私の名は――
「名前が決まらんな。ヨーク、何がいいと思う」
真剣な眼差しで“人間の名づけ本”を読むレノに、ヨークは呆れたような視線を向ける。傍に控えているメリーはもう慣れたのか、無表情で書類をさばいていた。
「何でも良い」
「ハナにしようかな」
「……どうでもいい」
「よし、ハナにしよう。どうだ、“ハナ”は。よく旧時代の人間がペットにつけた名だそうだ」
レノが膝に乗せた少女を撫でながら、ニコニコ笑う。少女も自分の名前がつけられたのだと気づくと、にっこり笑って何度か頷いた。
「ハナ……私の名前ですよね」
「ああ、今日からお前はハナだ」
少女――ハナはさらに笑みを濃くすると、恥ずかしそうに視線をあちこちへ彷徨わせた。
「ああ……なんか……あれだな。人間は尻尾がないし耳が動かないから感情が分かりづらいと思っていたが……人間愛好者が言うように、感情が全て顔に出るんだな」
しまりのない顔をしながら、レノがハナの頭を撫でる。
それを見ていたヨークは小さくため息をつくと、レノに一枚の紙を差し出した。
「これは?」
「大臣の服を着たネズミからだ」
「ネズミって……お前いい加減に主要動物の名前くらい覚えたらどうだ」
顔をしかめるレノなど気にも留めず、ヨークはレノが紙を受け取ったのを見ると窓から飛び降りて出て行った。怪我をすると思ったハナが声をあげると、レノはハナを抱きしめながら「あれは大丈夫だ。いつもああやっている」と呆れたような声を出す。
そう言われても予想だにしなかったヨークの行動に、ハナはふわふわの毛に埋もれながら自分の心臓が早鐘を打つように鼓動しているの音を聞いていた。
「大丈夫……なんだ……あれで……」
「忍者みたいなものさ。ヨークはなかなか死なない」
「強いんですね」
ポツリとそう漏らせば、レノは少し不機嫌そうに顔をしかめる。
そしてハナの両頬を手で挟みこむと、自分と向き合うように顔を上げさせた。
「私だって強いぞ。力はこの国で一番強いし、お金もあるし、権力もある」
「そうですね。でも、レノはそれを誇示しないから、凄いですよね」
本当に、心底そう思っている声色でハナがそう言えば、レノは一瞬黙ったあと、気まずそうに「まあ、な」とつぶやいた。
「おやおや……これから陛下の躾けはハナ様にお願いしましょうか?」
棒読みでそう言うメリーに、レノはさらに気まずそうな表情になる。
まさかハナが褒めてくれるとは思わず、自分が嫉妬だけで子供のようなことを言ったのが恥ずかしくなったのだ。
「……ハナ。外で遊んで来たらどうだ。首輪をつけておけば、お前が私の愛玩人間だとわかるだろう。そうしたら誰もお前に悪さなどしないよ。だが決して言葉を発するな。大変なことになるからな」
「ああ、陛下そのことについてですが少々お待ち頂きたく」
非常に残念そうな表情を浮かべたメリーが、わざとらしくため息をつく。
「その書類をご覧下さい」
言われて書類に目を通していくレノ。
そして読み進めていくとレノの眉間には深いしわが寄っていった。
「……どういうことだ」
「端的に言えば、今度行なわれるパレードにハナ様を連れて行って、国民に“王室が始祖人間を保護した”ことをアピールしてほしいと言うことです。そしてそれまで、ハナ様は表に出ないで頂きたく。それが過ぎればハナ様が口を開いても問題はありませんし、むしろそうして頂きたいくらいです」
「嫌だ」
「いいえ、これは決定事項でございます」
「俺に承認を通さずにか?」
「とんでもございません。しかし、陛下は承認印を押すことになるでしょう」
傲慢な言い方に少し腹が立ったレノであったが、この老いた羊が今までに間違ったことを言ったことはなかった。小さい頃からの付き合いであったため、レノはメリーを無条件で信用するきらいがあるのだ。
だから気を悪くしながらも、メリーの話の続きを促す。
「理由は?」
「研究所にうるさく言われないためでございます。大々的に始祖人間が王の物だと広まれば、研究所は言い出しにくくなる。まあ、もっとも、すでに飼い主の登録はしておりますので、これはあくまでも保険……で、ございますな。それに始祖人間が見つかったとなれば国民の士気も上がりましょう」
そう言いながら、メリーはさばいた書類をひとまとめにして紐でくくる。
そこに「処理済」のラベルを結びつけながら、レノへと視線を寄越した。
「ああ、それから、万が一ハナ様が街で迷子になっても、誰かが王宮へ届けてくれます。国民の監視の目はそこらの騎士よりも役に立ちますよ。下町の隅々まで、ね」
「なるほど……王宮なら高額の謝礼を払うだろうからな。傷一つつけずに帰ってくる可能性が高くなるというわけだ。まあ、そもそもハナを一人で街にやることはないだろうが、念には念をと言うしな」
一理あると思ったレノは、ため息を付きながらもクッションのカタログを引っ張り出した。
「……陛下、念のための確認でございますが、何をやっておられるのでしょうか」
「クッションを買う。いるだろう? パレード用のゾウはゆっくり歩くとはいえ、上に乗せる乗り場は硬いからな。我々動物は大丈夫かもしれんが、人間には硬すぎるだろう。肌が傷ついたら困る」
「それは結構でございますが、今は業務中です。ハナ様に嫌われますよ」
「…………」
ムっとしてメリーを睨みつけるレノ。
「レ、レノ……」
ハナが不安げな声を出してレノを見上げるも、そのきつい視線はメリーに向いていた。
しかし、長細い瞳孔でジッと自分を見つめるメリーに対してわざとらしくため息をつくと、レノはとうとう観念して手に持ったカタログを部屋の隅へと放り投げたのだった。
* * * * *
「ハナ様! ほら、ハナ様! こちらでございますよ!」
黄色い声が部屋の中に満ちる。
あのカタログ放り投げ事件からしばらく、どうにも仕事に集中できないレノのために、ハナはメイドたちと遊ぶことになっていた。
「まあ、お可愛らしい。笑っているわ」
部屋の中にはメイド服を着た猫と犬、それからウサギが数名。どの動物も満面の笑みを浮かべてハナを見つめていた。そして手を叩いてハナを呼びハナがすぐそばまで行くと口の中へとオヤツを放り込むのだ。
ハナも人としてどうなんだろうと思いつつも、“愛玩人間”と同じ行動を取って知能が低いように見せかけていた。どこまで演技をすればいいかわからなかったものの、知能が低いように見せて損はないはずだと思ったのだ。
そしてそれは正解だった。
「本当にお可愛らしいわねぇ……まだ子供のようね。骨折をしているからあまり歩かせるのも……とは思うけど、ヒョコヒョコ歩くのが可愛くて……」
「お医者様も少しなら運動をさせてもいいっておっしゃっていたし……大丈夫じゃないかしら? 痛がっている様子はないもの」
「ハナ様は何歳くらいなのかしら? アジア種の人間は子供のように見えても、大人であることが多いと言うじゃない?」
「どちらでもいいわよ。こんなにお可愛らしいのだもの」
パタパタと目の前で動かされる“ヒトジャラシ”を視線で追いかけながら、ハナはメイド達の会話を聞く。
たまにヒトジャラシを手でつかもうとすると、いい具合にスルリとかわされる。
「それにしても衣装屋は遅いわねぇ。王宮の依頼なのにどうしてこんなに遅いのかしら。ハナ様のお洋服を作るのに時間がかかりそうだから早めに来たいってご自分でおっしゃっていたのに」
「シーズンだから仕方がないわよ。ほら、もうすぐ陛下の誕生パレードでしょう?」
そのセリフを聞いて驚いたのはハナだ。
まさかメリーが言っていたパレードと言うのが、レノの誕生を祝うためだなんて微塵も思っていなかったからだ。それどころか自分が衣装をプレゼントされそうになっていると気づき、わずかながらに動揺した。
「貴族はみんな晩餐会のための衣装を作っているし、同席する愛玩人間の衣装を作るのは当たり前のことだわ」
「それでも陛下の誕生パレードよ? 少しくらいこちらを優先してくれてもいいのに」
「わかっているでしょう? 陛下はそんなことを望まないって」
メイドの話は続くがハナの頭には入ってこない。自分を拾ってくれたレノに何ができるだろうと考えるのに必死で、ヒトジャラシに興味があるふりはすっかり忘れ去っていた。
「あら、飽きたのかしら?」
「わかるわ。だって遅いもの。さすがにヒトジャラシだけでハナ様のご機嫌を取れるとは思っていないわよ」
「まあ、そうねぇ……」
パタパタと猫のメイドの尻尾が揺れる。
ハナに“動物は尻尾を触られるのが嫌いである”という知識はあった。それでも、それはとても魅力的な動きで――
「きゃあ!?」
つい、それをそっと握りこんでしまった。
「ちょっと、大声出さないの! ハナ様が驚いたらどうするのよ!」
「だ、だって急に握るから……」
「悪気はないのよ。我慢なさい」
「わかってるわよ……」
猫のメイドは困ったように直立不動でハナを見つめる。
ハナは申し訳なさそうな顔をしながらも、怒られないのをいいことに猫の尻尾をそっとなでた。
「尻尾がお好きなのかしら? まあ、人間にはないものね」
「でも困ったわね……私たちだからまだいいけど、これお城中の騎士にやってごらんなさいよ。陛下が嫉妬されるわ」
そう言いながら、犬メイドは小さくため息をつく。
ハナはそのセリフを聞きながら、尻尾を触るのは嫉妬するほどいいことなのだろうかと悩んだ。しかし先ほど猫が驚いていたのを考えると、少なくとも初対面の動物にはやらない方がいいことであるのは分かった。
「とは言っても人間ですもの。躾けは大事よ?」
「そうねぇ……何か問題になる前に躾けておかないと」
「ねぇ、それよりも陛下のお誕生祝いの贈り物、今年は誰が片付けるのだったかしら?」
「私よ……あれ、大変なのよねぇ……一般市民も陛下に贈り物をしてもいいって法律があったら、今よりもっと仕事が増えて大変だったわ」
メイドの声を聞きながらしばらく尻尾を撫でていたハナは、レノの誕生日について思いを馳せた。
自分だったら飼っているペットに「もうすぐ誕生日なんだ」などと意味のないことは言わない。だからレノが自分に誕生日であることを言わなかったのは特別気にしてはいない。
しかし、誕生日であると知ったら何かをしたいと思うのは、ハナにとって与えリ前の気持ちであった。
「あら、ぼーっとしちゃってどうしたのかしら?」
「考え事……のはずないわよね」
「でも今誕生日プレゼントの話をしていたから……プレゼントをあげたいって思ってるかもしれないわよ」
「人間がそんなこと思うはずないでしょ」
そして、ふとあることに気づく。
今から来るという衣装屋であれば、使わなくなった端切れくらいあるのではないかと。それをもらって、何かを作れないかと思ったのだ。
しかし、自分は知能のない人間――という体になっている。布を気に入ったふりをしてもらうのは可能だとしても、それを加工するのは大変だろうというのは想像に難い。なぜなら針と糸など絶対にもらえないからだ。
「わからないわよ~? 私の愛玩人間は私の言葉がわかるもの」
「はいはい、よく飼い主馬鹿からそのセリフを聞くわ」
「本当だってば! ハナ様? 陛下は鳥のササミがお好きですからね~」
「呆れた……陛下に鳥のササミなんかあげてどうするのよ……」
「私達が持っていったらね。でもハナ様が持っていったら可愛いと思わない?」
さすがに鳥のササミはどうなんだと思いながら、プレゼントをどうするかと悩んでいたときのことだった。
「失礼致します。衣装屋、マーニー様のお見えです」
「あらようやく来たわよ」
少しだけ部屋の中が騒がしくなり、ウサギメイドがハナを抱きかかえる。
そして椅子の上に座らせると、にっこり微笑みながら「ここでお座りですよ。待っていて下さいね」と話しかけた。ハナも笑顔を返せば、ウサギメイドの鼻はピクピクと動いて口角もキュッと上がる。
「遅くなってごめんなさいねぇ」
太い男性の声。
それが部屋の中に聞こえた後は、嵐のような展開が待っていた。
次々に運び込まれる布の山。そして飾り羽根や飾り宝石の類。みたこともないそれらにハナの目が輝く。
大量のキラキラとしたそれらは、数人のメイド達によってアッというまに部屋の中へ所狭しと並べられた。
「あなたがハナ様? あら随分と小さいのねぇ! 可愛いわぁ~、食べちゃいたい」
その声にようやく顔を向けたハナは、ビタリとその動きを止めた。
巨大なクロコダイルが、化粧をして立っている。
「アジア種は元々小さいけど、その中でも結構小さい方なんじゃないのぉ? というかちゃんと食べさせているわけ? こんなのじゃ食べがいがないわねぇ」
「ご心配なされずとも大丈夫ですよ、マーニー様。それにハナ様は食用ではありませんので。ああ、陛下からのお言葉ですが、“決して舐めないように”とのことです。それから時間がおしておりますので……」
「わーかってるわよぉ。人間は集中力が持たないものね。ご機嫌なうちに計っちゃうわよ。はあ~それにしても舐めるのも駄目だなんて……」
ペペペッと凄い勢いで服が脱がせられていく。しかし辺りが動物しかいないこともあり、ハナには恥じらいがない。そもそもクロコダイルが細めた目で自分を見ていることもあり、ハナは一歩もそこから動けずにいた。
あっという間にパンツになったハナは、裸になっても十分暖かい部屋にいるはずなのに身震いする。
「あら、寒いのかしら?」
心配した猫のメイドが近くまで火鉢を持ってくるが、ハナはごくりと生唾を飲み込むだけで動こうとしない。ようやくクロコダイルのマーニーを恐れているのだと気づいたメイド達は、その思いをこっそり胸の内側へと仕舞いこんだ。
自分たちも、一番初めに通った道だからだ。
ハナが小さくついたため息を聞き逃さなかった猫のメイドは、心の中で「ハナ様頑張って……!」と応援せずにはいられなかった。