めがあった あなた
誰も彼も、私のことを見はしない。
いつもお山から、皆のことを見守っているのに。
大切な大切な皆だから、大好きな大好きな皆だから、何事もないように、何かあってもすぐにわかるように、ずっと私が見守っているのに。
街で買った帯留めを握りしめても、私の気持ちは止まってはくれない。
だめ、だめ、だめなのに。そんなことを考えても、お役を降りることなどできないのに。
ちがう、違うの。
お役を降りることが大切なのではないの。
皆を見守るこのお役が、いやなわけではないの。
ただ、ただ、これほど思いを込めて見つめているのに。
これほど愛して見守っているのに。
なぜ誰も、私のこの視線に気づいてはくれないの。
なぜ、誰も振り返ってはくれないの。
寂しい。さびしい、さびしい。
誰か振り返って。だれか私を見つめて。
私を見つけて。そして、どうか。
ずっとずっと、私を見つめていて。
◆ ◆ ◆
――気づけば僕は、どこかの広間に立っていた。
視線を巡らせれば、村が一望できる。つまりここは、先ほどの山頂だ。
「……なんで」
先ほどまで朽ちていたはずのその場所は、白い木の柱と壁で囲まれた場所に変わっていた。既に壊れて崩れ落ちていたはずの扉はぴったりとしまっている。僕はポケットを探った。手に触れる振動、熱を帯びた固い感触。手のひらに出してみたものを見て、僕は息をつめた。
「帯……留め……」
先ほど床へ置いたはずの帯留めは、再び僕のジャケットの中へ戻っていた。
――ぶ、ぶぶぶぶぶぶ、ぶぶ。
――ぽ、ぽぽぽぽぽぽ、ぽぽ。
手のひらの振動と呼応するように、頭上から声がする。視界の隅から伸びた、白い袖が覆う。
悲鳴は出なかった。ただ、ひゅう、と変な呼吸音が聞こえた。それが僕の喉から出ているのだと気づいたのは、ずいぶん経ってからだ。
手のひらにあった帯留めを、長く白い指が拾い上げた。帯留めを追って僕の視線が上へあがる。自分の行動なのに、止めることができない。
――目が、あった。
黒い目が、僕を覗き込んでいた。白い手が、僕のほほをゆっくりと撫でてくる。その冷たさに僕は、ぞくりと肩を震わせた。
――ぽぽ。ぽぽぽぽぽ。
唇が、三日月のように歪んだ。それは確かに、笑っていた。
視線が逸らせない。手足が動かない。全身から力が抜けて、両手がすとんと体の横に落ちる。真っ黒な目と目が合ったまま、思考が白く塗りつぶされていくのを感じた。
――よう ヤく みつケ たノ。めガ あっタ アナた――
言葉が、頭の中に忍び込んでくる。ノイズ交じりのそれは、少しずつ元の音と色を取り戻していった。
――ずっト ずっと 待って たの――
――ずっと、いっしょに いてくれる ひと 待ってたの――
――目が あったでしょう。わたしのこと 見てくれたでしょう――
――ねえ、このお山で、一緒にいましょう――
――ずっと、ずっと、一緒にいましょうねぇ――
そのことばに、僕は茫洋としつつ、ようやく言葉にならない違和感が解消されていく心地がした。
見ることすら禁忌だったはずの裏山がなぜ奇妙に整備されていたのか。
なぜ端田家に、帯留めが伝わっていたのか。
……端田の祖父はおそらく、帯留めを返したところで僕が助からないだろうことを知っていた。だって、もう何度も「返された」のだ。返され、そして戻ってきた。返した人が、「タカネサマ」に連れていかれて。
思考が真っ白に染まっていく。視界のすべてが「タカネサマ」でいっぱいになる。
そのときだった。
ぱさ、と紙束が落ちる音がした。「タカネサマ」の視線が少し緩んだことで、僕も音のした方を見る。
手帳だ。僕の手帳が落ちていた。今は亡き姉に買ってもらったボールペン。義兄がプレゼントしてくれた手帳。
ふと、胸の奥で何か熱いものがせりあがってくる気がした。
終われない、と思った。
このまま終わるのは嫌だ。このまま消えるのは嫌だ。
——このひとを綴らないまま、僕が消えるのは、いやだ。
「かかなきゃ、いけないんです」
気づけば僕は、震える体のまま彼女を振り返り、訴えていた。
「貴女を書かなきゃならない。書かなきゃならない。それだけじゃない、誰にもみられない、誰にも見向きもされない誰かを、取材して、綴って、みんなに見てもらいたい。みんなに感じてもらいたい」
目の前の彼女が驚いているのがわかる。きっとこんなこと、言われたことなんてないだろう。
頭の中で湧き上がる言葉をそのままのどから発する。一緒にいてほしいと、見てほしいというのなら、僕は書きたい。あなたを書きたい。余すところなく書き綴って解明したい。
僕の腕なんて、憧れの作家に比べれば歯牙にもかからない。お前の文章なんか誰でも書けるって、書く度自己嫌悪に陥ることだってしょっちゅうだ。それでも、僕は書きたいものがある。まだ取材し足りないことがある。そうだ書きたい。書かせろ。取材させろ。お前を書かせろ!
「僕にしか書けない、僕にしか見つけられない、僕しか聞こえないものを、ほかでもない貴女を、僕は書きたい!」
僕は崩れるように膝をついた。恥も外聞もない。頭を下げてただ祈る。
「だから、僕を生かしてください。僕を連れて行かないでください……!」
吐き気がするほどの沈黙が続いた。
ふと、くつりと頭上で笑う気配。
――すてき、それ、西洋では「ぷろぽおず」というのでしょう?――
聞こえてきた言葉に顔を挙げられない。なんだか、恐ろしいことを言われたような気がしたが、ちがう、とは言えなかった。
へたり込んだ僕のほほをなでて、顔をあげさせた「タカネサマ」は、うっとりとほほを紅潮させて微笑んでいた。
――ええ、ええ。ずっと、見守っているわ――




