第9話 妖精眼鏡
「人間にも、魔粒子や妖精が見えるようになる眼鏡だよ」
「……え?」
リュカは、フィオナが差し出した眼鏡を見つめた。
繊細な装飾が施されたフレーム。
淡い光を帯びた透明なレンズ。
一見すれば、少し変わった眼鏡にしか見えない。
けれど。
三年間、魔法を学び続けてきたリュカには分かった。
これは、ただの眼鏡ではない。
極めて高度な魔導具だ。
「ちょっと待って」
「何?」
「今、なんて言った?」
「人間にも魔粒子や妖精が見えるようになる眼鏡」
「……本当に?」
「本当だよ」
フィオナは何でもないことのように答える。
しかし、リュカには信じられなかった。
魔粒子。
魔素を構成する最小単位。
火。
水。
風。
土。
通常、人間の目では決して見ることのできない存在。
さらに、御伽噺の中でしか知らない妖精まで見ることができるという。
そんな魔導具が、本当に存在するのか。
リュカは恐る恐る眼鏡へ顔を近づけた。
「触ってもいい?」
「いいよ」
「本当に?」
「眼鏡だからね。触らないと使えないよ」
「それはそうだけど……」
リュカは慎重に眼鏡を受け取った。
思っていたよりも軽い。
だが、手にした瞬間に分かった。
フレーム全体に、極めて複雑な魔法式が刻まれている。
「……すごい」
「そう?」
「このフレーム……全部、魔法式?」
「うん」
フィオナは頷く。
「レンズは特殊な魔水晶で作られてる。周囲の魔素や魔粒子から発せられる微細な魔力を拾って、人間にも認識できる情報へ変換するの」
「人間にも認識できる情報?」
「そう。まず、魔素や魔粒子を視覚情報へ変換する。それからフレームに刻まれた魔法式が、装着者の視神経や感覚神経、それに魔力回路へ魔法的に接続する」
「視神経だけじゃないんだ?」
「うん。妖精は人間みたいに、声帯を震わせて話しているわけじゃないからね」
「……え?」
リュカは首を傾げた。
フィオナは説明する。
「妖精は魔粒子で構成された身体を持つ生命体なんだ。だから私たち有身精霊とは違って、肉体的な声帯を持っていない」
「じゃあ、どうやって話すの?」
「魔粒子を震わせて、意思を伝えるの」
「魔粒子を……」
「そう。それを私たち精霊や有身精霊は、声として認識してる。でも普通の人間には、その振動を知覚できない」
フィオナは妖精眼鏡を指差す。
「この眼鏡は、妖精が発する魔粒子の振動を拾って、装着者の聴覚情報へ変換する機能も持ってるんだよ」
「つまり……」
「人間でも、妖精を見て、その声を聞くことができる」
リュカは絶句した。
魔粒子を見る。
妖精を見る。
その声を聞く。
人間には本来知覚できない精霊たちの世界を、人間の五感で認識できるようにする。
そんな魔導具。
聞いたことがない。
三年間。
魔法が使えないからこそ、必死に勉強した。
魔導書を読んだ。
魔法理論を学んだ。
有名な魔導具についても調べた。
けれど。
「こんな魔導具、聞いたこともない」
「そりゃそうだよ」
フィオナはあっさり答えた。
「竜族とエルフとドワーフの国くらいにしか流通してないからね」
「……そんなものを、どうして持ってるの?」
「まあ、なんていうか……」
フィオナは少し困ったように頬を掻いた。
「実は私、エルフなんだけど」
「それは知ってる」
「うん。耳を見れば分かるよね」
フィオナは自分の尖った耳を指で触る。
「でもね、私、ちょっと魔粒子の認知が苦手なんだよ」
「……認知が苦手?」
「そう」
フィオナは自分の瞳を指差した。
「普通のエルフなら、もっと細かいところまで見えるんだ。魔粒子がどこから来て、どこへ流れて、どう動いているのか。そういう細かい運行までね」
「フィオナには見えないの?」
「まったく見えないわけじゃないよ。大まかな流れなら分かる。でも、細かい動きになると、ちょっとね」
フィオナは肩をすくめた。
そして、笑った。
「まあ、私もエルフの中じゃ、あなたと一緒で無能なの。ははは」
「……」
リュカは何も言えなかった。
無能。
ほんの少し前まで、その言葉は自分を傷つけるために使われていた。
穀潰し。
役立たず。
お荷物。
勇者パーティの恥。
何度も浴びせられた言葉。
けれど、フィオナは自分自身に向けて同じ言葉を使いながら笑っていた。
まるで、そんなこと、大した問題ではないと言うように。
「……平気なの?」
「何が?」
「無能って言われても」
「うーん」
フィオナは少し考えた。
「まあ、得意じゃないものは得意じゃないからね」
「……」
「それで私の全部が決まるわけじゃないでしょ?」
リュカは答えられなかった。
それで私の全部が決まるわけじゃない。
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
魔法が使えない。
だから無能。
戦えない。
だから役立たず。
ずっと、そう思っていた。
「それに」
フィオナは、リュカの手にある眼鏡を指差した。
「見えにくいなら、道具を使えばいいしね」
「……それだけ?」
「それだけ」
フィオナは笑った。
「できないことがあるなら、できる方法を探せばいいじゃん」
あまりにも簡単に言う。
けれど、リュカには、その言葉が妙に胸に残った。
「ちなみに、その妖精眼鏡はね」
フィオナが話を戻す。
「もともとは、精霊眼や精霊耳を失った有身精霊のために改良された魔導具なんだよ」
「精霊眼や精霊耳?」
「うん。魔素や魔粒子を見るための感覚が精霊眼。妖精の声や魔粒子の振動を聞き取るための感覚が精霊耳」
「そんなものもあるんだ……」
「あるよ。私たち有身精霊にとっては、人間でいう視覚や聴覚に近いものだから」
フィオナは少しだけ目を伏せた。
「でも、事故や病気でそれを失うエルフやドワーフ、竜族もいる」
「じゃあ、この眼鏡は……」
「そう。失われた精霊眼や精霊耳を補助して、魔素や魔粒子、それに妖精たちを再び認識できるようにするためのもの」
リュカは改めて眼鏡を見る。
誰かの失われた世界を、もう一度取り戻すために使われている魔導具。
だが、一つ疑問が浮かんだ。
「これを作ったのも、エルフなの?」
「違うよ」
「ドワーフ?」
「違う」
「じゃあ、竜族?」
「それも違う」
「……誰?」
フィオナは少し楽しそうに笑った。
「人間」
「え?」
「この妖精眼鏡を最初に作ったのは、人間らしいよ」
「人間が?」
信じられなかった。
人間には精霊眼がない。
魔粒子を見ることもできない。
妖精の姿も。
その声も。
本来なら、知覚することすらできない。
それなのに、どうやって。
「昔ね」
フィオナは語り始める。
「竜族に育てられた人間がいたんだって」
「竜族に?」
「うん。詳しいことは私も知らないけどね」
幼い頃から竜族と共に暮らした、一人の人間。
彼には、家族が見ている世界が見えなかった。
竜たちが見ている魔素。
魔粒子。
妖精。
同じ場所に立っているのに。
同じ景色を見ているはずなのに。
彼だけには見えない。
聞こえない。
「それで、その人は思ったんだって」
フィオナは微笑んだ。
「竜族が見ている世界を、自分も知りたいって」
リュカは眼鏡を見つめる。
「それだけの理由で……?」
「うん」
「こんなものを作ったの?」
「そうみたい」
「……すごいな」
リュカは素直に呟いた。
世界を救うためではない。
魔王を倒すためでもない。
莫大な富を得るためでもない。
ただ、大切な者たちが見ている世界を、自分も見てみたい。
同じものを見たい。
同じ声を聞きたい。
その願いから、この眼鏡は生まれた。
「まあ、その後いろいろ改良されて、精霊眼や精霊耳を失った有身精霊のためにも使われるようになったらしいけどね」
「人間が作った魔導具を、エルフやドワーフや竜族が使ってるんだ」
「そうだよ」
フィオナは笑う。
「人間だって、すごいんだから」
リュカは何も言わなかった。
ただ、その言葉を胸の中で繰り返した。
人間だって、すごい。
そして、フィオナは先ほど言った。
できないことがあるなら、できる方法を探せばいい。
リュカはもう一度、妖精眼鏡を見る。
「でも……」
「何?」
「こんな貴重なもの、僕が使っていいの?」
「いいよ」
「壊したら?」
「弁償してね」
「えっ」
「冗談」
「……やめてよ」
フィオナは楽しそうに笑った。
「ほら」
そして、妖精眼鏡を指差す。
「かけてみて」
「……僕が?」
「他に誰がいるの?」
リュカは躊躇した。
壊したらどうしよう。
傷つけたら。
自分なんかが触っていいのだろうか。
そんな考えが次々と浮かぶ。
「早く」
「ちょっと待って」
「待たない」
「心の準備が……」
「眼鏡をかけるだけだよ?」
「すごく貴重なんでしょ?」
「大丈夫だって」
フィオナに急かされ、リュカは恐る恐る妖精眼鏡を両手で持ち上げた。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
顔へ近づける。
そして、妖精眼鏡をかけた。
その瞬間。
「――え?」
リュカの知っていた世界が、一変した。
森を満たす無数の光。
空気の中を流れる、色とりどりの粒子。
木々の周囲を舞う、小さな生命。
今まで、ずっとそこに存在していたのに。
自分には見えていなかった世界。
リュカは、息をすることさえ忘れた。
「何……これ……」
フィオナは、そんなリュカを見て微笑んだ。
「ようこそ」
そして、少しだけ誇らしそうに告げた。
「私たちが見ている世界へ」




