イナミは師匠に頭が上がりません
イナリの家。
イナミたちは、師匠と向かい合って座っていた。
先ほどまで穏やかだったイナリの視線が、テンたちへ向く。
細められた目が、一人ずつ静かに姿を追っていく。
誰も口を開かなかった。
イナリは何も言わず、ただテンたちを見つめている。
九尾の狐。
この世界でも上位に位置する存在であるイナリには、普通の者には感じ取れないものがある。
目に見える姿だけではない。
その身に宿る力。
そして、存在そのもの。
イナリはテンたちをしばらく見つめると、ふっと目を細めた。
「……そういうことかの」
小さな呟き。
それ以上、テンたちのことには触れなかった。
何を理解したのか。
その答えを、イナリが口にすることもない。
「皆、疲れておるじゃろう」
先ほどまでの張り詰めた空気が、少しだけ和らぐ。
「少し休むとよい」
「ありがとうございます」
イナミたちが頭を下げる。
その直後だった。
「そうじゃ」
イナリが、ふと思い出したように口を開く。
「妾は、水晶玉でお主たちの様子を見ておったのじゃ」
「……」
イナミの動きが止まった。
背中を、冷たいものが走る。
「旅の途中から、ずっとではないがの」
イナリは穏やかな声のまま続ける。
「お主たちが何をしていたのかは、大体知っておる」
イナミは恐る恐る顔を上げた。
イナリは笑っていない。
「……そうですか」
「うむ」
短い返事。
それだけなのに、イナミはそれ以上何も言えなくなった。
「イザナと顔を合わせたときのことも知っておる」
「……」
「二人で妾の悪口を言っておったじゃろう?」
イナミの顔から血の気が引いた。
あのときは、イザナと二人で好き勝手に言っていた。
まさか、それまで見られていたとは思わなかった。
「……申し訳ありません」
イナミは深く頭を下げた。
「その件は、今はよい」
イナリの声は静かだった。
だが、その静けさがかえって怖い。
「問題は、その後じゃ」
イナミの背筋が伸びる。
イナリは淡々と話し始めた。
「イザナが一度、負けかけた」
「……はい」
「テンも戦いに巻き込まれた」
「……はい」
「そして、お主はテンを守れなかった」
「……はい」
イナミは顔を上げない。
イナリの声には、怒鳴り声など一切ない。
それでも、一言一言が胸に重く落ちてくる。
「さらに、お主たちはイザナを置いてきた」
「……はい」
「そうするしかなかった理由があったことも知っておる」
「……はい」
「相手が強かったことも」
「……はい」
「状況が悪かったことも」
「……はい」
イナリはそこで一度、言葉を止めた。
静かな部屋に、短い沈黙が落ちる。
やがて、イナリがイナミを見つめる。
「じゃが、それで妾が怒らぬと思うたか?」
「……」
イナミは答えられなかった。
イナリの目から、先ほどまでの穏やかさが消えている。
「イザナが負けかけた」
「テンを守れなかった」
「そして、仲間を置いていくしかなかった」
一つ一つ、ゆっくりと言葉にする。
そのたびに、イナミの握った拳が膝の上で強くなる。
「全ては――お主たちが弱いからじゃ」
「……はい」
イナミは深く頭を下げた。
反論する気にはなれなかった。
言い訳をする気にもなれない。
自分でも、それが分かっているからだ。
イナリが怒っている。
それは、声を聞けば分かる。
怒鳴っているわけではない。
むしろ、普段より静かだ。
だからこそ怖い。
イナミは幼い頃から知っている。
師匠が本当に怒っているときほど、声を荒らげないことを。
「妾は、お主たちが死ぬところなど見たくない」
その言葉だけは、僅かに柔らかかった。
イナミの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
「じゃから、強くなってもらう」
「……はい」
「修行を増やすぞ」
イナミの肩が僅かに震える。
「明日から――」
「はい」
反射的に返事をする。
「ではない」
イナリが静かに言った。
「今日からじゃ」
「…………はい」
イナミの返事が、わずかに小さくなった。
逆らわない。
いや、逆らえるはずもなかった。
そして、イナリはもう一つ告げる。
「それから、イザナが来たら妾のところへ連れてくるのじゃ」
イナミの顔が引きつった。
「……はい」
「話さねばならぬことがあるからの」
その一言で十分だった。
イザナにも、同じように説教が待っている。
それが、イナミにははっきりと分かった。
「……分かった」
そう答え、イナミは立ち上がろうとした。
その瞬間――。
「誰が立ち上がってよいと言ったのかのぉ?」
「……っ」
イナミの動きが止まる。
恐る恐る、ゆっくりとイナリを見る。
そこには、穏やかな笑顔が浮かんでいた。
しかし、その目は笑っていない。
「イナミはそのまま、よいと言うまで正座じゃ」
「……はい」
イナミは静かに座り直した。
背筋を伸ばし、両手を膝に置く。
その姿は、先ほどまで魔人や悪魔と戦っていた男とは思えないほど大人しい。
それを確認したイナリは、ようやく満足そうに微笑んだ。
「うむ。それでよい」
イナミは一言も返さなかった。
ただ、師匠の許しが出るまで、黙って正座を続ける。
その横で、テンたちは誰も口を挟めなかった。




