瞬間。
ふと、思い出した。
あの場所。
あの日、幼い少女が、誰にも見つからないと笑っていたあの場所。
根拠なんてない。
でも、確信に近い何かがあった。
ゼンは、静かにその場を離れた。
リゼが何か言っていたが、ゼンの足は止まらなかった。
夜の庭に、
風が、木々の間をすり抜ける。
ざわり、と葉が揺れる音だけが、やけに大きく響く。
ゼンは、歩いた。
幼い頃。
かくれんぼで遊ぶたびに、エリシアがよく隠れる場所があった。
リゼたちが、エリシアが見つからないと、剣の稽古をしている自分を呼びに来ては、探すのを手伝わされた。
見つけたのは、いつもゼンだった。
リゼもクロードも知らない場所。
あの頃、ゼンが見つけるたびに、拗ねたように頬を膨らませて、それでも嬉しそうに笑っていた。
『秘密よ。この場所はリゼたちには教えてはダメよ。』
――忘れるはずがない。
古びた扉の前で、ゼンは足を止めた。
ゆっくりと手をかける。
軋む音。
扉が、静かに開いた。
そこに、いた。
月明かりの差し込む小さな空間。
膝を抱えて座り込む、ひとつの影。
気配に気付いたのか、顔が上がる。
揺れる金の髪。
そして――青い瞳。
「やっぱり……ゼンには見つかっちゃうのね」
どこか、諦めたような声だった。
でもその奥に、確かに滲んでいるものがある。
ゼンは一歩、踏み込む。
「……ここだと思った」
それだけ言って、隣に腰を下ろした。
少しの沈黙。
風の音だけが、二人の間を通り抜ける。
「どうして来たの?」
ぽつり、と落ちた言葉。
責めるでもなく、ただ静かに。
「私、あなたを忘れるためにここに来たのに」
「来ちゃったら……忘れられないじゃない」
胸の奥が、鈍く痛む。
わかっていた。
わかっていて、来た。
「……ごめん」
それしか言えなかった。
エリシアは小さく笑った。
泣きそうな、笑い方だった。
「ずるいわね」
「謝るなら、来なければよかったのに」
返す言葉が、見つからない。
目を逸らした先で、月光が床に落ちている。
白く、冷たい光。
(ここで、何も言わなければいい)
そうすればいい。
このまま、何も変えなければ。
エリシアはきっと、正しい道を選ぶ。
王女として、ふさわしい相手と、きっと幸せになる。
それが、正しい選択だ。
でも。
隣にいる温もりが、近すぎる。
「……ゼン」
名前を呼ばれる。
昔と変わらない呼び方で。
心臓が、跳ねる。
時間が、止まったようだった。
ゼンは、息を飲む。
言うな。
なにも、言うな。
そう思うのに。
「私、レオンとの縁談、受けようと思うの。」
ズキン、と胸が痛む。
「私は王女だから。王女として、ちゃんと選ばなきゃいけないの。わかってる」
胸の奥を、抉られる。
「だから、忘れようと思ったの」
ぽつり、と落ちる声。
「あなたを」
わかっていたけれど、実際に本人の口からその言葉を聞くのは、心臓をナイフで抉られるように痛かった。
ゼンは伸ばしかけた手を、ぐっと握りしめる。
「俺は、、、っ」
言葉が詰まる。
言ってはいけない言葉を必死に飲み込んだ。
本当は引き留めたかった。
今すぐにでも、抱き締めたいのに。
「俺は――」
言いかけて、止まる。
立場。
責任。
何も言わないゼンを横目で見て、エリシアは寂しそうに瞳を揺らした。
「……なにも、言ってくれないのね。」
切なそうに、微笑む。
その顔を見た時、ゼンの中で抑えていた何かが崩れた。
「、、、エリシア」
呼んでいた。
“様”をつけずに。
はっとしたように、エリシアの目が見開かれる。
「……エリシア」
もう一度、呼ぶ。
逃げ場なんて、もうなかった。
名前を呼んだきり、言葉を発しないゼンは、ただエリシアの目をまっすぐ見ていた。
言葉を探しているかのように。
続く、静寂。
ただ見つめ合う時間。
「……ずるい」
最初に言葉を発したのはエリシアだった。
震える声。
「そんな顔されたら、、、」
エリシアの目にあふれた涙がこぼれた。
その顔に、胸が締め付けられる。
次の瞬間。
エリシアが、ゼンにしがみついた。
「……好きよ」
「ずっと、ゼンだけが好き。昔も今も、、、。」
そして。
「選んでいいのなら……私は、、、っあなたを選びたいっ、、、」
ゼンの瞳が揺れた。
、、、本当は、もうとっくに限界だった。
何度も、触れたくて、でも触れてはいけないと思っていた。
何度も、出しかけた手を握りしめてきた。
その手を、今、そっと伸ばす。
壊れ物に触れるみたいに、慎重に。
優しく、エリシアの頬に触れた。
その瞬間、
風が、そっと吹き抜けた。
――あの頃と、同じ風。
その後、戻った庭で2人を探していたリゼとクロードに会った。
2人を見たエリシアは、その大きな瞳を揺らし、そして言った。
「私がどんな選択をしてもみんなこれからも一緒にいてくれる?」
その言葉を聞いた2人は、互いに顔を見合わせる。
「当たり前じゃない!」
「当たり前だろう。」
その返事に、エリシアは微笑む。
その顔には、静かな決意が満ちていたーーー。
ーーー
ー
ざわめきが、波のように広がっていく。
「……今、なんと?」
誰かの戸惑いの声。
広間に集まった貴族たちの視線が、一斉にエリシアへと向けられる。
王座の前。
背筋を伸ばしたまま、エリシアは一歩も引かなかった。
「結婚はできません」
その声は、震えていなかった。
「私には、ずっと慕っている方がいます。その方以外の方との縁談は、考えられません」
息を呑む音。
誰もが言葉を失う中で、
ただ一人、穏やかにその言葉を受け止めた男がいた。
「……そう、ですか」
レオンは静かに微笑んだ。
どこまでも優しく、どこまでも綺麗な笑顔で。
「あなたらしい選択だと思います」
その言葉に、エリシアは一瞬だけ目を伏せた。
「……ごめんなさい」
「謝る必要はありません。むしろ――」
一拍、間を置いて。
「あなたに出逢えて、よかった」
その言葉は、誰よりも誠実で、そして静かに終わりを告げていた。
――完全な敗北を、美しく受け入れる男の姿だった。
広間の空気が揺れる。
王妃が言葉を失い、国王が額を押さえる。
側近たちがざわめき、貴族たちがひそひそと声を交わす。
それでも。
エリシアの視線は、ただ一人の人物を探していた。
そして――見つける。
広間の端。
人の輪から一歩引いた場所に、彼は立っていた。
ゼン・クラウディア。
宮廷護衛隊総長として、ただ静かにその場に在る。
動かない。
何も言わない。
表情すら、ほとんど変わらない。
それでも――
その瞳だけが、わずかに揺れていた。
(……ゼン)
名前を呼びたい衝動を、必死に飲み込む。
視線が、重なる。
ほんの一瞬。
それだけで、十分だった。
言葉なんて、いらなかった。
エリシアは、ゆっくりと息を吸う。
そして。
もう一度、前を向いた。
「……私は、この選択を変えません」
その声に、迷いはなかった。
広間が、大きく揺れる。
ゼンは、ただ静かに、そこに立ち続けていた。
まるで、
その選択を、最後まで見届けると決めたかのように。
ーーその夜。
誰もいない回廊で。
「――エリシア」
名前で呼ばれたその声に、張り詰めていたエリシアの顔が穏やかな笑顔に変わる。
ーーー
ー
レオンは、ロザリアから去っていった。
その馬車の中。
子供の頃エリシアにもらったハンカチを取り出すと、
「頑張ったんだけどな。」
そう、力無く笑った。
その声は、震えていた。
(このハンカチ、返さなくていいからね。)
子供の頃のエリシアの笑顔が消えない。
(返さなくて、いい、、、か。)
そして、遠ざかるロザリア王国をもう一度振り返ると、
「ありがとう。」
そう、呟いたーー。
ーーー
ーー
ーーーー
ーー
城の庭に、やわらかな陽射しが降り注いでいた。
花々が揺れ、風が静かに通り抜けていく。
「――おいで」
エリシアが名を呼ぶと、小道の向こうからゼンが現れる。
ゼンの腕の中には幼い子供。
その子が、その小さな手を伸ばした。
「おかあさま。」
その声に、エリシアは優しく微笑み、そっと抱き寄せる。
「体調は?」
ゼンの優しい声。
「ええ、元気よ。それに今日は――リゼたちが来るわ」
エリシアがそう言って、お腹に手を添えた、そのとき。
「あ……!」
腕の中の子供が、ぱっと顔を上げる。
視線の先。
庭の入口に、二つの影。
手を繋いだリゼとクロードが、ゆっくりと歩いてくる。
風が、ふと頬を撫でた。
懐かしい気配に、エリシアは目を細める。
――あの頃と、同じ風。
駆けていく足音。
重なる笑い声。
名前を呼び合う、あどけない声。
振り返れば、そこにいる気がした。
無邪気に笑い合っていた、幼い自分たちが。
けれど。
その光景の先に、今がある。
腕の中のぬくもり。
隣にいる人。
こちらへ歩いてくる、大切な人たち。
エリシアは、そっと目を開く。
風が、また静かに吹き抜けた。
――この先もきっと。
同じように、季節は巡っていくのだろうーーー。
ーーー完ーーー




