第57話 閑話 見えない明日を、選ぶ 〜リリア視点〜
朝の市場のまんなかで、わたしは籠をふたつ持ったまま、かれこれ三分ほど立ち止まっていた。
右手のは、安い。編みが粗くて、たぶん半年ももたない。左手のは、その三倍の値がついている。持ち手の革がしっかりしていて、たしかに長く使えそうだ。
(……どっちにしよう)
昔のわたしなら、こんなことで悩まなかった。未来視。光の民の血が見せてくれる、分岐の景色。どちらを選べばどうなるか、買ったあとの暮らしまでぜんぶ視えていたから、選ぶというより、正解を拾いに行くだけだった。
いまは、何も視えない。明日の天気も、この籠が壊れる日も、何ひとつ。
欠片が切り離されたあの夜、わたしの未来視も一緒に崩れた。最初は、怖かった。世界に目隠しをされたみたいで、足元がぐらぐらして、朝が来るのがこわいと思った日もある。
「お嬢さん、そろそろどっちか決めてくれると助かるんだがねえ」
顔を上げると、店のおじさんが困った顔で頬をかいていた。わたしの後ろに、三人ほど並んでいる。
「……すみません」
わたしは、左手の籠を差し出した。高いほうを。失敗するかもしれない。すぐ飽きるかもしれない。
それでも、自分で決めた。視えないからこそ、これは「わたしの選択」だ。誰かに用意された答えじゃない。その手触りが、最近、少しずつ好きになってきている。
(……とはいえ、三分は長かったかも)
***
帰り道の広場で、ユウトが荷車の前にしゃがみ込んでいた。
運送屋のおじさんが「今日中に三軒まわらにゃならん」と頭を抱えていて、その横でユウトは、荷札をぱたぱたと並べ替えている。ただ、並べ替えているだけだ。
「はい、これで一筆書き。北の通りから回れば、戻らなくて済みます」
「……あんた、なんでそんなのが分かるんだ」
「順番を入れ替えただけですよ」
力を失っても、あの人はあの人のままだった。剣も魔術もないのに、誰かの一日をそっと軽くして、本人は「並べ替えただけ」なんて顔をしている。
わたしは知っている。あれは、力があったからできたことじゃない。力がなくたって、あの人にできたことだ。たぶん――生まれたときから、ずっと。
「リリア。籠、買ったのか」
「うん。三分悩んだ」
「三分?」
「三分」
「……お前、世界の分岐を全部視てた頃はどうしてたんだ」
「視えてたから、悩まなかったの」
「じゃあ今のほうが人間らしいな」
(……それ、褒めてる?)
じとりと見上げると、ユウトは笑って荷車を押していってしまった。たぶん褒めてはいない。でも、悪い気もしなかった。
***
昨日、あの人は靴を買ってきてくれた。
わたしが一度こぼしただけの「底が薄くて、石畳が冷たい」を、覚えていて。「忘れないように、書いてあったから」なんて、こめかみを指でつついて、変なことを言って。
(……どこに書いてあるのよ、そんなの)
でも、嬉しかった。視えない明日の中で、誰かが自分のことを覚えていてくれる。それは、未来が視えていた頃には気づけなかった種類の、あたたかさだった。
そのあとで、「今度の霜月の市、一緒に行くか」と言われた。わたしは「うん。行く」と答えた。ずいぶんあっさり答えてしまった気がして、家に帰ってから、ひとりで枕に顔をうずめた。
***
夜。わたしは、小さな手帳を開いた。
最近、自分で始めたことだ。毎晩、明日やりたいことを一行だけ書く。ユウトの「今日の一歩」の、まねっこ。誰かに教わったわけじゃない。ただ、視えない明日は、自分で一歩を決めておかないと、足がすくむから。
最初のほうのページには、もっとひどいことが書いてある。『パンを焦がさない』『ユウトより先に起きる』――どちらも三日で破った。それでも、書いた日のことは、ちゃんと覚えている。視えなかったはずの明日を、自分の足でひとつずつ通り過ぎてきた証みたいで、破った記録でさえ、悪くない。
――明日の一歩。
――霜月の市で、ユウトの隣を、ちゃんと歩くこと。
書いてから、少し笑ってしまった。なんて小さな一歩だろう。昔のわたしが見たら、きっと呆れる。世界の分岐を全部視ていた天才少女が、いまや「隣を歩く」を決意しているだなんて。
でも、これがいい。大きな運命より、隣の一歩。視えない明日を、怖がりながら、それでも選ぶ。それが、わたしの新しい物語だ。
***
窓辺で灯りを消そうとしたとき、ふと、胸の奥が、しん、と澄んだ気がした。ほんの半秒だけ。
視えたわけじゃない。分岐が走ったわけでもない。ただ、遠くの何かに指先が触れたような、不思議な感覚。
(……気のせい、かな)
わたしは、それ以上は追わなかった。追いかけてしまったら、また「視よう」としてしまう。それは、もうわたしの選んだ生き方じゃない。
窓の外では、ユウトが薪を運んでいる。あの人はたぶん、明日の朝も寝坊する。
「リリア、寒くないか」
「ううん。平気」
「明日、雨だったらどうする」
「……傘を買う」
「即答だな」
「新しい籠もあるもの」
どんな一日になるかは、視えない。視えないから――楽しみだ、と。はじめて、そう思えた。
わたしは手帳をそっと閉じて、灯りのほうへ戻る。
明日の一歩は、もう決めてある。あとは、選ぶだけ。




