むくなるめがみ
烏丸さかえは、人より多少目がいい。
尤も、目がいいからと言って、何か素晴らしいことが起きたことはない。むしろ人生において損ばかりをしてきたと思っている。
妻に先立たれて2年、その弟は烏丸ほど目が良くないが、妻に似て選ばれやすい子だ。そのせいで今回も、こんな山の中にまでひとりで来る羽目になった。
それでも、この子はひとり山に登り、正しく物事を納め、無事な姿を烏丸に見せた。あとはともに家路に着くだけだと思っていた。
「さ、そろそろ山を降りないと帰りの電車に間に合わないよ」
そう言って振り返り――風が止まった。
義弟は烏丸の視線に敏感だ。だから悟られてはならない。それでも、烏丸の視線はそれに吸い寄せられた。
義弟の肩にしなだれ掛かる白い指。首筋に唇を寄せる動き。
それは山に接続し、山と一体となり、その上で山のような想いを義弟ひとりに向けていた。
逡巡は一瞬。烏丸は義弟の視線がこちらを怪訝そうに見る前に義弟自身と目を合わせた。
「……帰ろっか」
努めていつも通り。長年培ってきた「何も見えないふり」をして。
烏丸は義弟の返事を聞かず歩き出す。
この子は日常に帰りたいのだから。この子の足枷になってやらねばならない。
無音だった山に、止まっていた風が戻ってきた。2人の足音が木々を渡る風の合間に響く。
「そばの店だけどさぁ」
歩きながら振り返らず烏丸は義弟に呼びかけた。
「はい?」
いつも通りのテンションで義弟が応える。
「テレビでやってたあそこ行こうよ、あそこ」
「あそこってどこですか。僕その番組見てません」
「えー」
噛み合ってるようで、噛み合っていない会話。視線はずっと義弟ただひとりに向いている。
烏丸が見えていることも、それにとってはどうでもいい。選んだただひとりを、それはどこまでも見つめ続けるのだろう。
死ぬまで――いやあるいは、死んでも。
この子は選ばれやすい。
そして今回、選ばれた。
それの願いはわかっている。この子が無事でい続ける条件も。
「……取材、とっても大変になるねえ」
そういうので、精一杯だった。
「わかってます」
わかっているのかいないのか、義弟はいつも通りの、どこか拗ねたような口調でそう返してくる。
「あっそうだ、俺帰ったらはるちゃんの卵焼き食べたい。甘いの」
「はいはい。ほんと好きですね、甘い卵焼き」
「卵焼きって言えば出汁入れた塩辛いやつのイメージだったんだけどさ、はるちゃんが作るやつ食べて世界が変わったよね」
「大袈裟な」
日常生活の会話が続く。烏丸は自分の手の震えを悟られないよう、義弟の手を強く握った。
義弟は不思議そうにしながらも、烏丸の手を握り返した。
「そうだ、それより義兄さん、さっき言ってたそば屋が出てた番組、教えてくださいよ。検索かけなきゃ」
「いーのいーの。そばよりはるちゃんの卵焼き」
「移り気だなぁ」
それは、烏丸のことなど眼中にないとでも言いたげに、先にある別れを知らない者のような、甘くも無垢な視線を義弟だけにむけていた。




