第4話 小さな風の加護
神官の務めは、神に祈りを捧げることだけではない。
神の教えを人々へ届け、困っている者に手を差し伸べることも、私たちの大切な役目だ。
そのため今日は、町外れの集落へ炊き出しに向かうことになった。
「忘れ物はないですか?」
「鍋も食材も揃っている。問題ない」
同行する神官たちは、いつも通り真面目な表情で準備をしている。
最近、神殿内では妙な災難が続いているけれど、仕事に向き合う姿勢は誰も変わらない。
神事では誰よりも丁寧に祈り、民への対応では優しく声をかける。
次の神官長の座を巡って争っているとはいえ、皆が皆神官としての責務を忘れているわけではないのだ。
今日の炊き出しも、特に問題は起きなかった。
温かい食事を配ると、子どもたちは嬉しそうに笑い、お年寄りたちは何度も礼を言ってくれた。
「ありがとうございます、神官様」
その言葉を聞くたびに、この仕事をしていてよかったと思う。
料理を作ることも好きだけれど、誰かが笑顔になる瞬間を見ることも、私は嬉しかった。
炊き出しが無事に終わり、私たちは神殿へ戻ることになった。
問題が起きたのは、その帰り道だった。
「少し急いで片付けましょう」
神殿へ戻った私たちは、使った鍋や調理道具、机などを元の場所に戻すため最初に厨房に向かっていた。
その時、
ガタン。
大きな音が響く。
「危ない!」
誰かの声が聞こえた。
荷車の上に積んでいた鍋や道具が、大きく傾く。
そして、その先にいたのは――私だった。
避けようとした。
けれど、突然のことで身体が動かなかった。
次の瞬間。
ふわり、と風が吹いた。
強い風ではない。
春の日に窓から入ってくるような、優しい風だった。
その風に押されるように、落ちかけていた鍋は少しだけ軌道を変え、私の横を通り過ぎて地面へ落ちた。
大きな音が響く。
けれど、私には何も当たっていなかった。
「……え?」
呆然と立ち尽くす。
「大丈夫!?」
近くにいた神官たちが慌てて駆け寄ってくる。
「はい……大丈夫です」
自分でも不思議だった。
あれだけ近くに落ちたのに、怪我一つしていない。
「本当に運が良かったな」
そう言われ、私は苦笑する。
「そう、ですね。不思議なくらいです」
片付けを手伝いながら、何度も先ほどのことを思い返した。
あの風は、一体何だったのだろうか。
けれど考えても考えても答えは出ない。
結局、その後はいつも通りだった。
汚れた鍋を洗い、道具を元の場所へ戻し、明日の準備をする。
一日の終わりには、疲れはあったけれど、不思議と心は穏やかだった。
夜。
寝る前に、私は神棚の前へ座った。
朝と同じように手を合わせる。
「神様」
静かな部屋に、自分の声だけが響く。
「今日は炊き出しへ行ってきました。皆さん、とても喜んでくださいました」
今日あったことを、一つずつ報告していく。
料理のこと。
町の人々の笑顔。
そして、帰り道で起きた出来事。
「危ないところでしたが……怪我をしませんでした」
私は神棚を見る。
もちろん、返事はない。
それでも、なぜか温かなものを感じた。
「もしかしたら……神様が守ってくださったのでしょうか」
そんな都合の良いことがあるはずない。
そう思いながらも、私は自然と微笑んでいた。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
「これからも、皆さんを見守ってください」
布団に入る前に、もう一度だけ神棚を見る。
明日もまた、いつものようにお供えを作ろう。
神様が少しでも喜んでくださるように。
――私は知らない。
あの時吹いた風が、偶然などではなかったことを。
そして神殿の奥深くで、一人の神が誰にも気づかれないよう安堵していたことを。
ただ一つ。
私は、今日も一日を無事に終えられたことを心から感謝していた。




