やまのかみ
靴を履いて、家の裏手にある山に視線を向けた。標高が高いというわけではないけれど、昔は確かに、この山の頂ならばこの集落のすべてが見渡せる高さの山だ。
「あら小鳥遊さん、どこかへお出かけ?」
端田の母親が笑みを貼り付けて僕を見ている。僕は口元だけ笑みの形にかえて、小さく頷いた。
「はい、出発までには帰ります」
もう一度、裏山に視線をむける。ジャケットのポケットで、「ぶ、ぶっ」と帯留めが震えた。
◆ ◆ ◆
――小鳥遊陽充が端田家を出て、その数十分後。
黒塗りのタクシーが同宅に横付けされた。
下りてきたのは、色の抜けた茶色の癖っ毛にべっ甲柄の眼鏡をかけ、黒い上下を着崩した男。ひょろりとしたその姿はまるで、魔術師が扱う黒いステッキだ。
男が降りると、タクシーは砂埃を巻き上げる勢いでスピードを上げて走り去った。彼は走り去るタクシーを一顧だにせず、体を左右に揺らすようにしながら門をくぐる。
侵入者に吠えかかろうとしていた番犬と思しき柴犬が、男を見上げて沈黙した。異変に気づいた青年が玄関から飛び出してきて、同じように絶句する。
「――ああ、わたくし、小鳥遊陽充の兄で、さかえと申しまして――」
抑揚のない声で、男は名乗った。
「うちの弟、どこにいるか知りませんかね?」
「……お話は、中で伺いましょう」
凍りついたままの青年の肩をたたき、後ろからやってきた老人が、青年をかばうように男との間に割って入った。
村の住民だろうか、中年の女性たちが黒いステッキのような異邦人を覗き込んでヒソヒソと話をしている。男が振り返ると、ピタリと話し声はとまり、温度のない視線だけがぶつかりあった。
ゆらりと男が歩き出すと、青年の足元にいた犬が押されるように後ろへ下がる。同じく後ろへ下がった青年を、老人は静かに、しかし慈しむように眉をひそめて見守っていた。
「……つまり」
先程まで弟がいた広間に通された男は、なんの動揺も見せず老人から事の仔細を聞いていたが、しばらくして口を開く。
「つまりあなたがたは、本来なら彼――端田鯉兵君が背負うべき《やく》を、一家総出、いや、この村総出でうちの弟になすりつけたと?」
ぎしりと畳が鳴った。
「お怒りはご尤もです。しかし、鯉兵は何も知らずにここまで来ております。この子を責めるのは――」
「彼を責めるな? それは無理というものでしょう」
老人の言葉が途中で止まった。男が温度のない目で老人の隣の座る青年に目を向けると、青年は何か言いかけ、それからびくりと肩を震わせて押し黙る。
「君は見ていた。陽充より背の高い生け垣の上から覗き込む誰かの目。親戚総出で陽充のいる客間を呪符で塞ぐ様。翌朝真っ黒に染まった盛り塩。客間の真ん中で倒れた陽充。
君は知らなかったんじゃない、知らないフリをした。気づかないように目と耳を塞いだんだよ。陽充に迫る脅威から」
青年の顔が次第に下を向いていく。ぎゅう、と音がした。青年が、正座した膝の上で拳を握りしめる音だった。
ゆらりと実体がない影のような動きで、男は立ち上がる。
「帯留めを戻せば彼が助かるというのなら、もうこれ以上ここにいる意味はありません」
「……どちらへ」
老人の低い問いかけに、振り返りもせずに男は吐き捨てた。
「弟を迎えに行ってきます」




