第5話 神の手の届く距離
神という存在は、人の営みを見守るものだ。
喜びも、悲しみも、願いも。
神殿で暮らす神官たちが何を思い、何を目指しているのかも、私はすべて知っている。
けれど、その中でも最近、私が特に目を向けてしまう存在がいる。
彼女だ。
今日も朝早くから、彼女は厨房に立っていた。
手作りの料理を作り、神棚へ供えるために。
そして今日は民への慈善活動として炊き出しへ向かう日だ。
私は神殿に宿る神として、その様子を遠くから静かに見守っていた。
「どうぞ、温かいうちに召し上がってください」
彼女は笑顔で料理を配っている。
そこに特別な力があるわけではない。
珍しい術を使うわけでもない。
ただ、一人ひとりに丁寧に声をかけ、相手のことを思いながら食事を渡している。
それが彼女の良さなのだと思う。
神官たちの多くは、神への信仰を胸に真面目に務めを果たしている。
祈りも、神事も、慈善活動も手を抜く者はいない。
だからこそ、私は公平でいなければならない。
誰か一人を特別に扱ってはいけない。
そう理解している。
……理解しているのだが。
彼女が人々の笑顔を見るたびに嬉しそうにする姿を見ると、どうしても目を離せなくなる。
やがて炊き出しは無事に終わり、彼女たちは神殿へ戻ってきた。
問題が起きたのは、その直後だった。
私はすぐに異変に気づいた。
荷車の車輪が、道の凹みにぶつかる。
積まれていた鍋や道具が大きく傾く。
そして、その先には彼女がいた。
「……っ」
考えるより先に力を使っていた。
風を起こす。
ほんのわずかな風。
けれど、そのわずかな変化で十分だった。
落ちてきた鍋の軌道が少しだけ逸れる。
彼女の横を通り過ぎ、地面へ落ちた。
大きな音が響くが、彼女は無事だった。
……しかし。
「しまった」
私は思わず呟いていた。
今のは、完全な介入ではないか。
偶然起きるはずだった出来事を、私の力で変えてしまった。
これでは公平という立場から外れてしまう。
もし誰かが気づいたら。
もし神官たちが、神の力によるものだと理解したら。
様々な問題が起きる。
私は緊張しながら、その場にいた神官たちの様子を見る。
「大丈夫!?」
「怪我はない!?」
彼らは慌てて彼女の元へ駆け寄っている。
しかし、その表情に疑問はない。
誰も風の存在に気づいていない。
誰も、今起きたことを不自然だとは思っていない。
「……よかった」
私は小さく息を吐いた。
危うく、隠しきれないほどの手出しをするところだった。
その日の夜。
私は神棚を通して、彼女の声を聞いていた。
「神様」
いつもの報告だった。
彼女は毎晩、その日にあった出来事を私へ話してくれる。
「今日は炊き出しへ行ってきました」
嬉しそうに話す声。
人々が喜んでくれたこと。
料理を褒めてもらえたこと。
そして。
「帰ってきた時、危ないことがありました」
私は少しだけ身構える。
「鍋が落ちてきたんです」
やはり、その話をするのか。
「でも……不思議なことに、私には当たりませんでした」
彼女は少し考えるように間を置く。
「きっと、神様が守ってくださったのですね」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
神である私が、こんなことで喜んでいいのか分からない。
けれど。
彼女の感謝の言葉は、何よりも嬉しかった。
「ありがとうございます」
彼女はそう言って、静かに手を合わせる。
私は答えることができない。
姿を見せることもできない。
ただ、そこにいるだけだ。
……だが。
私は考えていた。
どこまでなら、許されるのだろう。
危険を避けるためなら。
誰かを傷つけないためなら。
少しだけなら、許されるのではないか。
そう思ってしまう。
けれど、その「少し」は、いつか大きな介入にならないだろうか。
私は神だ。
だからこそ、力を使うことには慎重でなければならない。
それでも。
明日の朝、彼女がまた作る料理を楽しみにしている自分がいる。
……困ったものだ。
私は静かに神殿を見渡す。
そして、小さく呟いた。
「守る距離を、間違えないようにしなければな」
その声を聞く者はいない。
ただ一人を除いて。
彼女が明日も、笑顔で朝を迎えられるように。
私は今日も、静かに見守り続ける。




