02:美しい人は、夜の図書館にいる
女の背で踊る青いマントが、蝶の軌道を変える。
ロアたちの前で歩みを止めた女は、優しげな表情で笑った。
「こんにちは。マーテルへようこそ」
彼女のマントが、空気をなぞって緩やかに降りた。
この儚くて綺麗な人が、医療推進課の長なのだろうか。
「マリンカ・セレーナ元帥。魔法研究課の施設長だ」
〝白衣の天使〟という言葉は、彼女のためにあるような言葉なのに。
彼女は医療推進課ではなく、魔法研究課の施設長。
ガインの紹介で改めて微笑んだマリンカは、アメリアを見た。
「ごきげんよう、アメリアさん。お久しぶりですね」
「こんにちは、マリンカ元帥」
緩やかなマリンカの声に、アメリアはすぐに彼女の目を見た。温かくも、冷たくもない視線で。
「これからはマーテルの騎士として、お役に立てればと思います」
王族貴族の前で行った宣誓に似たアメリアの声色に、マリンカは薄い笑顔を崩さないまま、「期待しています」と返事をした。
「今日は、医療推進課の施設長に頼まれてここへ来たの。あの人はしばらくいないから」
マリンカはルイスに視線を移して、出入り口の方向を丁寧な所作で示した。
「ルイスくん。こちらにどうぞ」
それはロアにとって、想定していない言葉だった。
「じゃあね、ロア」
ルイスはロアを振り返って微笑むと、マリンカを追った。
「うん。……またね」
まず感じたのは、寂しさ。
次に感じたのは、不安だった。
思えば二度目の人生の中で、ルイスと離れている時間はほとんどなかった。
本当に自分は、ルイスがいない環境でもやっていけるんだろうか。
マリンカとルイスが去った温室は、少し褪せて見えた。
ガインは出入り口を見つめるロアの顔を何気ない様子で見て、それからもう一度、しっかりと見た。
そして、なにか言いたげに口を開いて、閉じて、また開いた。
「……えっ。どんな気持ち?」
「……ちょっと、寂しいなって」
「しょーもな! お前いくつだよ。親に取り残された子どもかよ」
〝親に取り残された子ども〟。
二度目の人生では、婚約者として隣にいた人なのに、ガインのその表現は、今の自分にピッタリだった。
「……確かに」
「しかも素直なのかよ。もっと自分に自信持てよ。俺みたいにな」
ガインは胸を張り親指で自分を指す。
ロアがガインに視線を移す頃には、ガインは「ほら、行くぞー」と言って白いマントを翻して温室を出ようと歩いていた。
アメリアと黒髪の男はまるで何事もなかったようにガインの後ろを歩いている。
嫌いじゃない人種だと思った。勝手に納得して進んで行くところが、少しだけシェルに似ている気がするから。
歴史保全課の前庭には、ひとりの男が待っていた。
彼はガインを見ると、すぐに頭を下げた。
「お手数をおかけしました。ありがとうございました」
「はーい。じゃ、お疲れー」
ロアと黒髪の男を残して、ガインは踵を返す。その後ろを、アメリアは相変わらずの無表情で歩いた。
「あっ」
男が下げていた顔を上げた瞬間、ロアは思わず声を上げた。
――黄色の紋章の男。
施設案内の時に、図書館を案内してくれた案内係の男だった。
黄色の紋章の男はロアと目が合うと、あからさまに顔をひきつらせた。
「あのっ! 施設案内の時は、ありがとうございました」
「それ僕じゃないです」
黄色の紋章の男はそう言うと、すんとロアから視線を逸らせた。
ロアの思考は、一瞬で固まった。
「人違いです。忘れてください」
ロアは改めて、気まずそうに視線を逸らす黄色の紋章の男を見た。
癖のある重たい髪は、光に当たると鈍く青い。
施設案内の時にあった軽薄な雰囲気はなく、それどころか、今の彼は文学的にさえ見えた。
人違いだった? えっ、ごめんなさい。めっちゃ失礼なことしちゃった。
そう思ってすぐ、いやいや、んなわけあるかと思い直して口を開く。
触れて、至近距離で見つめておいて、いまさら知らないふり?
「……いや、間違いなくあなた、」
「ロア・リーヴさんに、グレイヴ・クラークくん。ようこそ歴史保全課へ。案内します。こちらにどうぞ」
黄色の紋章の男はロアの言葉を遮って話を切り上げると、さっさと遺跡のような前庭を進んだ。
前回の彼なら〝やあ、久しぶり〟と言って、色気交じりの穏やかな表情で微笑みかけるだろう。
「寮は西棟にあります。朝、そこから図書館の中にある執務室に出勤します」
仕事中に女を誘惑したことが上司にバレて絶体絶命だから、今だけ真面目なふりをしているとか。
ロアは黄色の紋章の男を疑いながら歩いた。
前庭を横切って、三人は図書館の中へ入った。開けた場所に、等間隔に並ぶ机。下腹部をしめつけるような高揚が、戻ってきた。
――ねえ、やっぱりここってわくわくするよね。
気持ちを共有できるルイスが、そばにいない。
『お前いくつだよ。親に取り残された子どもかよ』
ガインの言葉を思い出して、ロアはゆっくりと息を吐く。
いつまでもルイスに甘えていられない。今日からこの場所で、一人で戦わないといけないんだ。
シェルを救うために。
ふと視線を感じて、ロアは俯いていた顔を上げた。
机で本を読んでいる人と目が合うが、彼はさっと視線を逸らせた。
それから移動中、視線を何度も感じた。本棚を眺めていた人も、階段を降りていた人も。
身なりを確認したが別におかしなところはなく、ロアは隣を歩くグレイヴを見た。
――グレイヴ・クラーク。
日に焼けた肌に、後ろで結んだ黒い髪。
彼は有名人なのだろうか。
「ここが執務室です」
黄色の紋章の男に案内された執務室は、広い部屋だった。
中央には大きなテーブルが一枚あって、それを挟むように左右に椅子が並んでいる。
両方の壁には本棚が並んでいて、奥にある階段が回廊につながっていた。
「執務室と言っても、大体の騎士は専門を持っているので、それぞれの研究室にいることが多いです。談話室みたいなものですかね」
あっさりとした説明のあと、図書館の通路を通り、寮のある西棟へと向かった。
寮の内部は、美術館のような見た目をしている。
「男子寮は二階、女子寮は三階です。一階には食堂や共用設備があります。食事はそこの食堂でどうぞ。……質問がなければ、今日は解散で結構です」
グレイヴはさっさと歩きだした。頭を掻きながら歩く彼の背中は〝やっと終わった〟と言いたげな様子だ。結局、一言もしゃべらないままグレイヴは階段の方へ消えた。
その背中を見送ったあと、ロアは黄色の紋章の男を振り返った。
「あの!」
黄色の紋章の男は、グレイヴからロアに視線を移した。
「お礼が言いたいだけなんです。あなたですよね? 施設案内の時に、その、なんて言うか……」
やはり少し気まずそうな顔をする黄色の紋章の男を見て、ロアは一歩前に出た。
「責めたいわけじゃないんです! 図書館であなたにされたこと、」
「声が大きいです。静かにしてください。誤解を招きます」
ロアは辺りを見回して、それから「すみません」と呟いた。
黄色の紋章の男はゆっくりと息を吐くと、改めてロアを見た。
「あれは僕ですが、僕ではありません。そしてできることなら忘れてください」
えっ、私のこと弄んだの?
思わず誤解を招きそうな言葉が浮かぶロアをよそに、彼は小さく息をつくと少し眉間を寄せた。
「あなたは一度、歴史保全課の施設長に会った方がいいでしょう。きっと説明してくださいますよ。いや、もし隠すようなら説明しろと迫ってください」
黄色の紋章の男の声には、やり場のない静かな怒りがこもっていた。
「……わかりました。会ってみます」
「今は日のある時間にはいません。完全に日が落ちたあとで、図書館へ行ってください」
「でも、約束もなく会いに行って怒られないですか?」
「それはないですね。施設長が怒ったところなんて、誰も見たことがないですから」
「……図書館の、どこへ行けばいいんですか。私、顔を知らないんですけど」
「すぐにわかります。必ず。皆、ルーン元帥を〝美しい人だ〟と言いますから」
やけに自信がある様子で言い切る彼に、ロアは「わかりました」と頷いた。
「では。僕はこれで失礼します」
「あの、ありがとうございました。私の好奇心に期待するって、伝えてくれて」
黄色の紋章の男はロアをじっと見た後、踵を返して歩き始めた。
「それ、僕じゃありません」
ロアは黄色の紋章の男が寮を出るのを見送って、階段を上がった。
僕じゃない、僕じゃない、って。狙いを定めた記憶喪失ではないか。しかし、前回と雰囲気が違うことも確かだった。
三階の長い廊下には、等間隔にドアが並んでいる。
教えられたドアを開くと、机と椅子とベッドが置かれた、簡素な部屋が現れた。
村から持ってきた最低限の荷物をほどいていると、ベランダから射す夕陽の光に気が付いて、食堂へ向かい、席に着いた。
食事を口に運びながら、思った。二度目の人生は、本当に幸せだった。
常に誰かと一緒にいて、リディアやルイスと一緒に食事をした。
一人で食べるご飯は、寂しい。
それは一度目の人生。会社から帰って、一人で食事をしていたときと同じ気持ちだった。
大切なものを手放す選択をして、好奇心に従った。
また図書館に来られたことが、嬉しい。
騎士として、認めてもらえた。
――そんな三度目の人生は、幸せじゃないの?
答えに行き詰まって、考えることをやめた。
食事を終えたロアは、庭へ出た。遺跡のような庭は、重い静けさを纏っている。
待っていた夜はもう、訪れていた。
大時計に見下ろされながら、図書館に入った。
ほんのりと光が灯る図書館の中には、誰もいない。
中央の通路を歩いて、半円形の壁に沿うようにあるアーチに入る。
同じ景色が、通り過ぎて行く。
あてもなく本の樹海を歩いているのに、不思議と迷いはなかった。
嫉妬、喜び、寂しさ。
今日あった感情を、ひとつひとつ手放す感覚。
重たい鎧をひとつひとつ脱いでいるような。
引っ張られているのかもしれないし、誘われているのかもしれない。
どこになにがあるのかも、わからない。
だけど、どこへ行けばいいのかは、多分、わかってる。
視界が、開けた。
ラミアの本に囲まれた、図書館の端。
以前、陽光が射していた細い窓から、今は月明かりが落ちていた。
黄色の紋章の男が座っていた出窓には今、別の誰かが座っている。
その人は、ロアを待っていたように顔を上げた。
「やあ、久しぶり」
黄色の紋章の男が言った通り。
確かに、その人は美しかった。
そして確かに、〝久しぶり〟だ。
朝日にミルクティーを透かしたような髪色。
ベルトラードと共にシェルを王都に連れ戻しに来た、騎士だ。
白い服を着て、バージンロードの先で微笑みながら花嫁を待っていそうな男。
しかし彼は今、時間の忘却を許された静けさの中で、上から下まで真っ黒な服を着て、夜闇に紛れていた。
「あのときの、性格の悪いお兄さんだ」
ロアがそう言うと、彼は足を組み直して、楽しそうに口角を上げた。




