第5話 お前、もういらないから
その朝、リュカはいつもより早く目を覚ました。
宿の窓から差し込む光は柔らかく、街はまだ完全には動き出していない。
ベッドの脇には、丁寧に磨いた杖が立てかけてある。
名門ルーデル=カルテの杖。
パーティの資金で買ってもらった、高価な杖だった。
いつか、この杖にふさわしい魔法使いになる。
そう思いながら、三年間ずっと大切にしてきた。
リュカは杖を手に取る。
「……今日こそ」
小さく呟く。
役に立とう。
迷惑をかけないようにしよう。
せめて荷物持ちでも、炊事でも、素材回収でも、できることをちゃんとやろう。
そうすれば、いつかまた。
昔みたいに笑ってもらえるかもしれない。
リュカは荷物を整え、宿を出た。
◇
待ち合わせ場所は、冒険者ギルド前の広場だった。
依頼へ向かう時、レインたちはいつもそこに集まる。
いつも通りの朝。
いつも通りの広場。
いつも通り、レインたちがいる。
そう思っていた。
「おはよう」
リュカは笑顔を作って声をかけた。
しかし、すぐに足が止まる。
そこには、レイン、ヴィオラ、ガルドの三人だけではなかった。
見知らぬ女性がいた。
金髪の美しい魔法使いだった。
肩のあたりで揺れる明るい髪。
整った顔立ち。
青を基調とした上質なローブ。
手には、細工の施された白い杖。
立っているだけで、周囲の視線を集める華やかさがあった。
「……その人は?」
リュカが尋ねる。
レインは、待っていたと言わんばかりに振り返った。
「紹介する。セシリア・アルヴェーンだ」
金髪の魔法使いが、軽く頭を下げる。
「セシリアです。よろしくお願いします」
「あ、はい。リュカ・ヴァレリーです」
リュカも慌てて頭を下げた。
けれど、胸の奥に小さな不安が生まれる。
臨時の同行者だろうか。
依頼人だろうか。
それとも。
レインが口を開く。
「リュカ」
「うん」
「お前、もういらないから」
その一言は、あまりにも軽かった。
まるで、不要になった道具を片づけるような声だった。
「……え?」
リュカは聞き返す。
意味が分からなかった。
いや、本当は分かっていたのかもしれない。
でも、分かりたくなかった。
「セシリアが入ることになった」
レインは続ける。
「火、水、風の三属性を扱える優秀な魔法使いだ」
ヴィオラが頷く。
「昨日、実力も確認したわ。連携にも問題なさそうね」
ガルドが笑う。
「やっとまともな魔法使いが来たってわけだ」
リュカは、セシリアを見る。
セシリアは少し困ったような顔をしていた。
この人は、たぶん何も知らない。
リュカがどんなふうに扱われてきたのか。
この三年間、何を言われてきたのか。
何も知らない。
それでも。
その存在が、自分の居場所を奪ったのだと分かってしまった。
「だから」
レインは告げる。
「今日でクビだ」
リュカは言葉を失った。
何か言わなければならない。
そう思った。
でも、何を言えばいいのか分からない。
頑張るから。
もっと役に立つから。
荷物も持つ。
料理もする。
解体も、洗濯も、何でもする。
だから捨てないで。
そんな言葉が喉元まで出かかって、飲み込まれる。
言えば、もっと惨めになる気がした。
ガルドが鼻で笑った。
「なんだよ、その顔。まさか残れると思ってたのか?」
「……」
「お前、自分が何してたか分かってる? 荷物持って、飯作って、魔物バラしてただけだろ」
ヴィオラも冷めた目で言う。
「今まで置いてもらえただけ、感謝するべきじゃないかしら」
リュカは俯いた。
反論できなかった。
自分が戦えないことは事実だった。
まともな魔法を使えないことも事実だった。
勇者パーティにふさわしくないことも。
誰より、自分が分かっていた。
「それと」
レインの視線が、リュカの手元へ落ちる。
「その杖、置いていけ」
リュカは反射的に杖を握りしめた。
「……これも?」
「パーティの資金で買ったものだ」
レインは冷たく言う。
「お前のものじゃない」
「でも……」
「お前みたいな無能に、名門ルーデル=カルテの杖なんて必要ないだろ?」
ガルドが笑う。
「そうそう。爆裂魔法しか使えねえなら、その辺の枝でも十分だろ」
ヴィオラは淡々と続ける。
「ローブも、解体道具も、素材袋も置いていきなさい。全部パーティの備品よ」
リュカの指が震える。
杖だけは置いていきたくなかった。
いつか。
いつかきっと。
この杖にふさわしい魔法使いになる。
そう信じて、何度も握ってきた杖だった。
けれど。
自分のものではない。
そう言われたら、何も返せなかった。
「……分かった」
リュカは、杖を差し出した。
レインが受け取る。
手の中が空になる。
それだけで、自分の三年間がすべて奪われたような気がした。
リュカは荷物を下ろす。
ローブ。
予備装備。
素材袋。
解体道具。
パーティのものと呼ばれたすべてを置いていく。
残ったのは、私物を入れた小さな腰袋だけだった。
「これで……いい?」
「ああ」
レインは短く答えた。
それだけだった。
三年間の終わりは、本当にそれだけだった。
リュカは三人を見る。
レイン。
ヴィオラ。
ガルド。
初めて出会った日、手を差し伸べてくれた人たち。
初めて爆裂魔法を使った時、笑って褒めてくれた人たち。
かつては、仲間だと思っていた人たち。
「……今まで、ありがとうございました」
リュカは頭を下げた。
声が震えないように、必死に抑えた。
泣きたくなかった。
ここでは、絶対に泣きたくなかった。
ガルドが面倒くさそうに手を振る。
「はいはい。元気でな」
ヴィオラは視線すら合わせなかった。
レインはもう、セシリアへ依頼の説明を始めていた。
リュカは顔を上げる。
そして、背を向けた。
歩き出す。
一歩。
また一歩。
広場を出る。
けれど、その背中に声が飛んできた。
聞こえるように。
わざと。
「あーあ、やっと優秀な魔法使いが見つかったな」
ガルドの声だった。
「穀潰しを追い出せて、せいせいしたよ」
リュカの足が止まりかける。
でも、止まらない。
止まったら、泣いてしまう。
「本当にね」
ヴィオラの声が続く。
「これで不味い飯ともおさらばだわ」
「ははっ、あれは酷かったよな」
ガルドが笑う。
「本人は頑張ってるつもりだったんだろうけどさ」
「頑張ってあれなら、才能ないわね」
リュカは拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
「そもそも、あんなのが勇者パーティっておかしいだろ」
「本当にね」
ヴィオラの声は、いつもより少し大きかった。
リュカに聞かせるためだと分かった。
「よく自分のことをオリハルコン級冒険者だなんて思えたものだわ」
そして。
「私なら恥ずかしくて生きていけない」
ガルドが声を上げて笑う。
「本当にそれな!」
周囲の視線が刺さる。
通行人。
冒険者。
ギルド職員。
誰かが何かを囁く。
リュカは顔を上げられなかった。
悔しい。
悲しい。
苦しい。
でも、何も言い返せない。
自分が無能なのは事実だから。
そう思ってしまう自分が、何より惨めだった。
リュカは歩き続けた。
背中に笑い声を浴びながら。
◇
リュカが広場を去った後。
セシリアは小さく眉をひそめていた。
「……あの」
レインが振り返る。
「どうした?」
「今の方は、本当に三年間、皆さんの仲間だったんですよね?」
ガルドが笑う。
「仲間? まあ、荷物持ちとしてはな」
ヴィオラも肩をすくめる。
「あなたが気にすることではないわ。彼は戦力にならなかった。それだけよ」
「……そうですか」
セシリアはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、リュカが消えていった通りの先を、しばらく見つめていた。
◇
リュカは街の門へ向かった。
どこへ行くのかは決めていない。
宿へ戻る理由もない。
ギルドへ戻る勇気もない。
故郷へ帰ることも考えた。
けれど、ベルフォーレ村の人々の顔が浮かぶ。
「オリハルコン級冒険者なんてすごい!」
「勇者パーティの一員なんて誇らしいな!」
あの笑顔を思い出すと、胸が潰れそうだった。
何と言えばいいのだろう。
追い出されました。
お荷物でした。
無能でした。
そんなこと、言えるはずがなかった。
門番がリュカに気づく。
「あれ、今日は一人か?」
「……はい」
「勇者パーティの依頼じゃないのか?」
「はい」
リュカは笑った。
いつものように。
何もなかったように。
「少し、用事があって」
「そうか。気をつけてな」
「ありがとうございます」
街の門を抜ける。
外へ出る。
空は青かった。
道はどこまでも続いていた。
けれど、リュカには行く場所がなかった。
手の中には、もう杖もない。
背中には、荷物もない。
勇者パーティの一員という肩書きもない。
残ったのは、胸の奥に溜まった惨めさだけだった。
僕だって分かっている。
自分が無能なことくらい。
分かっている。
ずっと前から。
誰よりも。
分かっていた。
それでも。
あんなふうに言われたくなかった。
リュカは唇を噛む。
視界が滲む。
泣くな。
泣くな。
ここで泣くな。
そう思うほど、涙は勝手にこぼれた。
「……っ」
人に見られたくなかった。
情けない顔を。
惨めな自分を。
何もかもを。
リュカは街道を外れ、森の方へ向かった。
木々の間へ入る。
奥へ。
さらに奥へ。
誰もいない場所へ。
足元の枝が折れる。
頬を涙が伝う。
胸の中で、押し殺していたものが暴れ出す。
悔しい。
悲しい。
苦しい。
惨めだ。
自分が嫌いだ。
でも。
それでも。
リュカは立ち止まった。
震える手を前へ向ける。
杖はない。
けれど、あの魔法だけは使える。
唯一、自分に残された魔法。
爆裂魔法。
「くそ……」
魔力が溢れる。
「くそっ……!」
空気が震える。
涙が止まらない。
「くそおおおおおおおおっ!」
叫びと共に。
森の奥で、凄まじい爆発が起こった。




