ぎこちない世界はぬるま湯のようで――
「おいで、ハナ」
あの日が嘘のように、レノは満面の笑みでハナを抱き上げる。
一体何だったんだろうと思いつつも、ハナはレノの笑顔が戻ったのだったらそれでいいと考えるのをやめた。
そして、きっと二度と掘り返しては行けないのだろうと思い、記憶を心の奥底に封印した。
「レノ、今日はダンスのレッスンだったの」
「そうか。踊れるようになったら、私と踊ろう」
「うん、そのために頑張ってる。ハイデンが練習相手になってくれるの」
「なに……?」
「も、申し訳ありません……陛下……」
一見穏やか。
しかし、どちらもわずかに緊張している。
「ちょっと睨まないでよ……ハイデンは私の家族なんだから」
「しかし……ふー……お前は……まあ、いい……今日は何を食べようか? 人間が我々と同じものを食べられるおかげで、毎日の食事が楽しみだな」
「今日は鳥のササミ!」
「昨日もだっただろう?」
ハナはそれでもよかった。
穏やかな日常で、レノとともに何も考えずに過ごす。
ただそれでよかった。
あの辛い日のことを思い出したくなかったから。
「ハナ様」
横からかけられた声に振り向けば、柴犬の小梅が笑顔で立っている。
今日も尻尾は左右に揺れ、目はキラキラと輝いていた。
「検診のお時間ですよ」
「ええ……?」
「ハナは検診が嫌いか?」
「……だって、この間採血があったから……」
「あら、今日は採血はないのよ。ハナ様が嫌だって言うから、別の検診にするわ」
誰もがハナの心の平安を願う。
そのうちの一匹が、小梅であった。もちろんジョーもそうだ。
あの忌まわしき日については一切の緘口令がしかれ、そして国民には“始祖人間の研究を続けている”と発表している。
しかしその実、記憶を呼び起こすようなことと繁殖に関することは一切やっていない。
「脳波の検査だから、小さいのをペタってするだけよ」
小梅もジョーも、レノの意見に賛成であった。
研究を進める家臣もいるが、今のところレノはそれとなく濁し続けている。
それが長く続くとは思っていないが、それでもレノは、今この穏やかな日を守るために必死だった。
そう――……自分の立場を呪うほどに、レノは必死だったのだ。
しかしそれでも己の立場に感謝しながら、レノはただ、ハナの幸せを願っている。




