第3章 誰も名前を持たない夜
火は、いつもより静かに燃えていた。
ガビの話を聞いたあと、母ヤンマはしばらく笑っていた。いつものように、何も疑わない笑いだった。
「いいことじゃない」と言って、何度もガビの頭を抱きしめる。だが、その胸の鼓動は、いつになく激しく波打っていた。
父ヤンバは、火を見つめたまま何も言わなかった。ただ、研ぎ澄まされた石斧を、何度も、何度も、無意味に磨き続けていた。
長老ビジルは、少し遅れて口を開いた。
「……悪いことではない」
肯定ではなかった。否定でもなかった。
沈黙のあと、ビジルは一度だけ目を閉じた。それは"判断"ではなく、"ためらい"に近かった。
「いずれにしても……近いな」
その言葉は、誰に向けられたものでもなかった。今のことを言っているのか、もっと遠い何かを言っているのか、ガビには判断できなかった。
川辺で、少女は水浴びしていた。ガビが近づいても驚かなかった。待っていたのかもしれない。
少女は自分を指さし、言った。
「ピッピ」
ガビはその音を繰り返した。ピッピ。それが名前だと理解した瞬間、世界が少しだけ鮮やかになった気がした。
ある夕暮れ、二人は岩陰で並んで座っていた。木漏れ日が水面を割り、橙色の光が揺れていた。
ピッピが毛皮を身に纏おうとしたとき、ガビはその手を止めた。彼女は動かなかった。逃げもしない。ただ、ガビを見た。
長い沈黙のあと、二人はゆっくりと重なった。種の違う二つの体が、互いの熱を探るように引き寄せられていく。
ピッピの細く柔らかい体は、ガビの厚い胸と腕の重さに小さく震えながらも、必死にしがみつく。
折れそうな指が背中に食い込み、二人の体温と鼓動が、川の音に混じって溶け合うように響いていた。




