甘やかす
「ぐったりだな」
採寸が終わってレノの元へ戻ってきたハナは、根こそぎ体力と精神力を奪われたような顔になっていた。
チラッとレノのほうを向くも、何度か力なく頷いて小さくため息をつく。その様子を見ながら、メリーは苦笑しつつ書類を処理済の箱へ入れた。
「そんなに大変だったのか?」
「……相手がワニだって知らなくて……私、ワニは檻越しにしか会ったことがなかったから……何度か顔を舐められました」
「なんだと!?」
レノは最後の一言で毛を逆立てると、小さく呻きながら早足でハナに近寄りニオイをかいだ。するとハナが言うように、かすかにあのクロコダイルの臭いがし、レノは鼻っ面にしわを寄せる。
「舐めるなと言っておいたのに……!」
そう言いながらハナの顔を挟み込み、マーニーの臭いを消そうと舌でハナの顔を舐めた。
「痛っ!?」
ドンとハナに突き飛ばされる。
「え……」
ハナに突き飛ばされてショックを受けたような声を出すレノと、あまりの痛みにショックを受けた顔をするハナ。ショックを受けた表情のまま、ハナはソッと手を頬にあてる。
ハナの力なんぞたいしたことがないのでレノはよろめきすらしなかったが、その心はあと少しでも力が加われば折れてしまうことは誰の目にも明らかであった。
二者が呆然と立ち尽くしていると、若干赤くなっている頬を見たメリーが苦笑する。
「陛下。人間の肌は滑らかですから、陛下の舌は痛いようですな」
「……そう、なのか……」
ハナは言われて気づいた。そう言えば猫の舌にはトゲがあるとテレビで言っていたなと思いながらも、まさかここまで痛いとは思わなかったのだ。
一瞬噛まれたのかと思って肝が冷えたほどだ。
「……ごめんなさい」
傷ついた表情のままのレノにそう言えば、レノは無言で首を振り、そっとハナを抱きしめる。
そしてゴロゴロと喉を鳴らしながら、こめかみの辺りをグイグイとハナに押し付けた。
「……舐めたい」
「……えっと……」
「わかってる。痛いことをハナにしたくない。でも、舐めたい……」
スンスンと鼻をならしながら、レノはさらにハナを抱きしめる腕に力を込める。
「……ちょっとだけなら」
「本当か? じゃあ、痛くなくする。舌先ならあまりトゲはないからな」
そう言ってちょっとだけ舌を出し、恐る恐るハナの頬をなめる。舌にハナの味を感じた瞬間、レノの顔はパッと明るくなった。その表情を見て、ハナの心の中になんとも言えない温かな想いが広がっていく。
「本当はいっぱい舐めたい」
眉を下げながらポツリとレノがそう言えば、ハナはきょとんとした顔をした後、ニッコリ笑って舌を出す。
そして、レノの口元を舐めた。
「!」
それに息を飲んだのはレノだ。
ギュッとハナを抱く腕に力を込めると、ハナに背中をバシバシと叩かれた。しかし絞め殺さないギリギリの力でハナをしばらく締め付け、やがてポツリとこう言った。
「なんて可愛いんだ……信じられない……恐ろしい……」
仕事が進まなくなるであろうことを危惧したメリーがハナを抱き上げようとすると、低い声を出してレノが唸る。
「駄目ですよ、陛下。まだこちらの書類が残っておりますし、本日はパレードの打ち合わせと貴族との謁見が五件ございます」
「ちょっとした休憩だろうが。休憩に口をはさむな。仕事を持ち込まれては困る」
「それは申し訳ございませんでした。しかし休憩時間は五分ほど前に過ぎておりますので」
「…………」
レノは低く唸ると、ハナの匂いを肺いっぱいに吸い込んで床へ下ろした。
「ここにいなさい」
「はい」
ため息をつきながら机に向かったレノを見送ったハナは、部屋の中に何か暇を潰せるものがないか視線をめぐらせる。するとそれを敏感に察知したメリーが、一つのおもちゃを取り出した。
「ハナ様こちらを」
「これは?」
見た目はただの箱。綺麗な銀細工の用でもあり、宝石のようなものがいくつもはめられている。繊細な模様は非常に高級そうな宝箱と言った印象だ。
そして箱が動くたびに、中から小さな鈴の音がした。
「仕掛け箱でございます。基本的に人間の知能は初代動物のようにほぼなくなったとされていますが、中には普通よりも少しだけ知能の高い人間がいる。そういう人間のためのおもちゃですよ」
「なるほど……あれ?」
箱を開けようとして引っ張るも、箱は少しも動かない。よく見ればつなぎ目も複雑になっており、一体どこから開くのかわからなかった。
「普通には開きません。こうしてスライドさせたり捻ったりして、少しずつ箱につけられたいくつもの鍵を開けていくのです」
ハナの横から手を伸ばしたメリーが箱を回転させると、箱の中で“カチリ”と何かが動く音がする。
「結構、難しいんですね……」
「そうでございますね。ただ、ハナ様は始祖人間であられますから、きっとすぐに開くでしょう」
爽やかな笑みを浮かべるメリーに、ハナは少しだけ闘争心がかき立てられた。
そこまで言われたら、開けるしかない。
「どうでしょう……開くかな。私、不器用なので」
しかし予防線を張ることも忘れず、これを聞いたメリーは「やはりハナ様は頭がいい」と内心で思って笑顔を浮かべた。
* * * * *
「開いた……!」
何度か箱がカチカチと音を立ててしばらく。
行き詰って昼食も夕食も上の空だったハナは、その日の夜遅くにようやく箱を開けることに成功した。
「開いただと? もうか?」
「はい! ほら! メリーに見せないと!」
はしゃぐハナがベッドを飛び降りた瞬間、その足は地面につく前にふわりと宙へ浮いた。
「こら。何時だと思っているんだ。もうメリーも寝ただろう。明日にしなさい」
顔をしかめたレノにそう言われて反射的に時計を見れば、その針はもう二十四時をさしていた。
「あ……いつの間に……そうですよね、こんな時間にメリーさんを起こしちゃったら可哀相ですもんね」
しょんぼりしながら手の中の箱を見るハナ。レノから言わせればまだメリーは働いているだろうが、それは言わないでおいた。
「それにしてもこの鈴……」
箱の中には小さな銀色の鈴が入っており、持ち上げると綺麗な音がする。しかし、箱に比べるとそれは随分安っぽかった。
「ハナ……? どうした」
「ちょっと、あの……箱とあっていないと言うか……きっと誰かが箱を買ってから入れたのかなって思ったんです」
「…………」
それを聞いて驚いたのはレノだ。
この鈴は確かに後から入れられたものである。それも、レノの手によって。
いつか愛玩人間が欲しいと思っていたレノは、人間用のおもちゃに、と、この箱を購入した。しかしそれは知能の高い人間しか遊べないのだと知ると、若干がっかりして自分用のおもちゃにしたのだ。
二日ほどかかって箱を開け、その中にお忍びで街に出たときに手に入れた鈴を入れた。そしていつかこの箱を開ける愛玩人間が現れることを願って、再び箱を元に戻したと言うわけだ。
「それは私が入れたものだ。まさか開ける者が現れるとは思わなかったが」
クスクスと楽しそうに笑い、レノがハナの手から箱を取り上げる。
それをベッド横のチェストに置くと、ハナを抱きかかえたまま布団の中へともぐりこんだ。
「頭の良い可愛い子にはどんなご褒美をあげようか?」
「ご褒美……?」
とろけるような笑みを浮かべるレノに、思わずハナの顔にも笑顔が浮かぶ。ハナの足に、レノの尻尾が巻きつく。
「ハナ」
「はい」
「ハナ、ほら、こっちを見て」
くすぐったそうに身をよじるハナを押さえつけながら、レノは舌先でそっとハナを味わう。
「レノ……レノ、やめて……くすぐったいです……」
小さくハナが名を呼ぶと、レノの舌先が頬を撫ぜる。ひとしきり頬をなめ終わると、今度は耳や首筋の匂いをかぎながらレノが慎重にハナの肌を舐めていった。
「くすぐったいですってば」
「ジッとして」
音を立てながら、何度もハナの口元にキスをする。
そのたびにハナはクスクスと笑い、レノもニヤリと口角を上げた。
「愛玩人間がこんなに可愛いとは」
ため息をついたレノは、少し距離を取ると上から下まで眺めて再びため息をついた。
「一緒に寝るのが夢だったんだ」
「一緒に寝て下さい」
「残念だが、それは駄目だ……私はきっとハナを押しつぶしてしまうだろう。ハナが寝る頃に、私はここを出る」
「でも寂しい……」
グッとレノの喉が鳴る。
「……駄目だハナ……私を困らせないでくれ……私だってハナと一緒に寝たいんだ……」
「お願い、ちょっとだけ……レノ」
眉を下げてそう言えば、レノはしばらく視線を彷徨わせた後、やがて深いため息をついた。
「私が下になるから、ハナは私の上で寝なさい」
「苦しくないですか?」
「苦しいわけあるか。それにしてもハナは甘えるときだけ敬語を使わないんだからな。ずるい子だ。あんなの、なんでも言うことを聞いてしまうに決まっている」
「そ、そんなつもりは……!」
慌てるハナをクスクス笑うレノ。ギュッと抱きしめると、あやすようにポンポンと背を叩く。
しばらくモゾモゾと動いていたハナも、やがて小さな寝息を立て始めた。心地よい重みが、レノに何とも言えない幸せをもたらしている。
そしてその幸せな眠りの中で、ハナは昔に飼っていたチワワを迎えたばかりの頃の夢を見た。
その夢は、とても幸せな夢だった。




