第8話 神の小さな悩み
人は、神は何でも思い通りにできるものだと思っている。
嵐を鎮め、病を癒やし、奇跡を起こす。
確かに、それは間違いではない。
だが、神にも苦手なものはある。
例えば――料理の分量だ。
その朝も、彼女はいつものように厨房へ立っていた。
「今日は肉じゃがです」
その一言を聞いた瞬間、私は少しだけ心が躍る。
肉じゃが。
彼女が初めて作る料理ではないが、お供えとしては珍しい。
ことことと鍋で煮込まれる音。
甘辛い香りが神殿中に広がっていく。
彼女は味見をして、満足そうに微笑んだ。
「よくできました」
その笑顔を見ると、こちらまで嬉しくなる。
神棚へ供えられた肉じゃがは、今日も丁寧に盛り付けられていた。
「温かいうちがおいしいですよ」
彼女はそう言って祈りを捧げる。
……温かいうち、か。
神である私にとって温度は大きな問題ではない。
それでも、そんなふうに気遣ってくれることが嬉しかった。
彼女が部屋を出た後、私は静かに供え物へ意識を向ける。
「これは……実に良い」
優しい甘さ。
よく煮えたじゃがいも。
柔らかな肉。
毎日供えられる料理はどれも楽しみだが、今日の出来は特に素晴らしかった。
もう少しだけ味わいたい。
そう思った、その時だった。
厨房では、彼女が鍋を見つめて首を傾げている。
「あれ?」
私は思わず視線を向ける。
しまった。
無意識に力が漏れてしまっていた。
彼女がお供えに取り分ける分とは別に、鍋の中身がほんの少し増えてしまっていたのである。
神の力は便利だ。
だが、便利すぎることもある。
「これは……少し増やしすぎたか」
彼女は不思議そうにしながらも、残った肉じゃがを見つめている。
そして。
「もったいないですし……」
食べ始めた。
一口。
もう一口。
さらにもう一口。
「……」
私は静かに見守る。
「今日は本当によくできました」
嬉しそうに笑う彼女。
その笑顔は可愛らしい。
可愛らしいのだが。
「……食べ過ぎではないか?」
鍋の中身が、見る見るうちに減っていく。
私が増やした分だけではない。
元からあった分まで勢いよく食べている。
「待ちなさい。その辺りで十分ではないか」
もちろん、声は届かない。
彼女は幸せそうな表情で最後の一口を口へ運んでいた。
その日の妨害は、比較的穏やかなものだった。
階段に置かれた小石。
少し緩められた扉の蝶番。
どれも大事には至らない程度のものだ。
私は人知れず小石を端へ転がし、扉が自然に閉まるよう風向きを変える。
誰にも気づかれない、小さな介入。
最近はこのくらいの加減が分かってきた。
「……これなら問題あるまい」
そう思っていた。
数日後までは。
彼女は鏡を見つめ、しばらく固まっていた。
「……増えてる」
体重計の数字を見て、肩を落とす。
私は事情を知っている。
原因の一端は、間違いなく私だ。
肉じゃがを増やした。
焼き菓子も少しだけ多く実った果実を使わせた。
彼女が作る料理を、ついもっと味わいたくなってしまった。
結果として、余りが増え。
彼女は「もったいない」と言って食べる。
……完全に私の失策だった。
「低糖質にしてみましょう」
彼女は真剣な表情で献立帳を開いている。
「お菓子も甘さを控えめにして……歩く距離も増やして……」
健康のことを考え始めたらしい。
私は思わず苦笑する。
「真面目な娘だ」
普通なら、「少しくらい大丈夫」と考えて終わるところだろう。
けれど彼女は違う。
神へのお供えを続けながら、自分の健康にも気を配ろうとしている。
その姿勢が、彼女らしかった。
私は神棚の前で祈る彼女を静かに見守る。
どうやら、これからは介入する場所をもう少し選ばなければならないらしい。
危険から守ることは必要だ。
しかし、料理の量まで増やす必要はなかった。
「……反省しよう」
小さく呟く。
もっとも。
明日の朝、彼女がどんな料理を作ってくれるのか。
その楽しみだけは、どうしても我慢できそうになかった。




