第36話 初めての喧嘩
旅を続けていれば。
楽しいことばかりではない。
美味しいものを食べて。
笑って。
冗談を言って。
時には失敗して。
それでも、また笑う。
そんな毎日が。
ずっと続くような気がしていた。
けれど。
その日。
二人は初めて。
本気で意見をぶつけた。
原因は。
本当に些細なことだった。
◇
「ここだね」
フィオナが足を止めた。
二人の目の前には。
深い森の中にぽっかりと口を開けた、古い洞窟があった。
その日は。
近くの村で受けた依頼の途中だった。
森の奥で、最近になって魔物の姿が頻繁に目撃されている。
家畜が襲われ。
村人も森へ入れなくなった。
そこで。
原因を調査してほしい。
そんな依頼だった。
「……暗いね」
リュカが洞窟の中を覗き込む。
奥は見えない。
冷たい風だけが。
洞窟の奥から、ゆっくりと吹いてくる。
フィオナが目を細めた。
「何かいるね」
「分かるの?」
「うん」
フィオナは静かに答える。
「かなり奥」
「じゃあ、一緒に行こう」
「待って」
「何?」
フィオナが洞窟の入り口を見る。
「狭いところがある」
「そうなの?」
「うん。たぶん、途中から一人しか通れない」
「じゃあ、どうする?」
「私が行ってくる」
「……え?」
リュカは彼女を見る。
「一人で?」
「うん」
「駄目だよ」
「どうして?」
「危ないから」
「大丈夫だよ」
フィオナは何でもないことのように答えた。
「すぐ戻ってくるから」
「でも」
「リュカはここで待ってて」
そう言って。
フィオナが洞窟へ入ろうとする。
「待って!」
リュカは咄嗟に彼女の腕を掴んだ。
「何?」
「一人で行くのは駄目だよ」
「だから、大丈夫だって」
「大丈夫じゃない!」
思ったよりも。
大きな声が出た。
フィオナが目を瞬かせる。
「……何で怒ってるの?」
「怒ってないよ」
「怒ってるじゃん」
「だって、危ないことするから!」
「危なくないよ」
「なんで言い切れるの?」
「私のほうが強いから」
「そういう問題じゃない!」
また。
声が大きくなった。
フィオナの表情が、少しだけ変わる。
「じゃあ、どういう問題なの?」
「だから!」
リュカは言葉に詰まった。
どういう問題なのか。
自分でも。
上手く説明できなかった。
フィオナは強い。
自分よりも。
遥かに。
千年以上を生きるエルフ。
精霊眼を持ち。
妖精と話すことができ。
魔法についても、自分よりずっと詳しい。
きっと。
そこらの魔物など。
彼女にとっては脅威ですらない。
分かっている。
それでも。
「……一人で行ってほしくないんだよ」
リュカは言った。
「どうして?」
「分からないけど!」
「分からないのに怒ってるの?」
「だって危ないだろ!」
「だから、大丈夫だって言ってるでしょ?」
「絶対なんてないだろ!」
「……」
「どれだけ強くても、何があるか分からないじゃないか!」
フィオナも。
少しだけ腹を立てた。
「じゃあ、どうするの?」
「え?」
「狭くて一人しか通れないんだよ?」
「それは……」
「私のほうが強い。だったら、私が行くのが一番安全でしょ?」
「でも!」
「リュカ」
フィオナの声が少し強くなる。
「心配してくれるのは嬉しいよ」
「だったら――」
「でも、何でも危ないって止められたら何もできないでしょ?」
「何でも止めてないよ!」
「今、止めてるじゃん!」
「今回は危ないからだよ!」
「だから大丈夫だって言ってるでしょ!」
「大丈夫じゃない!」
「なんで!?」
「分からないけど大丈夫じゃない!」
「もう!」
フィオナは頬を膨らませた。
「話にならない!」
「それはこっちの台詞だよ!」
「じゃあ、もういい!」
「何が!?」
「知らない!」
「僕だって知らないよ!」
二人は。
初めて。
本気で喧嘩した。
◇
結局。
その日は洞窟の調査を中断した。
感情的になったまま危険な場所へ入るべきではない。
その点だけは。
二人とも同じ意見だった。
けれど。
それから。
一言も口を利かなかった。
夜。
いつものように野営の準備をする。
リュカが火を起こす。
料理を作る。
フィオナは少し離れた場所に座っている。
「……」
「……」
気まずい。
とてつもなく。
気まずい。
いつもなら。
「いい匂い」
とか。
「まだ?」
とか。
「お腹空いた」
とか。
絶対に何か言ってくる。
なのに。
今日は何も言わない。
リュカは鍋を混ぜる。
ちらりと。
フィオナを見る。
目が合った。
「……」
「……」
二人同時に目を逸らした。
妖精たちが。
そんな二人を見ていた。
「……ねえ」
一体の妖精が言った。
「何?」
リュカが答える。
「仲直りしないの?」
「……」
返事ができない。
別の妖精がフィオナを見る。
「ねえ」
「何?」
「怒ってる?」
「別に」
「怒ってるじゃん」
「怒ってない」
「リュカと同じこと言ってる」
「……」
フィオナが黙る。
妖精たちは困ったように顔を見合わせた。
「どうする?」
「困ったね」
「喧嘩してる」
「初めてだね」
「料理冷めるよ?」
「……分かってる」
リュカは答えた。
料理を器へ盛り付ける。
一つ。
そして。
もう一つ。
いつものように。
二人分。
リュカはフィオナを見る。
「……ご飯できたよ」
「うん」
「……食べる?」
「食べる」
「じゃあ」
「うん」
それでも。
二人は少し離れて座った。
いつもなら。
焚き火を挟んで向かい合う。
あるいは。
隣に並ぶ。
けれど今日は。
微妙に遠い。
料理を食べる。
「……」
「……」
静かだった。
焚き火が。
ぱちぱちと音を立てている。
リュカは料理を口へ運ぶ。
味がしない。
いや。
料理の味はする。
けれど。
美味しいとは思えなかった。
ふと。
リュカは思い出した。
少し前まで。
食事なんて。
ただ空腹を満たすだけのものだった。
味など感じなかった。
それが。
フィオナと一緒に食べるようになって。
美味しいと思えるようになった。
楽しいと思えるようになった。
そして今。
同じ料理なのに。
フィオナが笑っていないだけで。
こんなにも違う。
「……」
リュカは匙を置いた。
そして。
フィオナを見る。
彼女も。
同じように。
料理を見つめていた。
「……フィオナ」
「何?」
「……」
「何?」
「ごめん」
フィオナが顔を上げた。
「……」
「言い方、悪かった」
「……」
「怒鳴るつもりじゃなかったんだ」
リュカは俯いた。
「でも」
そこで。
言葉が止まる。
いつもなら。
謝って終わっていた。
自分が悪い。
全部、自分が悪い。
だから。
ごめんなさい。
そう言えば。
少なくとも。
相手はそれ以上怒らないかもしれない。
けれど。
今回は。
違った。
「でも……心配だったんだ」
リュカは言った。
「フィオナが強いのは知ってる」
「……うん」
「僕なんかより、ずっと強い」
「……うん」
「それでも」
リュカは顔を上げた。
「一人で危ない場所に行ってほしくなかった」
「……」
「何かあったらって考えたら……嫌だったんだ」
フィオナは。
何も言わなかった。
ただ。
リュカを見つめている。
「だから」
リュカは小さく息を吐いた。
「意地張ってた」
「……」
「ごめん」
少しの沈黙。
そして。
フィオナも口を開いた。
「私も、ごめん」
「……え?」
「私も意地張ってた」
フィオナは膝を抱える。
「私のほうが強いから大丈夫って」
「うん」
「リュカが心配してることより、自分が正しいって証明することばっかり考えてた」
「……」
「だから」
フィオナは少しだけ笑った。
「ごめん」
「……うん」
「でも」
「何?」
「本当に私のほうが強いからね?」
「今それ言う!?」
「あははは!」
フィオナが笑った。
リュカも。
思わず笑った。
「もう……」
「事実でしょ?」
「そうだけど!」
「じゃあ問題ないね」
「あるよ!」
「まだ怒ってる?」
「怒ってないよ!」
「怒ってるじゃん」
「怒ってない!」
「さっきの私と同じこと言ってる」
「……」
今度は。
妖精たちが笑った。
「仲直りした!」
「よかった!」
「料理冷めてるよ?」
「あっ」
リュカは自分の器を見る。
すっかり冷めていた。
フィオナも。
自分の料理を一口食べる。
「……冷たい」
「だから言ったのに」
妖精が呆れる。
リュカは笑った。
「温め直そうか」
「うん」
そして。
少し考えて。
フィオナが立ち上がった。
自分の器を持って。
リュカの隣へ座る。
「……」
「何?」
「いや」
「何?」
「近くない?」
「いつもこれくらいでしょ?」
「……そうだっけ」
「そうだよ」
フィオナは何でもないことのように料理を食べ始める。
リュカも。
もう一度。
匙を手に取った。
同じ料理。
少し冷めている。
けれど。
さっきより。
ずっと美味しかった。
初めて喧嘩した。
初めて。
本気で怒った。
初めて。
相手の言葉に腹を立てた。
そして。
初めて。
仲直りした。
二人で旅をするということは。
楽しいことばかりではない。
意見が違うこともある。
腹が立つこともある。
傷つけてしまうこともある。
何も言いたくなくなる夜だってある。
けれど。
それでも。
話すことができる。
謝ることができる。
そして。
もう一度。
同じ食卓を囲むことができる。
当たり前など。
どこにもない。
だからこそ。
一緒に笑える時間を。
一緒に食べる料理を。
隣にいる人を。
大切にする。
それもまた。
二人で旅をするということだった。




