第11話 一緒に旅しようよ
リュカは、しばらく言葉を失ったまま森を眺めていた。
妖精眼鏡の向こう側。
世界は今も、無数の光に満ちている。
赤い火の魔粒子。
青い水の魔粒子。
緑の風の魔粒子。
黄色い土の魔粒子。
それらは森の中を絶え間なく流れ、混ざり合いながら、世界を形作っていた。
花の上では、小さな妖精が羽を休めている。
木の枝には、数人の妖精が腰かけていた。
少し離れた場所では、先ほどリュカを叱りつけた妖精が、仲間たちへ何かを話している。
時折、こちらを指差しているのが見えた。
「……絶対、僕の悪口を言ってるよね」
「たぶんね」
フィオナが楽しそうに答える。
「何を言ってるか聞こえないの?」
「聞こうと思えば聞けるけど」
「聞いてよ」
「嫌だよ。怖いし」
「僕の悪口なのに!?」
「だからこそだよ」
フィオナは笑った。
リュカも、ほんの少しだけ口元を緩める。
怒られた。
妖精たちの間では、悪い意味で有名だった。
それでも不思議と、嫌な気持ちはしなかった。
妖精は、リュカを無能だとは言わなかった。
迷惑だと怒った。
これからは話を聞けと言った。
今までのやり方が間違っていたと教えてくれた。
つまり。
これから変わることができる。
初めて、そう思えた。
リュカはもう一度、周囲に満ちる魔粒子を見る。
火。
水。
風。
土。
四種類すべての光が、確かに自分の周囲へ集まっていた。
「……本当に、僕にも反応してる」
「言ったでしょ?」
「うん」
「まだ信じてなかったの?」
「少しだけ」
「疑り深いなあ」
「三年間、一度も魔法を使えなかったんだよ」
リュカは苦笑する。
「いきなり才能があるかもしれないって言われても、すぐには信じられないよ」
「まあ、それもそうか」
フィオナはあっさり納得した。
「でも、今は自分の目で見えたでしょ?」
「うん」
「なら、あとは調べればいいよ」
相変わらず、フィオナは簡単に言う。
分からなければ調べる。
できなければ、できる方法を探す。
たったそれだけのこと。
けれどリュカは、いつの間にかそんな当たり前の考え方すらできなくなっていた。
何をしても失敗する。
何度試してもできない。
なら、自分は無能なのだ。
そう決めつけていた。
いや。
決めつけられ続けた結果、自分でもそう信じてしまっていた。
リュカは、名残惜しそうに妖精眼鏡へ手を添えた。
そして、ゆっくりと外す。
その瞬間。
光に満ちていた世界が消えた。
赤も。
青も。
緑も。
黄も。
妖精たちの小さな姿も見えなくなる。
そこにあるのは、先ほどまでと同じ森だった。
木々。
草花。
木漏れ日。
葉を揺らす風。
けれど、リュカには分かっていた。
見えなくなっただけだ。
あの光も。
妖精たちも。
今も、ここにいる。
「……ありがとう」
「うん」
「こんな世界があるなんて、知らなかった」
「世界はずっと同じだよ」
フィオナは森を見渡す。
「今まで、リュカに見えてなかっただけ」
「そっか」
知らなかった。
だから存在しないと思っていた。
見えなかった。
だから自分には関係のないものだと思っていた。
自分の才能も、そうだったのかもしれない。
誰にも見つけてもらえなかっただけ。
自分自身にも見えていなかっただけ。
リュカは妖精眼鏡を両手で持ち、フィオナへ差し出した。
「本当にありがとう」
「どういたしまして」
「返すよ」
しかし、フィオナは受け取らなかった。
「いいよ」
「え?」
「あげる」
リュカは、しばらく固まった。
「……何を?」
「その眼鏡」
「いや、分かってるけど!」
「じゃあ、何?」
「いやいやいや! 駄目だよ!」
リュカは慌てて妖精眼鏡を差し出す。
しかしフィオナは、両手を背中へ回して受け取ろうとしない。
「なんで?」
「なんでって……これ、すごく貴重な魔導具なんでしょ!?」
「そうだね」
「竜族とエルフとドワーフの国くらいにしか流通してないんだよね!?」
「うん」
「精霊眼や精霊耳を失った有身精霊が使うものなんだよね!?」
「よく覚えてるね」
「だったら余計に受け取れないよ!」
フィオナは首を傾げた。
「でも、リュカには必要でしょ?」
「必要だけど……」
「じゃあ、使えばいいじゃん」
「そういう問題じゃないよ!」
「そういう問題だと思うけど」
フィオナにとっては、本当にそれだけのことらしい。
必要な人がいる。
自分は持っている。
なら渡す。
あまりにも単純だった。
「それに、それは私の予備だから」
「予備?」
「うん。私の分はもう一つあるよ」
「それでも貴重品には変わらないだろ?」
「細かいなあ」
「僕が普通だよ!」
フィオナは、しばらく妖精眼鏡を差し出したまま困っているリュカを見ていた。
その目が、少しずつ彼の顔へ向けられる。
赤く腫れた目。
乾ききっていない涙の跡。
泣いていたことを隠そうとして、何度も無理に笑おうとする表情。
「だって」
フィオナが言った。
「あなた、泣いてるじゃん」
リュカの動きが止まる。
「……もう泣いてないよ」
「さっきまで泣いてた」
「それは……」
「ものすごく泣いてた」
「そこまで言わなくてもいいだろ」
「森中に響くくらい泣いてた」
「爆発の音だよ!」
「泣き声も聞こえてたよ」
リュカは何も言えなくなった。
フィオナは少しだけ笑う。
からかうような笑みではなかった。
「悲しいことがあったんでしょ?」
「……まあ」
「怒ってた」
「……うん」
「自分の魔法に、消えてしまえって言ってた」
「聞いてたんだ」
「聞こえたからね」
リュカは俯いた。
思い返すだけで、胸の奥が痛くなる。
レイン。
ヴィオラ。
ガルド。
かつて仲間だと思っていた人たち。
追い出された。
杖も装備も取り上げられた。
去っていく背中へ、わざと悪口を浴びせられた。
もう戻る場所はない。
リュカの表情を見て、フィオナは尋ねる。
「あなた、捨てられたんじゃない?」
「……まあ」
否定はできなかった。
その通りだから。
「パーティを追い出された」
「やっぱり」
「役に立たなかったから」
「ふうん」
「僕は魔法使いなのに、爆裂魔法しか使えなかった。荷物を持って、料理して、洗濯して、魔物を解体して……それくらいしかできなかったんだ」
「それ、十分いろいろできると思うけど」
「戦えなかった」
「でも、料理はできるんでしょ?」
「できるけど……」
「私、料理できないよ」
「そうなの?」
「焼くくらいならできる」
「何を?」
「肉」
「それは料理と言っていいのかな……」
「美味しければ料理でしょ」
フィオナは胸を張った。
リュカは、ほんの少しだけ笑った。
フィオナはそれを見逃さなかった。
「今、笑った」
「……少しだけ」
「やっと笑ったね」
言われて気づく。
勇者パーティを追放されてから。
いや。
もしかすると、それよりずっと前から。
こんなふうに自然に笑ったのは、久しぶりだった。
フィオナは特別な使命を背負って旅をしていたわけではない。
世界を救うためでもない。
何かを成し遂げるためでもない。
ただ、世界を見たかった。
知らない街を歩きたい。
見たことのない景色を見たい。
美味しいものを食べたい。
珍しい酒を飲みたい。
それだけだった。
帰る日も決めていない。
目的地も決めていない。
だから。
旅の予定が少しくらい変わっても、大した問題ではなかった。
「私、旅の途中なんだけどさ」
フィオナが言った。
「うん」
「これから南の街へ行こうと思ってる」
「そうなんだ」
「そこに、すごく美味しい煮込み料理があるらしいんだよね」
「料理目当てなんだ」
「大事なことだよ」
フィオナは真剣な顔で答えた。
そして。
リュカへ手を差し出した。
「せっかくだから、一緒に旅しようよ」
「……え?」
「一人より二人のほうが楽しいでしょ?」
リュカは、差し出された手を見る。
白く細い手。
その光景に、三年前の記憶が重なった。
冒険者ギルド。
四大属性の適性がないと判明し、落ち込んでいた自分。
そこへレインが手を差し出した。
『ちょうど魔法使いを探してたんだ。なかなか見つからなくてさ』
嬉しかった。
自分にも居場所ができたと思った。
喜んで、その手を取った。
そして今日。
同じ手によって、居場所を奪われた。
『お前、もういらないから』
胸の奥が冷たくなる。
手が震える。
また誰かの手を取ることが、怖かった。
今は優しくても。
いつか変わるかもしれない。
また役に立てなければ、捨てられるかもしれない。
最初から誰とも関わらなければ、もう傷つかずに済む。
フィオナは手を差し出したまま、黙って待っていた。
急かさない。
無理に笑わない。
大丈夫だとも言わない。
ただ。
リュカが自分で決めるまで、待っている。
「……僕でいいの?」
ようやく、リュカは尋ねた。
フィオナは首を傾げる。
「何が?」
「一緒に旅する相手」
「他に誰かいる?」
「いないけど……」
「じゃあ、リュカでいいんじゃない?」
「そんな適当な……」
「旅なんて、そんなものでしょ」
リュカは、もう一度その手を見る。
怖い。
それでも。
ほんの少しだけ。
もう一度、誰かを信じてみたいと思った。
恐る恐る手を伸ばす。
指先が、フィオナの手に触れる。
フィオナは逃げなかった。
しっかりと、その手を握る。
「……僕でいいの?」
もう一度尋ねる。
フィオナは笑った。
「君がいいなんて言ってないよ」
「えっ」
「せっかくだからって言ったの」
「……そこは少しくらい格好いいこと言ってよ」
「嫌だよ。恥ずかしいし」
リュカは呆れた。
そして。
笑った。
勇者パーティを追放されてから、初めて心から笑った。
「じゃあ、よろしく」
「うん。よろしく、リュカ」
目的地のなかったフィオナの旅に、この日初めて、一人の同行者が加わった。
この時の二人は、まだ知らない。
これから共に旅をすることを。
美味しいものを食べることを。
時には喧嘩をして。
それでも仲直りをして。
二人だけの家を見つけることを。
互いに恋をすることを。
夫婦になることを。
限りある命に苦しむことを。
生と死を越えて、再び巡り会うことを。
そして遥かな未来。
もう一度、同じ言葉から二人の旅が始まることを。
「せっかくだから、一緒に旅しようよ」
それは。
二つの魂を結ぶ、長い旅の始まりだった。




