第34話 温泉に入ろう
旅の途中。
リュカとフィオナは、温泉で有名な町へ立ち寄った。
町へ入った瞬間から、至るところから白い湯気が立ち昇っている。
石畳の道。
軒を連ねる宿屋。
温泉饅頭を売る露店。
浴衣姿で歩く旅人たち。
そして。
町の中央には、大きな看板が掲げられていた。
『名湯の町へようこそ!』
「温泉?」
リュカが首を傾げる。
すると。
フィオナが驚いたように振り返った。
「知らないの?」
「知ってるよ」
「じゃあ、なんでそんな顔してるの?」
「入ったことないから」
「え?」
フィオナが目を丸くする。
「一度も?」
「うん」
「本当に?」
「そんなに驚くこと?」
「驚くよ」
フィオナは少し考える。
そして。
すぐに笑った。
「じゃあ、入ろう!」
「……一緒に!?」
「え?」
「え?」
二人は見つめ合った。
数秒。
沈黙。
そして。
フィオナが首を傾げる。
「男湯と女湯は別だよ?」
「……そうだよね」
「何を想像したの?」
「何も想像してないよ!」
「あやしい」
「してない!」
「えっち」
「ええ……」
リュカは思わず肩を落とした。
「なんで僕が悪いみたいになってるの?」
「だって、一緒に入るのかと思ったんでしょ?」
「一瞬だけだよ!」
「思ったんだ」
「言い方が悪かったから!」
「私は『入ろう』って言っただけだよ?」
「だから、その言い方が!」
「あははは!」
フィオナは楽しそうに笑った。
「からかわないでよ……」
「だって面白いんだもん」
「もう……」
こうして。
二人は町の温泉宿へ泊まることになった。
男湯。
リュカは恐る恐る湯船へ足を入れた。
「……熱っ」
思わず足を引っ込める。
けれど。
もう一度。
今度はゆっくりと身体を沈めていく。
「……ああ」
思わず。
声が漏れた。
温かい。
身体の芯まで。
じんわりと。
これまで溜まっていた旅の疲れが、少しずつ溶けていくようだった。
「……気持ちいい」
リュカは湯船の縁へ身体を預ける。
空を見上げる。
露天風呂から見える夜空には、無数の星が瞬いていた。
思えば。
旅を始めてから。
いろいろなことがあった。
フィオナと出会った。
妖精眼鏡を手に入れた。
初めて妖精を見た。
めちゃくちゃ怒られた。
謝った。
また怒られた。
また謝った。
そして。
生まれて初めて。
魔法を使うことができた。
火。
水。
風。
土。
四つの魔粒子。
妖精誘導法。
何もかも。
勇者パーティにいた頃には、想像すらできなかったことだった。
「……フィオナのおかげだな」
ぽつりと。
リュカは呟いた。
彼女と出会わなければ。
きっと。
今でも自分のことを無能だと思っていた。
世界には。
こんなにも知らないものがある。
美味しい料理。
妖精たち。
魔法を使う楽しさ。
そして。
温泉。
「……本当に気持ちいいな」
リュカは目を閉じた。
初めての温泉。
それは。
旅の疲れだけでなく。
三年間。
ずっと張り詰めていた何かまで。
ゆっくりと。
溶かしてくれるようだった。
◇
温泉から上がった後。
リュカは宿の廊下でフィオナを待っていた。
「遅いな……」
女性の入浴は長い。
そんな話を聞いたことがある。
本当なのだろうか。
などと考えていると。
「お待たせ」
声が聞こえた。
「遅いよ――」
振り返る。
そして。
リュカは固まった。
「……」
「何?」
フィオナが不思議そうに首を傾げる。
いつもと違った。
旅の間は。
長い髪を整え。
動きやすい服を着ている。
けれど今は。
湯上がり。
まだ僅かに濡れた長い髪。
火照った頬。
普段とは違う、ゆったりとした浴衣姿。
「……」
「リュカ?」
「何?」
「どうしたの?」
「何でもない」
リュカは目を逸らした。
「?」
フィオナが近づいてくる。
「なんでこっち見ないの?」
「見てるよ」
「見てないよ」
「見てる」
「じゃあ、こっち向いて」
「……」
「リュカ?」
「……何?」
仕方なく。
リュカはフィオナを見る。
目が合う。
「……」
そして。
また逸らした。
「やっぱり変」
「変じゃないよ」
「顔赤いよ?」
「温泉のせい!」
「もう上がってから結構経ってるよ?」
「まだ暑いんだよ!」
「ふーん」
フィオナが顔を近づける。
「ち、近いよ!」
「あやしい」
「何が!?」
「私を見て、顔が赤くなった」
「温泉のせいだって!」
「本当に?」
「本当!」
「ふーん」
フィオナは少し考える。
そして。
何かに気づいたように笑った。
「ああ」
「何?」
「そっか」
「何が?」
「仕方ないよね」
「だから何が?」
フィオナは得意そうに胸を張った。
「そりゃ私、エルフだもん」
「……それが?」
「人間と比べても綺麗だから、見惚れちゃうよね」
「そういうのじゃないよ!」
「違うの?」
「違う!」
「即答された」
「だって自分で言うから!」
「本当のことでしょ?」
「知らないよ!」
「顔赤いよ?」
「だから温泉のせい!」
「あははは!」
フィオナは楽しそうに笑った。
リュカはますます顔を赤くする。
「からかわないでよ!」
「だって面白いんだもん」
「僕で遊ばないで!」
「でも」
フィオナは少しだけ悪戯っぽく笑った。
「可哀想」
「……何が?」
「いつか、君に人間の奥さんができたら」
「え?」
「私のこと、思い出しちゃうかも」
「……」
リュカは黙った。
「こんな綺麗なエルフと旅をした後じゃ、大変だね」
「……もう」
「あははは!」
フィオナは笑う。
いつものように。
何でもない冗談を言うように。
けれど。
リュカは。
なぜか。
その言葉が少しだけ引っかかった。
――いつか、君に人間の奥さんができたら。
いつか。
自分はフィオナとは別の道を歩くのだろうか。
人間の女性と出会い。
恋をして。
結婚して。
家庭を持つ。
そして。
フィオナは。
また一人で旅をするのだろうか。
「……リュカ?」
「何?」
「また変な顔してる」
「してないよ」
「してる」
「してないって」
「じゃあ、何考えてたの?」
「……何でもない」
「あやしい」
「本当に何でもないよ」
「ふーん」
フィオナは、それ以上追及しなかった。
二人は並んで宿の廊下を歩く。
「ねえ、リュカ」
「何?」
「お腹空いた」
「また!?」
「温泉入ったから」
「温泉に入るとお腹空くの?」
「空くよ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんなんだ……」
「ねえ、ご飯まだかな?」
「さっき名物料理をあれだけ食べたのに……」
「それは昼でしょ?」
「まだお腹に残ってるよ!」
「あははは!」
フィオナが笑う。
リュカも。
少しだけ笑った。
まだ。
二人は知らなかった。
互いを特別に思い始めていることを。
隣にいることが。
いつの間にか。
当たり前になり始めていることを。
リュカは。
湯上がりのフィオナを見て、初めて目を逸らした。
フィオナは。
そんなリュカの反応を見て、なぜか少し嬉しそうに笑った。
けれど。
まだ。
二人は。
その気持ちを、恋とは呼ばなかった。




