第6話閑話 とある神官の災難
神殿で暮らしていれば、一日の流れはほとんど決まっている。
夜明け前に起き、身を清め、朝の支度を整え、祈祷場へ向かう。
毎日繰り返される日課だからこそ、少しでも時間を節約したくなる日もある。
その日も、私はそう考えた。
「少し遅れたか」
寝坊をしたわけではない。
だが、朝の雑務に思ったより時間を取られ、祈祷まであまり余裕がなかった。
正面の石畳を通れば確実だが、少し遠回りになる。
ならば、と私は神殿の細い道へ足を向けた。
古くからある近道だ。
あまり人は通らないが、歩けない道ではない。
途中には使われなくなった古い井戸がある。
今では新しい井戸が造られているため、水を汲みに来る者も殆どいない。
普段なら気にも留めず通り過ぎる場所だった。
「急げば間に合うな」
井戸の脇を歩いた、その時だった。
――ミシッ。
「……ん?」
足元から嫌な音がした。
次の瞬間には地面が崩れ、身体が宙へ投げ出される。
「なっ――!」
避ける間もなかった。
視界がぐるりと回転し、私はそのまま古い井戸の中へ落ちた。
――どぼん!
冷たい水が全身を包む。
息が止まり、慌てて水面へ顔を出した。
「ぶはっ!」
幸い、水は思ったより深くない。
井戸は古くても完全に枯れていたわけではなく、胸の辺りまで水が残っていた。
「なんということだ……」
見上げると、井戸の縁は思ったより高い。
服は水を吸って重く、身体にまとわりついて動きづらい。
神官服のまま井戸へ落ちるなど、誰が想像するだろうか。
「くっ……」
石積みに手をかけ、慎重によじ登る。
何度か足を滑らせながらも、どうにか地上へ這い上がることができた。
その場に座り込み、大きく息を吐く。
全身から水が滴り落ち、足元には小さな水たまりができていた。
「最悪だ……」
怪我がなかったのは幸いだ。
だが、この姿では祈祷場へ行けるものではない。
ないのだが、、
私は空を見上げる。
朝日が昇り始めている。
時間がない。
「部屋へ戻るか……?」
いや、間に合わない。
ここから自室へ戻り、服を着替え、再び祈祷場へ向かえば、確実に遅刻する。
神官として朝の祈祷に遅れるわけにはいかない。
「……仕方ない」
私は神官服の裾をぎゅっと絞る。
ぽたぽたと大量の水が地面へ落ちる。
袖も、裾も、できる限り水を切る。
多少は軽くなったが、濡れていることに変わりはない。
朝の風が吹き、肌寒さに思わず肩を震わせた。
「これで行くしかないか」
私は濡れた髪を軽く手で整え、そのまま祈祷場へ急いだ。
歩くたびに靴の中で水が鳴る。
衣の裾からは絶えず雫が落ち続ける。
こんな格好で人前に出るのは気が進まなかったが、背に腹は代えられない。
祈祷場へ着くと、すでに何人かの神官が集まっていた。
皆の視線が一斉にこちらへ向く。
「……どうした、その姿は」
一人が目を丸くする。
「少し、井戸に落ちてな」
「少し、で済む姿ではないぞ」
それもそうだ。
頭の先から足元までずぶ濡れなのだから。
私は苦笑するしかなかった。
「古い井戸のそばを歩いていたら、足元が崩れた」
「怪我は?」
「ない。それだけが救いだ」
周囲は呆れたような、それでいて安心したような表情を浮かべた。
私は空いている場所へ座り、濡れた衣が床を汚さないよう静かに整える。
今日は散々な朝だった。
これほど運の悪い日は、そうそうあるまい。
そう思いながら祈りの鐘を待っていると、一人の若い女性神官がやって来た。
「雨、降っていましたっけ?」
彼女は不思議そうに首を傾げる。
私は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく息をついた。
「……井戸だ」
「井戸?」
「気にするな」
それ以上説明する気力は残っていなかった。
彼女は「そうですか」と納得したような、していないような顔で自分の席へ向かっていく。
その後ろ姿を見送りながら、私はもう二度と近道などするものかと心に固く誓った。
もちろん、この災難が本来は別の誰かに降りかかるはずだったことなど、知る由もなかった。




