それはとてもとても甘ったるい――
「いつまでそうしているのですか」
レノが渋い顔のメリーにそう言われて部屋を追い出されたのは、もう一時間も前のことであった。
「……ふう」
無駄に部屋の前をうろつき、心配した近衛から声をかけられるも「大丈夫、大丈夫だ」と引きつった笑顔を見せるばかりで部屋には入ろうとしないレノ。いい加減に近衛も飽きてきたのか、もうすでに視線すら向けない。
「……どうしたものか」
「入ったらよろしいじゃないですか」
ついそう漏らした近衛は、慌てて口を手で塞ぐ。しかしすでに遅かった。
レノはムッとした表情を浮かべ、パタパタと尻尾を揺らす。
「そうは言うがな。お前、喧嘩した嫁と仲直りするときに私と同じ行動を取ったことはないのか。あるだろう」
近衛は覚えのある言葉に思わず呻くも、それとこれとは事情が違うと思わないでもなかった。
それよりも今は面倒な相談係になりそうなことが気がかりで、近衛は相手が王とはいえ内心でため息を禁じ得なかった。
「なあ、聞いてほしいことがあるのだが……女性というのは――」
王の言葉は続かなかった。
代わりに扉が少しだけ開き、その隙間から細くて白い人間の手が伸びてくる。
そしてそれはレノの腕を掴むと、グイグイと部屋の中へ誘った。
「ハ、ハナ……?」
力は弱い。ハナからすれば全力だろうが、これっぽっちもレノが動くような力ではない。それでも、レノには抗いがたいものがあり、「あ……」とか「う……」とか言いながら、ただ引っ張られるまま部屋の中へと吸い込まれていったのだった。
「……まったく」
レノを見送った近衛は小さくため息をつく。
* * * * *
「…………」
ハナはベッドまでレノを引っ張ると、布団をめくって強引にその中へレノを引き込んだ。
レノも抗おうと思えば抗えたが、されるがままにベッドへ潜り込む。
するとハナが寝転んだレノの胸元に抱きつき、大きく深呼吸をした。
「レノの匂い……」
その瞬間、レノは頭の奥で火花がはじけたような感覚になる。
「ハナ……すまない。寂しい思いをさせた」
「……私も、ごめんなさい」
「いや、ハナは何も悪くないんだ」
「レノ……」
「……体調は大丈夫なのか? 放ってしまって申し訳ない……それに、私の勝手な行動で不愉快な思いもさせた」
あまりにも弱々しい声にハナが顔を上げれば、困ったような表情でハナを見つめる獅子がいた。
この国の王で、絶対的な権力を持っているはずの獅子。
そう思おうとしても無理なほどに、レノの顔は情けないことになっていた。
「ハナ。私とお前は、きっとお互いを知る時間が極端に少ないのだと思う」
「少ない?」
「ああ。例えば、お前の好物を私は知らない。だがハナも私の好物を知らないだろう?」
「鳥のササミ」
「は?」
間抜けな顔でハナを見つめるレノを横目に、ハナはベッドから飛び降りて机の上から一つの箱を持ってきた。
丁寧にラッピングされたそれからは、かすかに香ばしい香りがする。
「ハナ……これは……」
「…………」
無言で、ちょっと照れくさそうにそれを差し出すハナ。
レノが受け取るべきかどうか悩んでいると、ちょっと眉根をしかめたハナが箱をレノに押し付けた。
「開けても?」
笑顔で何度か頷くハナ。
レノが丁寧に包をはがすと、中からは燻製された鳥のササミが出てくる。
「……こ、これは……」
困惑していると、それを察したハナの表情が曇る。
「嫌い?」
「え? あ、いや、好きだ。好きだが……その、一体何故……?」
「誕生日……プレゼント……」
この時点で、ハナは自分が失敗を犯したのだと思った。
よくよく考えて見れば、国王の誕生日プレゼントに鳥のササミをあげるものは普通いない。
「やっぱり返して……! 間違えた……! ほ、本当は、別の、だった……!」
顔を真赤にしながら取り返そうとすれば、それをスイッと上にやるレノ。
その表情はとても楽しそうで、意地悪そうで――
「なぜ?」
少しだけあがった口角は、ハナがレノと同じ獅子であれば間違いなく落ちたであろう色気たっぷりの表情である。
「間違え……た……!」
「なにを? 鳥のササミ、だろう? 私の好物だ」
「そうなんだけど……そうなんだけど……でも、それは間違えで……」
泣きそうになりながら視線を彷徨わせていると、レノはフッと笑いながらハナを抱き寄せる。
「ハナ、私はこれがいい」
首筋に鼻っ面を埋めながら、レノがハナの匂いをいっぱいに吸い込む。
そしてそのまま鼻先を押し付けながら、大きく息を吐いた。
「ありがとう、ハナ。私のために選んでくれたのだな。よく私の好物を知っていたな。しかもこんなに上等な燻製――さては、料理長を陥落させたな?」
「陥落? ち、違います……毎日通って仲良くなっただけです……」
「それを陥落というのだ。それよりハナ。お前は私に敬語を使うな。その方が距離が縮まったような気がしてイイ」
チュッと音を立てながら、レノがハナの唇の横を吸う。
「レノ、くすぐったい」
「可愛いな。まさか人間にここまでのめり込むとは思わなかった」
「レノ……」
しきりに体をこすりつけ、まるでそのまま食べてしまうのではないかと思うほどハナをその舌で味わう。
「レノ、私の好きなもの、知りたい?」
初めて意識して使う敬語じゃない言葉は、少しくすぐったい。
しかし嬉しそうに笑うレノを見て、ハナは正解だったのだとつられて笑う。
「ぜひ教えてほしいな」
「レノだよ」
時が止まった――
「…………」
「レノが一番好き。いつでも欲しいものは、レノに関するものなの。時間も、視線も、優しさも……レノの全部が欲しい」
夜の静けさが、ハナの言葉を正確にレノへ伝える。
レノはひげがビリビリするような気がして、少しだけ頬を引きつらせた。
こんなセリフは山ほど欠けられてきたというのに、進撃に伝えてくる目の前の小さな人間のセリフは何故か響く。一体何故だろうと考えても、レノにはそれがわからなかった。
しかし、ハナを見つめているうちに、その理由がわかる。
ハナの真剣な目から、レノは視線を外すことが出来なかった。
「そんな目をするな……お前が……人間で良かった。そうでなかったら私は――」
ピタリとレノの動きが止まる。
「……レノ?」
「……なんでもない。なんでもないんだ」
レノはハナを抱き上げ、布団の中へ押しこむ。そしてハナが少し苦しそうな表情になるほど抱きしめて、少し困ったような表情で笑うのだった。
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■過去の記憶
「死んだ?」
以前、ハナの元へ送られた人間入りの人形。
その人間をレノはランベルへと預けていたが、それが死んだと報告が上がってきた。
「どうしてだ」
「どうもこうも……」
肩をすくめたランベルは、大きくため気をつくと葉巻を取り出す。
「頭に何か機械のようなものが植え付けられていたようでな。爆ぜた」
「何だと……?」
「なあ、お前は人間の記憶や感情を吸い出す玩具を知っているか?」
ランベルの言葉に思い当たることがなく、レノは顔をしかめるに留める。
「では忌まわしい遊びが流行っていることは?」
「知っている。根絶やしにするために、対処中だ」
「ああ、そうだったな」
「それが何だというのだ」
ランベルの吐き出す紫煙は天井へ向かい、やがて部屋の中へ溶けていく。その煙を見ながら、ランベルは表情の落ちきった顔でポツリとつぶやいた。
「ヤっている最中にその玩具を使うと、具合がいいらしい。喜ぶところがわかるから、せめやすいんだと。で、動物より小さいだろう? 相当にいいらしいな。ヒューリンガルとかいう名前だったか? そこそこ値の張るシロモノだが、貴族連中にはウケがいいとか」
だんだんと眉間にしわが寄っていくのを自覚しながら、レノは低い唸り声を上げた。
「その玩具を考案したのが、例の研究所だ」
「……つまり?」
「脳へ何かを植え付ける手術はお手の物と言うわけさ。爆ぜるようにしたのは、恐らくその玩具を使って記憶を吸いだされるのを恐れたんだろうな。あの人間、登録を探ったところ違法に生まれた個体らしい」
「クソッたれ……」
椅子に勢い良く座り込んだレノを、ランベルは剣呑な表情のまま見つめる。
「で、だ。あの人間、何だったと思う?」
「フンッ……知りたくもない」
「まあ、聞け。そしてお前の胸に秘めろ」
「ならなおのこと言うな」
「あれは、ハナの遺伝子から生まれた人間だよ」
バキリと音を立てて机が割れた。
拳から血を流すレノは、極限まで開いた瞳孔でランベルを睨みつけている。
「今、何と言った」
「俺にあたるな。本当のことだ。ミヤがそう吐いた。しかし“失敗作”だそうで、知能は有していなかったが」
ランベルは相変わらず怖いくらいに静かに椅子に座り、しかし足を組み替えながら再び紫煙を吐く。
「始祖人間の記憶を引き出すために、どんな手段でも取るつもりだったんだろうな。まあ、大成功だよ。大成功だ。少しでも思い出したんだから」
「…………」
「でもな、始祖人間は俺らが思うよりも複雑だ。あいつらの歴史は俺らが知能を得てからよりも長い。そんなやつらに、俺らの浅知恵がかなうわけがないんだ。げんにハナは思い出したくなくて記憶を無意識に封じたんだろう? そしてそれは知能を失った人間も同じ」
ランベルの動かなかった表情が、怒りに染まっていく。
「先ほど死んだと言ったが、どうやって死んだと思う? 爆ぜたのは研究所のスイッチによってだと思うか? 違う。違うんだ、レノ」
荒い息が、部屋に響く。
「あれは自分で頭にナイフをつきたて、的確に埋め込まれた機器を突いてみせたぞ」
握った拳から、血が流れる。
「これでも本当に人間には知能がないと思うか?」
血の濃厚な匂いが、部屋に充満していく。
「最後にどんな表情を浮かべたと思う?」
もう、レノは限界だった。
「笑っていたよ」
そして同じく、ランベルも限界であった。
* * * * *
「……レノ」
ハナは、夜ベッドに入る前からレノの様子がおかしいことに気づいていた。
いつもより暗いのを見て、きっと何か悩み事があるんだろうと思った。
始めこそそっとしておこうと思ったものの、ベッドに入ってからも一言も喋らないレノを見て、ハナはとうとうレノへと声をかけたのだ。
「悩みが……あるでしょう?」
慎重にそう聞けば、レノは大きくいきを吸い込んで、それをゆっくり吐いた。
「…………」
何も言えずにいるレノに、ハナは眉尻を下げる。
「……ハナに言えないことではないんだ。ただ……」
「……私のこと?」
冊子の良すぎるセリフに、レノは思わず目をつぶる。
「研究所のことで、何かあった……?」
「いや……その……」
「……もしかして、あの人形の子……? その後、見かけないから心配だったの。あの子はどうなったの?」
まさかここまで察しがいいとは、とレノは目眩に襲われる。
「…………」
「病気……?」
「…………」
「……怪我?」
「…………」
「……亡くなった……?」
ヒクリとレノの頬が引きつる。
「……どうして……」
ハナの、かすれる声。
「…………」
レノはそれに答えることが出来なかった。
* * * * *
「例の死んだ人間だがな、ヒューリンガルから記憶を吸い出すことに成功した。辛うじてメモリだけ残っていてな」
ハナを抱いて眠れぬまま朝を迎えた。
頭痛のする頭で書類整理をしているところにこの声だ。
それも突然窓から現れたランベルに、レノは引きつる表情を隠しもせず舌打ちした。
「警備はどうした」
「ご就寝して頂いた」
悪びれもなく入ってきて、レノの前にメモリを投げる。
それをため息を付きながらも受け取り、そのままコーヒーカップの中に投げ入れた。
「…………」
驚いたのはランベルだ。
目を見開いてレノを見つめるも、レノは視線を合わせないまま書類作業へ戻る。
「驚いた。興味が無いのか?」
「無いわけじゃない。だが見る必要がない」
「なぜ?」
「私はもうハナの記憶を混乱させないと決めた。始祖人間は、もうこの世にいらない。ハナで終わりにしたい」
レノは決意していた。
本来、王であれば動物と人類の繁栄のためにも始祖人間を増やしたり、あの忌まわしき日の真実を探るのは重要な事なのだろう。
しかし、それをやってしまうとハナが壊れると思った。
「……私は王らしくない」
ハナは昨日、取り乱してはいなかった。
それでも激情を必死に抑えているのは見て取れた。
「ただ、ハナの辛い顔は見たくないんだ」
憔悴しきったような表情に、ランベルは薄っすらと背筋が寒くなる。
「お前は……」
「おかしいと思うだろう? こんなに入れ込んで」
「…………」
「これは、恋や愛なんかじゃない。そんなものではありえないんだ……だが、私は――」
笑ったのか、ため息を付いたのか、吐き出された息の意味を、ランベルが知ることはない。
しかし、目の前の獅子が、言葉を違えることはないだろうと確信した。




