第56話 番外編 成長ログ、平和を持て余す
朝の光が、薄いカーテン越しに部屋へ差し込んでいた。
小さな街の外れ。簡素な家の、簡素な寝床。
俺は天井の木目を数えながら、ぼんやりと目を覚ます。
(……よく寝た)
特別な魔力も、世界を揺らす力もない。
欠片を手放してから、俺はただの「少し体力があって、少し要領がいいだけの青年」になった。それでも、朝はちゃんと来る。腹は減るし、寝坊もする。
台所から、とんとん、と小気味いい音が聞こえてくる。
「起きてる?」
「……起きてる」
リリアの声に、俺は身体を起こした。金色の髪を後ろで束ねた彼女が、鍋の前で振り返る。昔は何でも視えていた未来視の天才も、いまは朝食の塩加減ひとつで「うーん」と悩む、ただのひとりの人だ。
その横顔が、悪くない。むしろ、ずいぶん好きだと思う。
――と、そのときだった。
ふっ、と。
頭の奥に、懐かしい板が浮かんだ。
◆ 成長ログ ◆
「……は?」
思わず声が出た。
欠片を切り離されたあの夜から、ぱたりと黙り込んでいたはずの相棒だ。村の赤ん坊だった頃から、毎日律儀にポップしてきた、あの板。それが――今ごろ。
▼今日の一歩
・寝坊しないこと(達成・えらい)
・リリアが昨日こぼした「靴の底が薄い」を、忘れないこと
・東通りのカミルに、約束の荷の段取りを返すこと
(タスクが、完全に、家事と用事じゃねぇか)
俺は布団の上で頭を抱えた。
世界を救うでもなく、敵を倒すでもなく。「寝坊しないこと(達成・えらい)」。えらい、じゃないんだよ。誰だこのログ書いてんの。
(……いや、俺か)
でも、不思議と腹は立たなかった。
むしろ、ちょっと笑ってしまった。久しぶりすぎて、再会した旧友みたいだ。派手なことは何ひとつ起きない。それでも、ちゃんと「次の一歩」を教えてくれる。
「どうしたの、にやにやして」
「……いや。昔の知り合いが、ひょっこり顔出した」
「ふうん」
リリアは深く聞かない。皿を二枚、ことりと並べる。聞かないでいてくれるのが、いまの俺たちのちょうどいい距離だ。
***
朝飯のあと、俺は東通りへ向かった。
カミルというのは、街の小さな荷主だ。気のいい中年で、口癖は「いやあ困った困った」。今日もその顔をしていた。
「ユウトさん、ちょうどよかった。困った困った」
「どうしました」
「霜月の市が近いだろう。注文がいっぺんに来てな。荷馬車の手配が間に合わん。空荷で街を出て、向こうで積んで戻る――それを三往復もせにゃならんのだ」
俺は荷札の束を借りて、ざっと並べ替えた。
力なんて要らない。これは、段取りの話だ。
「カミルさん。出ていく荷と、戻ってくる荷を別々に考えるから三往復になるんですよ。これとこれは行き先が途中まで同じだ。だったら、行きに東の村へ落として、帰りにそこの作物を積んで戻ればいい。空で走る車を、一台も出さない」
「……む」
「順番をこう組めば、二往復で足ります。残りは市の前日にまとめてひとつ」
カミルはしばらく荷札を見つめ、それから、ぽん、と膝を打った。
「なんでこんな簡単なことに気づかんかったかなぁ、わしは」
「簡単に見えるように並べ替えただけです」
ほんとうに、それだけだ。
剣を振れば山が消える、みたいな力は、もう俺にはない。でも――荷の流れを読んで、無駄を一本抜く。それで誰かの「困った困った」がひとつ減る。
昔から、俺がいちばん得意だったのは、たぶんこっちだった。
(……今日の一歩、二つ目クリア)
頭の中で、勝手にログが小さく頷いた気がした。
***
帰り道、靴屋に寄った。
リリアの靴の底が薄い、と、ログがわざわざ書いていた。本人は一言「すり減ったな」と漏らしただけで、自分じゃ買い替えそうにない。昔の彼女なら、買い替えた先の未来まで視えていたから迷わなかった。いまは、迷う。だから、後回しにする。
俺は丈夫そうな底の一足を選んで、抱えて帰った。
「……これ」
「え?」
「底、薄くなってたろ。冬になる前に」
リリアは、しばらくその靴を見ていた。
それから、ふいに、ちょっとだけ目を伏せて笑った。
「……覚えてたんだ、そんなこと」
「忘れないように、書いてあったからな」
「どこに」
「……まあ、ここに」
俺は自分のこめかみを指でつついた。リリアは「変なの」と笑って、靴をそっと受け取った。
それ以上は言わない。言わなくても、たぶん伝わっている。それでいい。
***
夜。
窓の外に星が見える。
昔のように世界の構造は見えないし、明日の天気も読めない。
俺は、今日のことをぼんやり振り返る。
欠片を失った日、俺は「普通になった」と思った。力もない、違和感もない、ただ普通だ、と。
でも――この相棒だけは、いつのまにか戻ってきていた。村の赤ん坊だった頃、いちばん最初に「今日の一歩」をくれた、地味だけど最強の相棒。
(これは、欠片の残りなのか。ただの、俺の昔からの特典なのか)
考えても、答えは出ない。
まあ、いい。どっちでも。
◆ 成長ログ ◆
▼今日の一歩(達成)
・寝坊しないこと
・リリアの靴
・カミルの荷
▼明日の一歩
・霜月の市に、リリアを誘ってみること
(……おい)
俺は思わず板を二度見した。
(誘ってみること、って。タスクにすんなよ、そういうのは)
でも――まあ。
背中を押されるくらいが、俺にはちょうどいいのかもしれない。
「リリア」
「ん?」
「今度の市、一緒に行くか」
彼女は少し目を丸くして、それから、いつかの天才少女の顔で、まっすぐに笑った。
「うん。行く」
何も起きない夜だった。
奇跡もない。世界も変わらない。
でも、確かに俺は、ひとつ選んだ。
明日の一歩は、明日になればまた出る。たぶん、それくらいの平和が、いまの俺にはいちばんいい。




