後日譚
「加賀が、死んだ?」
舞の位牌が置かれた仏壇の前で、線香をあげに来た禰宜は、唖然とした声をあげて紗枝を見つめた。
彼女からその一報を聞いて驚きながらも、禰宜は紗枝の話を聞くべく姿勢を正す。
事件から数か月が経った今でも、加賀の凶行を止められなかったことへの罪悪感と後悔が、禰宜の中で激しく渦巻いている。
もっと自分にできることがあったのではないか、彼女のことにもっと気を配っていれば――そんな思いばかりがよぎり、心を深く苛んだ。
しかし、あの日現場にいた禰宜を、紗枝は責める言葉ひとつ吐くことなく、こうして線香をあげることを許してくれていた。
職場の友人として舞から禰宜のことを聞いていたという紗枝は、禰宜が親身になって助けようとしてくれたことに感謝こそすれ、恨むようなことはないと言った。
紗枝は小さく頷くと、光のない瞳を禰宜に向けたまま、事の次第を語り出す。
「ええ。刑務所内で突然苦しんだかと思えば、口から大量に水を吐き出して倒れ込んだんですって。長く苦しんだ末に、亡くなったそうよ」
「……どうして、そんなこと」
「この件を担当していた刑事さんが、お線香をあげがてら、報告しに来てくれたのよ。死因は溺死。あいつが吐いた水を調べたら、全部海水だったそうよ。ふふ、本当に、不思議なこともあるものだわ」
涙も涸れ果て、落ち窪んだ眼窩に、げっそりと削げた頬。痛々しいほどに憔悴した紗枝の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
それは、加賀に訪れた謎の死を心から喜ぶとともに、その死因について確信めいた何かを抱いているかのような、不敵な笑みだった。
紗枝は仏壇にある写真立てを手に取り、笑顔で写った舞の顔を撫でるように指を這わせる。
「前に、私の母が言ってたの。舞は、海に魅入られてるって」
「海に……魅入られてる?」
紗枝は再び小さく頷くと、当時を思い出すように、写真立ての向こうで笑う舞に微笑みかけながら口を開いた。
「まだ田舎にいた頃、舞は飽きもせずに毎日海を見に行ってたの。なんにもない、ただの浜辺よ? そこの何が楽しいのか、夕方くらいになると必ず行くの。その頃はただ、海が好きな子なんだなとしか思っていなかったけれど、今なら母の言っていたことがわかる気がする。きっとその頃から舞は――海神様に、魅入られていたのね」
ぽつりぽつりと、禰宜に聞かせるにはあまりに小さな声で、紗枝はそう言った。
そして、紗枝の実家周辺に伝わる海神の伝承を話し出した。その伝承の結末もまた、因果応報の末に、陸にいながら溺死するという悲惨なものだった。
その結末は今回の件にあまりにも酷似していた。信じられないという気持ちはありながらも、海神の伝承を聞かされていた紗枝には、どうしても関連性を切り離せないのだという。
「舞を殺した男が長く苦しんで無残に死んだのなら、伝承が絡んでいてもいなくても、真実なんてどうでもいい。……こんなことを思うなんて、舞は喜ばないでしょうけど」
そう言って再び位牌に目を向けた紗枝は、禰宜にこの地を離れることを告げた。
再び田舎へ戻り、祖母の家で今後のことを考えながら静かに暮らしたい。舞が亡くなったこの都会で一人きりで過ごすことは、もうできないのだと言った。
「それにね、舞はきっと……海神様に連れられて、あの海にいる。……そんな気がするの」
そう言った紗枝は、物憂げに呟き、舞の写真を抱きながら静かに微笑んだ。
***
禰宜は紗枝の家を後にし、人気のない道を歩きながら空を見上げる。
夜に差しかかる濃紺の空は、ネオンの光に溢れた都会では随分と狭く見える。ビルが立ち並ぶ都会の景色は禰宜にとって当たり前のものだったが、舞は随分と狭苦しく感じていたようだった。
前に二人で飲みに行った際、そんなことをこぼしては、田舎へ帰りたいと口にしていたのを思い出す。
「ここと違って、時間の流れが緩やかで、人も景色も穏やかで、空も広くて海も綺麗で、いい所なの。……それに、思い出深い場所だから」
遠い過去を想っては自嘲気味に笑っていた舞は、それ以上何も語らなかった。
少女時代、彼女がその地で何をしていたかなど、こちらから聞くこともなかったし、舞もまた積極的には話そうとしなかった。
ただ仕事の愚痴や他愛もない話をつまみに酒を飲み交わし、また明日と別れるだけの友人関係。
禰宜の整った容姿や地位を目当てにすり寄ってくる者たちとは違う気楽さがあり、彼女との縁を大切にしていた。
禰宜は都内で代々神職を務める家の生まれとあって、幼い頃から人には見えないモノが見えた。兄や父より能力が劣るため、それを祓うことができず、子供時代は随分と苦労した。
ただでさえ都会は人も多い分、そういった魑魅魍魎も多い。家族の理解があり、ある程度の対処法も学んだおかげで、今ではどうにか通常の生活を送れている。だが、見えるということは、他とは違う異端だということでもある。
人間関係を築く上で、その異端さが毒にもなることは、今までの人生で痛いほど理解していた。
悟られぬようほどよく人付き合いをしつつ、憑いているモノの質を見極めて関わり方を決めていけば、自然と禰宜の周囲は穏やかになっていった。
初めて舞を見た時、禰宜は彼女を取り巻くモノに興味を抱いた。
その辺を歩くモノ、土地に佇むモノ、人に憑くモノ――それらを見慣れていた禰宜でさえ、舞の背から生えるように蠢く手を見て、随分と驚いたものだ。
力強い男の腕のようなソレは、薄く、今にも消えそうでありながらも、舞を慈しみ抱きしめるように包み込んで、時折彼女の頭を撫でていた。
神なのか悪霊なのか、禰宜には判別できなかった。それでも、ソレが舞を守るように近づく霊たちを弾き飛ばすのを見て、悪いものではないと判断していた。
そんな舞に興味本位で近づいた時、背後のソレはかなり警戒していたが、禰宜に害意がないとわかってからは、随分と大人しかった。
舞自身は何も感じていないのだろう。そんな強烈なものを背負ったままでも、ぽやぽやとした陽だまりのような笑みを浮かべていたのだから。
しかし、ソレは舞を守り、霊を弾き飛ばすたびに薄くなり、ある日を境にすっかり見えなくなってしまった。
今思えば、あれは守りのようなものだったのだろう。舞が健やかに過ごせるようにと、誰かから贈られた加護のようなものだった。
それから禰宜自身も仕事が忙しくなり、海外に飛ぶことも増えて、舞と飲みに行くこともめっきり減った。
しばらく海外に滞在している間に、今回のことが起こり、そして――。
「あれは、海神様ってやつだったのかもな……」
夜道を歩きながら、禰宜はぽつりとそう呟いた。
数少ない友人であった舞を失った喪失感は、禰宜の心を随分と軋ませていた。
職場も加賀が起こした大不祥事に揺れ、舞が相談していたことをまともに取り合わなかった連中もまた、厳しい立場に置かれている。
舞の噂を面白おかしく広めていた者たちや、彼女をからかっていた者たちも、舞が加賀に殺害されたという事実に恐怖し、後悔と罪悪感に追い詰められ、既に退職者も出ていた。
禰宜自身も他の会社からの引き抜きを受け、近く退職する予定だ。
これ以上あの会社にいて、まともに仕事などできるはずもない。舞を追い詰めた者たちと肩を並べて会社を立て直そうなどとは、どうしても思えなかった。
加賀の死はいずれ知れ渡るだろう。その時、舞を間接的に追い詰めた者たちはどう思うのだろうか。
死を知った時点で恐怖に身を震わせるのか、それとも元凶が消えて安堵するのか。
加賀の壮絶な死に様を知っている禰宜は、彼らが加賀と同じような死を迎えることはないとは、決して断言できないでいた。
気付けば家路を急ぐ人々が行き交い、道が随分と騒がしくなってきた。
禰宜は、のんびりと空を見上げながら思案に耽るのをやめて歩き出す。
舞を追い詰めていた者たちがどうなろうとも、もう自分には関係の無いことだと割り切り、線香の香りをつけたコートを翻して家路を急いだ。
禰宜にとって舞は、かけがえのない友人であり、気を許せる人だった。
出自や容姿に頓着することなく、異性という壁を越えて語り合える、貴重な存在。
もし、本当に海神様がいるのなら、彼女を連れて行き、どこまでも幸せにしてほしいと願うほどに、彼女のことを想っている。
舞の背後に憑いていたモノが海神であるのなら、あれほど舞を慈しんでいたのだ、きっと溢れるほどの愛を舞に注ぐだろう。
もう会うことのできない友人の幸せを願うなど、おかしなことかもしれない。それでも、そう思わずにはいられなかった。
「幸せなら、いいな」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
了




