03:水の女と泥の家
窓から溢れた水は、壁を撫でるように地面に流れ落ちていた。
「暴発の共鳴源はなんだろうな」
「この感じだと、家の中にありそうですけどね」
ガインと戦闘防衛課の男の会話を聞いていると、視界の端でなにかが動いた。
ロアは、息を呑んだ。
女が、立ってる。
「なにかいます」
アメリアの声を聞いて、全員が二階の窓辺を見た。そしてルイスは、その女から目を離さずに言った。
「人間……じゃなさそうですね」
窓辺に立つ女は、分厚い水のベールに包まれている。
水の女は、ゆっくりと顔を左右に動かしながら、窓に手を付いた。
どろりとした泥が窓の内側を撫でて、形を残しながら落ちて行く。
「……入るぞ。お前らはここにいろ」
「魔法の暴発、間近で見てみたいです。私も入れてください」
幽霊のような怪奇現象を見ても、アメリアはロアの知るアメリアのままだ。
「僕も入りたいです」
「……じゃあ、入りたいヤツは入っていい。自己責任な」
興味はある。でも、怖い。そして入ったところで、なにもできない。
ロアはグレイヴを見た。きっと彼は興味がないから、ここに居るはずだ。二人で待っているしかないか。
ロアがそんなことを考えていると、ガインに続いて、グレイヴも家に向かって歩き出した。
まさか彼が家の中に入るとは思っていなかったロアは、焦った。
目の前には、怪奇現象が起こり続けている家。
左右と後ろには、しんと静まり返った、誰もいない住宅群。
「ちょっと、待ってよ……!」
自分一人だけ取り残されそうになったロアがみんなに続くと、ガインが振り返った。
「いいか、生存確認が最優先だ。昼間見た女の人を探す。二手に分かれる。俺は二階。ロアとルイスが一緒に来い。一階は任せた」
ガインは慣れた様子でテキパキと指示を出す。
心の準備もないまましっかりメンバーに入れられて、少し泣きそうになった。
ガインは気にする様子もなく水に濡れたドアノブに触れて、扉を開いた。
「うっわ。すごいな、これ」
家の中は、暗い。
玄関のカーペットには、大蛇が這い回ったような泥の跡がついていた。
右奥に続く廊下にも、左にある階段にも。
足を動かすと泥が貼りつき、くちゃ、と粘着質な音がした。
昼間見た普通の住居は今、廃墟のようだった。
「行くぞ。ロアこい。その後ろルイスな」
ゆっくり、音を立てないようにして二階へ上がる。
なにかに呑まれてしまいそうな、いっそ飲み込まれて意識をなくしてしまいたいような恐怖だった。
ガインは前を向いたまま、少し声を張った。
「ルイスがいてもこわいのかい? ロアちゃーん」
「怖いですよ! 暗いし、なにがいるかわからないし。身の安全の保障はないし」
「安心しろ。身の安全は保障してやる。離れるなよ」
あっさりとそう言うガインに、精神的にギリギリの状態でうっかりときめきそうになるのが、少し悔しかった。
階段を上がり切って回り込むと、左側に三つの扉と、正面に一つの扉があった。
玄関と同じように、どこも泥だらけだ。
ガインはためらう様子もなく、奥から順に部屋の扉を開けていく。
どの部屋も泥だらけで、どの部屋にも、誰もいなかった。
窓から入る月明かりが、泥を生々しく照らしている。
引き出しがギギ、と乾いた音を立てて開いてもおかしくない、そんな部屋だ。
「二階にはいないな。下と合流するか」
ガインの言葉を聞いて、ロアは不気味な部屋から廊下に出た。
「動くなよ」
いつもより低いガインの声に、ロアはぴたりと立ち止まった。
一室から、地面から少し浮いたような動きで、水の女が出てきた。
心臓が大きく、断続的に、音を立てていた。
纏っている水が光を反射して、どんな容姿なのか、どこを見ているのかもわからない。
なんとなく若い女のようにも見えて、彼女の右腕は、なにかを抱えているような形をしていた。
水の女はゆっくりとした動きで廊下を見回して、また次の部屋に入って行った。彼女の動線には、粘度の高い泥がにじんでいる。
ガインは廊下に出ると、ロアの前に立ち、腕で下がるように促した。
「離れてろ。もしこの化け物が大きく動いたら、すぐ逃げろよ」
ロアとルイスは、ゆっくりとガインから距離を取る。
また廊下へ出た水の女は、こちらに見向きもせずに辺りを見回していた。
――なにか、探してる?
ロアがそう思っていると、水の女は三つ目の部屋に入り、それから廊下へ出た。そしてまた、辺りを見回している。
「夜分遅くにすみませーん」
ガインはそう言って、水の女に腕を伸ばした。
「ここの家主、知りませんかねー?」
ガインの指先が水に触れた途端、水の女は身をすくめた。
まるで、腕の中のなにかを守っているみたいに。
水の女の足元から、決壊したダムのように水が流れてきた。
「気をつけろ! 足取られるぞ!!」
「ロア、こっち!」
ルイスはロアの腕を掴むと、階段に続く手すりを強く掴む。
水位はあっという間に膝を超えて、勢いは衰える様子がない。
「降りて!」
階段を覗き込むと、アメリアがいた。
彼女は二階から落ちる濁流に逆らって、手すりを頼りに階段に足をかけていた。
「早く!!」
踏みしめようとしたブーツの裏に泥が貼り付き、体勢を崩した。その途端、波のような水がロアを押し倒す。
抱きかかえられる感覚と同時に、体が完全に水の中に沈んだ。
それからはもう、上も下も、右も左もわからない。
ルイスに抱きかかえられたまま玄関から外へ吐き出され、体に衝撃が走った。
急に息ができるようになり、ロアはむせ返った。
「ロア、大丈夫?」
ルイスは少し焦った様子で、ロアの背に触れた。
「大丈夫ですか!?」
医療推進課の男が二人に駆け寄った。
グレイヴとアメリア、それから戦闘防衛課の男も家の中から出て、ロアとルイスに駆け寄った。
唐突に、二階の窓が開く。
まず、バケツをひっくり返したように水が飛び出した。次にガインが窓を跨いで屋根を伝い、玄関前へ降りてきた。
家から溢れる水は勢いを失い、また静かに壁を撫でていた。
「下、いたか?」
「いえ。いませんでした」
ガインと戦闘防衛課の男の冷静な会話を聞くころには、ロアは普段通りの呼吸を取り戻していた。
「共鳴源は?」
「どっこも泥だらけで、探せたモンじゃねえ」
グレイヴにそう言われて、ガインは小さく息をつく。
二階では水の女が、先ほどと変わらない様子で、部屋の中を歩いているのが見えた。
「女で水。典型的だな」
「女性だと、水なんですか?」
「いい質問だ、ルイス。いいか。魔法の暴発は、女は水か土、男は火か風に絡んだものが多い。って言われてんだけど、絶対じゃねーんだなこれが。経験則ってヤツ?」
ガインはそう言うと、玄関の扉に向かって歩き出した。
「確かに割合として多いんです。理由はわからないんですけどね」
戦闘防衛課の男はそう言いながら、ガインの背中を見ていた。
ガインが扉に近付くと、家の中から水が流れ出す。
無理矢理身体を進めると、水は重い泥水に変わり、彼の動きを鈍くさせた。
「あーもう! くっそ! 撤収!」
「でも、ここに住んでいた女の人は?」
ガインはゆっくりと息を吐き切ると、二階を見上げた。
「仕方ねー。いないモンはいないんだから。明日考える」
ガインはそう言うと、あっさりと家に背を向けて歩き出した。
「寝ない研究者は役立たずだ。帰るぞ」
ガインを先頭にして、ロアたちは坂を下った。
制服を濡らしていた水は坂を下りている間に乾き切り、泥は剥がれ落ちた。
まるで、最初からなにもなかったみたいに。
屋敷に着いても、ロアは眠れなかった。
与えられた部屋で、ノートを開いていた。
まとめるために、まとまりのない文字を、書いていく。
あの家に住んでいる女の人は、どこに行った?
女と水。
なにかを探しながら歩いている。
なにかを抱いているみたい。
触れられるのを嫌がった。
腕に抱えたなにかを、守っていたのかもしれない。
じゃあ水の女は、なにを探しながら、なにを守っていたんだろう。




