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海が哭く夜に  作者: 病@【宝石の庭~私を過去にするのなら~】電子書籍発売中


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後編

 社会人三年目に入り、新人教育係を務めることになった舞は、教育を終えて半年ほど経った頃から、担当した加賀 瀬央(かがせお)という男性社員に執拗に言い寄られるようになってしまった。

 猫背気味なせいか、少し陰気な雰囲気を与える青年で、初めの頃は人付き合いにも慣れていない様子で、舞の顔さえまともに見られなかった。

しかし、仕事を通じて話をしていくうちに口調は少しずつ砕けていき、気づけば彼本来の独善的な考え方が目立つようになっていった。

 たった数か月、職場で必要なことを丁寧に教えただけだというのに、彼は舞が優しくしているのは自分に気があるからだというとんでもない勘違いしたらしい。

 そのような素振りはまったく見せていなかったにもかかわらず、彼は何を思ったのか、ある日を境に職場で舞を口説き始めたのだ。

 舞にとって加賀はただの後輩であり、決して恋愛対象ではない。恋愛感情を抱くほど親しい間柄ではないし、何より職場にそのような感情を持ち込みたくはなかった。

 告白されるたびにやんわりと受け流したり、断ったりしていたものの、加賀はそれをただの遠慮や照れ隠しだと言って、取り合おうともしない。話がどうにもかみ合わなかった。

 まるで自分に愛されることが何よりも幸せなのだと言わんばかりの態度に、同じ課の同僚たちも呆れ、暴走する彼を諫めてくれたものの、加賀の行動は止まることなく、どんどん高圧的になっていった。

 いったい何がきっかけで彼がこうも偏執的になってしまったのかわからず、言い知れぬ恐怖が舞をじわじわと追い詰めていった。

 舞への執拗なアプローチは日に日にエスカレートし、加賀は舞の後をつけて家を特定しただけでなく、スマートフォンの番号やメールアドレス、SNSにも頻繁に連絡を寄越すようになった。職場では人目もはばからず舞を口説き、時には帰り道に人気のない場所へ連れ込まれそうになったこともあったが、その時は必死に振りほどいて逃げ出した。


 どうしてこんなことに、という恐怖と混乱から、舞の心は日に日に弱っていき、仕事にも身が入らなくなった。

 家に帰っても鳴り続ける電話、ときおり鳴る玄関チャイム。届くメールやSNSのメッセージは、まるで恋人に宛てたかのような薄ら寒いものばかりだった。

 思い切って引っ越しても、会社を通じていつの間にか新しい住所が知られ、状況は元に戻ってしまう。上司に報告しても大げさだと取り合ってもらえず、仕事を変えようにも、すぐに転職できるわけではない。警察に相談しても、メールの文面を見て「愛されているのだから、あなたも歩み寄ってはどうか」と見当違いな助言をされるだけで、対策はしてもらえなかった。


 いつの間にか広まった噂が先行し、気づけば「大人しい顔をしていながら、男を翻弄して楽しむ女」などという身に覚えのないことまで言われ始め、周囲の視線も、同情から訝しむものへと変わっていった。

 中には庇ってくれる人もいたが、加賀は舞を孤立させて自分に依存させるためか、そんな相手には陰湿な嫌がらせをし、舞から遠ざけた。

 加賀がこれほどまでに傲慢でいられるのは、彼がこの会社の重役の息子という立場だからだ。

 そんな相手に楯突けば、出世は見込めず、キャリアも遠のく。謝りながら離れていく人たちに、現状に疲れ切っていた舞は、静かに首を振ることしかできなかった。


 噂が噂を呼び、あたかも真実のように語られる絵空事。否定の声は届かず、職場では密やかな娯楽として囁かれ、舞を見る目にあからさまな好奇心を浮かべる者もいた。

 舞自身を知らない者たちからすれば、舞の性格や事情などどうでもいい。

 会社という閉じられた世界の中で、何の気なしに耳にしたゴシップを面白おかしく聞き、皆と共有して楽しんでいるだけだ。その話が嘘にまみれていようが、自分に火の粉が降りかからないのなら関係のないことだった。


 そんな日々を送っていたある日、友人でもある男性社員、禰宜 蒼汰(ねぎそうた)が職場で思いつめた表情をしている舞を見て、加賀に言い寄られる彼女を庇ってくれた。

 禰宜は、若くして社内でも花形とされる海外営業部に所属するエリートだが、舞の同期でもある。もともとは顔見知り程度の間柄だったが、ある時、彼の方から声をかけてくれたことがきっかけで仲良くなり、今では愚痴を言い合える程度の飲み仲間となっていた。

 華やかな容姿を持ちながらも、飄々とした態度で人に本心を悟らせないよう壁を作るタイプだ。だが、話してみればそんな頑なさは消え、人懐っこく饒舌(じょうぜつ)でありながらもマイペースで、付き合う相手を選ぶような性格をしている。

 出自が神職の家だからか、時折不思議なことを言う人でもあった。なぜか初対面の時から舞に興味を持っていたらしく、ずっと話しかけてみたかったのだと言いながら、からからと笑っていた。

 実際のところ、禰宜も舞も互いに恋愛感情などはまったく抱いておらず、純粋な興味から始まった関係は、友人という枠に綺麗に収まっていた。


 禰宜は仕事の関係で海外を飛び回ることも多かったためか、これまで舞の現状を把握していなかった。舞自身も、事態がこじれて迷惑をかけてはいけないと思い、積極的に頼ることができずにいた。

 久しぶりに海外から帰ってきた禰宜は、職場で広まっていた舞の良からぬ噂や、加賀の行き過ぎた言動を聞き、すぐに総務課を訪れた。

 そこで、加賀に執拗なほど詰め寄られていた舞を目撃し、放っておけないと判断すると、疲れ切って黙ったままぼんやりとしている彼女の手を引いて、定時早々にすぐ会社から連れ出した。


 普段、社内でもひときわ人気者である禰宜とは、変な誤解を生まないためにも、職場では一定の距離を置いていた。

 しかし、舞を取り巻く状況を見て、この時ばかりはそうも言っていられないと思ったのだろう。これまで同期という以上の関わりがなかった二人が、真剣な面持ちで職場を後にすれば、それを見た人たちはどれほど驚いたことだろう。


 禰宜に手を引かれながらも、舞はおぼつかない足取りで彼についていくことしかできなかった。

 この頃には、舞の思考は加賀に対する負の感情で常に渦巻き、仕事も私生活も曖昧になって、ただそこにいるのがやっとという状態になっていたからだ。

 そんな舞を会社から連れ出した禰宜は、引いていた手を離して歩調を緩めると、舞の方を見て険しい顔をした。


「安曇(あずみ)さん……なんで俺に相談しなかったの。電話でも、SNSを使ってもいい。色々と方法があったはずだろ」


「……迷惑をかけたくなかったから。私を庇ってくれる人にまで平気で嫌がらせするような人に、私たちの思う常識は通用しないの。禰宜さんまで巻き込むことになったら、私……耐えられない」


「そんなこと考えてる場合か!」


 禰宜は悔しげにそう言い放つと、その場に立ち止まって舞を見下ろし、彼女の目の下にあるひどい隈を指でひと撫でしながら、悲しげに表情を曇らせた。


「なぁ、そんなに頼りなかった? それとも俺が仕事で海外に行ってたから、頼れないと思って声をかけられなかったのか?」


「ちがっ、頼りないなんて思ってない! ただでさえ大きな案件を抱えて大変そうなのに、こっちの勝手な私情で禰宜さんの手を煩わせたくなかったの。自分でどうにかしようと思ってたけど、思った以上にあの人……なんかおかしくて、もうどうしていいのかわからなくなってた……」


 本当は、助けてと言葉にしたかった。

 でも、そう思えば思うほど、助けを求めて伸ばした手を、その先で潰される。

 何度も何度も潰され、誰もが離れていって、禰宜という最後の拠り所まで奪われてしまったら、今度こそ心が折れて、何もかもあの男に屈してしまうかもしれない。

 それが怖くてたまらないのに、今まで積み上げてきた関係も、寄りかかれるような人も場所も、どんどん理不尽に奪われていってしまった。

 きっと、仕事を変えてもこの地を去っても、どこまでも追いかけてくるだろうと思わせるほど、近頃の舞への執着と偏愛は異常だった。


 舞の怯えた表情を見て、彼はぎらついた欲を隠そうともせず、恍惚とした笑みを浮かべて言ったのだ。


「怯える姿も可愛い。でも、そんなに怖がることなんてないよ。俺が、あなたのすべてを愛してあげるから」


 ――違う。加賀は、舞を好きなのではない。

 誰かを独自の歪んだ価値観で愛する自分が好きで、その愛を与えれば、誰もが同じ想いを返してくるのだと思っている。

 相手のことなどまったく考えず、独りよがりの狂愛をまき散らして周囲を牽制し、孤立したところを優しく拾い上げて依存させる気でいるのだ。そして、まるで元から自分の物であるかのように、舞という存在を所有したがっている。


 孤立したところで、舞が加賀を好きになるはずもない。嫌悪と恐怖をこれでもかと植え付けられた相手を、誰が愛せようか。

 しかし、加賀にとって舞の気持ちは関係ないのだろう。

 勘違いしたまま歪み続けた偽りの想いを、ただ一方的に舞を縛り付けることで真実にしようとしている。


 仕事で異性と一緒にいれば嫉妬し、罵倒じみた言葉の羅列を送りつけられ、職場では男を漁っていると噂を流された。

 反応すれば相手を喜ばせるだけだと無視していれば、わざわざ舞を慰めるようにしながら、言葉の端々に噂を裏付けるようなことを匂わせる。

 やめてと言ったところで、何のことだととぼけられ、「俺はあなたの味方ですよ」と口元を歪ませて笑うのだ。


 その言葉の通じなさが、何よりも恐ろしかった。


「なぁ、弁護士に相談しよう。これは立派なストーカー行為だ。俺の知り合いを紹介するから、今からでも行こう」


「でも……」


 迷惑をかけられないという気持ちと、本当に頼っていいのかという思いが入り交じり、舞は素直に返事をすることができずにいた。

 しかし、そんな舞の様子を見て、禰宜は軽く彼女の背中に手を添え、そっと押した。


「とりあえず、いろいろ事情を聞きたいから、どこかに入って落ち着こう」


「……うん」


 道端で話していても事は進まない。舞は、再び歩き出した禰宜の背を追った。

 禰宜の後ろ姿を見て、こんなことに巻き込みたくはないと思いつつも、どこか安心している自分がいた。


 これでようやく、少し希望が見えた気がする――そう思った瞬間、舞の背中に鋭い衝撃が走った。


「――えっ……?」


 ――周囲から上がる悲鳴。禰宜が咄嗟に舞を振り返り、駆け寄る姿。


 舞の身体は投げ出されるように地面に倒れ、体を貫く激痛に息もまともに吸えないまま、唇をはくはくと動かすことしかできない。

 何が起きたのかもわからないまま、アスファルトの冷たい地面に頬を擦りつけた舞は、苦痛で朦朧とする意識の中、自分が背後から刺されたのだと気づいた。


「俺という男がいながら、ま(・)た(・)男を誑かしてっ! くそっ、放せっ! おいっ、舞っ! 聞こえてるんだろう、この阿婆擦れ! この俺が愛してやるって言ってんのに、何度も断りやがって! 今(・)度(・)こ(・)そ(・)俺(・)の(・)物(・)に(・)な(・)る(・)と(・)思(・)っ(・)た(・)の(・)に(・)っ(・)!(・)」


「ふざけんなっ! この変態ストーカー野郎! くっ、誰か、早く救急車と警察をっ! 安曇さんっ、しっかり!!」


 何人もの人に取り押さえられた加賀の口汚い罵倒と、禰宜の必死な声が、舞の耳に届き続ける。

 周囲は騒然として、バタバタとした足音や悲鳴が舞を取り巻いているのがわかる。

 禰宜は舞を抱えようとしたが、周囲から、下手に動かさない方がいいと言われ、ただ舞の手を握りながら懸命に声をかけた。

 背中の傷が肺に達したのか、咳き込む舞の口元から血が流れる。まともに呼吸もできず、手は震え、体温がどんどん下がって冷たくなっていくのを感じながら、舞は自分が死ぬのだと理解した。


 それは痛みからなのか、死への恐怖からなのか。自分でもわからないまま涙をこぼし、禰宜の手の温もりだけを頼りに顔を動かすと、すぐそばに禰宜の膝が見えた。

 新調したばかりのスーツを汚し、舞のためにアスファルトに膝をついて泣いているだろう禰宜に、舞は無理やり口元に笑みを作った。


「巻き、込んで……ごめん、なさい」


「話さなくていいっ! いいから……安曇さん」


 力なく投げ出されていた舞の手を握る力が強まる。

 彼の温もりが、今の自分のものとはあまりにも違いすぎて、余計に命の鼓動が身体から擦り抜けていくのを感じる。


 雑音と耳鳴り、禰宜の手の温もりとアスファルトの冷たさ。

 それらを感じながら、舞は自分が歩んできた日々を辿るように思い出していく。


 懐かしくも美しい、黄昏に染まる海の景色。何より輝かしく、切ない思い出の残滓。

 幼い舞の笑い声に、どこか呆れたように息を吐く鳴海の声が重なり、まるで走馬灯のように、舞の意識をはるか遠く、あの幸せだった頃へと押しやっていく。


 あの人と離れるくらいなら、大人になんてなりたくなかった。

 こんなことになるのなら、ずっと、好きな人のそばで笑っていたかった。


 帰りたい。あの頃に、あの場所に。

 あの人に会えたら、ちゃんと謝って、そして――。


「なる、み……兄さ……かえ、り……たい……」


「安曇さんっ! しっかりっ……あず……目を――……」


 いつしか禰宜の声も届かなくなり、舞の意識は深く深く、どこまでも深く沈んでいく――。


 ***


「ああ――そっか、私は死(・)ん(・)で(・)こ(・)こ(・)に(・)い(・)る(・)の(・)ね(・)」


 忘れていた記憶をすべて思い出すと、まるで霧が晴れたかのように、思いのほかすんなりと受け入れてしまっている自分がいた。

 舞は鳴海の腕の中からするりと抜けると、波が高くなり始めた海を見つめながら、裸足のまま波打ち際まで歩いていく。

 湿った砂浜には舞の小さな足跡がくっきりと残り、波に浚われては消えていった。


「ふふ、なんか不思議。幽霊になったのに、足跡が残るんだ」


 月光が瞬く夜の海。風も強くなってきた中、冷たい波をパシャリと蹴飛ばしながら、舞は自身の頬を伝う涙に気づかないふりをして笑う。

 鳴海はそんな彼女のそばに寄り添うと、そっと肩を抱いた。

 気づけば、彼の服が美しくも煌びやかな神御衣に変わり、月の光を纏うようにほんのりとした光を湛えていた。

 

 舞の肩に置かれた彼の手に、そっと自身の手を重ねる。

 昔は冷たいとさえ思っていた彼の体温が、今ではほんのりと温かいとさえ感じられる。

 それは、舞自身が体温というものを失い、彼と同じ存在になってしまったからだろう。


「ここはあの場所であって、あの場所じゃない。死者の行き着く先にあるようなところだ」


不自然なほど人気のない町に、煌々と夜を照らす大きな月。

先ほどまで居た祖母の家も、人が住んでいないはずなのに埃一つなく、祖母の好んでいた香が微かに漂っていたのを思い出す。

きっと、ここは生者が立ち入ることのできない、生と死の境界の向こう側。

鳴海が、本来いるべき世界なのだとしたら――。


「ずっと不思議な人だと思ってた。どうしてあの時間にしか会えなかったのか……理由があったのね」


 黄昏時にしか会うことのできなかった鳴海が、今この瞬間、死者の行き着く先にいるというだけで、大体のことは想像できる。出会ったころからまるで変わらない容姿も、約束しているわけでもないのに、ふらりと舞の前に姿を現す神出鬼没さも、すべてが繋がれば答えなど簡単に導き出せた。


 彼はきっとずっと前、それこそ舞と出会ったあの時から――すでに人(・)で(・)は(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)。


「ああ。黄昏時は逢魔が時とも呼ばれるくらい、現世と常世の境が曖昧になる。生きたお前に会うには、あのひとときしかなかったんだ。あの時間であれば、お前に触れられるし、存在を感じてもらえるから」


 そう言って寂しげに微笑みながら、鳴海は再び舞を抱きしめる。

 大切なものを扱うように柔らかく、丁寧に腕の中へと囲い、舞という存在が自分と同じものになったことを確かめるように。


 舞はそんな鳴海の背に腕を回し、ようやっと安寧の地を見つけたかのように深く息を吐く。

 この地を離れてからずっと、身体ばかりが年月を刻みながらも、心は鳴海のそばへ戻りたがっていた。

 なぜこれほどまでに惹かれてしまうのか。精悍さの裏で孤独を飼い続けている鳴海という存在を、どうしてここまで追い求めてしまうのか。


 舞の魂が、肉体を捨ててでも会いたいと願ってしまったのは、きっと――。


「……お前は俺の、唯一の伴侶。俺の目の前で無残に暴かれ、絶望を抱いたままこの海へ身を投げた、俺の大切な片割れ」


 祖母から聞かされていた、この地の伝承。妻を死に追いやった者たちへの恨みの果てに、人を祟る荒神となったのは――鳴海だ。


「きっと、強い憎悪と怨念に塗れながら死に、怨霊と化して奴らを凄惨に呪い殺したことで、お前の魂と同じ場所には行けなくなってしまったんだろう。荒神として祀られることによって、さらにこの地に縛られることになってからは、永い時の中で、過去が色褪せないように、ただ思い返し続けては心を慰めた。……そんな中で、お前が再び人として新たな生を受けたと知った時、どれほど嬉しかったか」


 舞は彼の言葉を聞き、ああ、やっぱりそうなのかと思いつつも、どこか安堵していた。

 自分を通して誰かを見ていたことは確かだが、それは彼の妻だった頃の自分を思い出していただけだ。

 他人であって他人ではない、そんな曖昧さを持つ舞という存在に、鳴海は様々な葛藤を抱きながら接していたのだろう。

 舞に当時の記憶は残っていない。鳴海と共にあっただろう、かけがえのない思い出も時間も、何もかもを失っている。

 しかし、鳴海の中には今も存在し続けているのだ。永い時の中でも色褪せないまま、忘れられない大切なものとして。


 それは、どれほど辛く悲しいことだろう。

 たとえ魂は同じであっても、舞は結局、どこまでも舞でしかない。鳴海が望んでいた、妻だった頃の自分は、もう戻っては来ない。

 それでも、妻の魂を持つ舞という存在を知り、慈しまずにはいられなかったのだと、彼は言った。


「お前という存在を見つけてからも、人として生を受けた以上は見守るだけに留めようとは思ってたんだ。でも、お前があまりに危なっかしくてな。少し目を離した隙に溺れ死にそうになって、つい……お前の前に現れちまった」


 鳴海は当時を思い出したのか、そう言いながらも懐かしむように苦笑する。


 妻だった頃とは顔も性格も何もかも違うのに、気配だけはかつての妻と同じで、目が離せなかった。

 かつての妻の魂を静かに見守れば、荒れ果てた心も慰められるだろうと思い、舞を見ていた。だが、活発で無鉄砲なお転婆娘は、予想以上に危なっかしい。

 常にはらはらしながら舞の成長を見守るうち、少しずつ舞自身に情が湧き、気づけば彼女の前に姿を見せていた。

 出会ってからの日々は、まるで幸福だった過去を思い起こさせるほどに色鮮やかだった。


「今度こそ、お前に幸せになってほしかった。たとえひとときしかそばにいられなくても、舞という人間として最後まで生き、天寿を全うできたのなら、俺の荒々しく乱れた心も少しは慰められただろうに。結局お前はまた、俺の目の届かないところで、誰かの手によって理不尽に命を奪われてしまった」


 彼の心に呼応するように、海は大きく荒れ始め、風に煽られて波が高く跳ねる。地響きのような海鳴りが辺りに響き、まるで慟哭のようにこだました。

 果てのない怨嗟が渦を巻き、静かだった海を乱していく。


「こんなことになるんなら、初めからお前を連れ去ればよかった。大事に囲って現世など捨てさせれば、辛い思いもしなかったろうに。どうして、お前ばかりがこれほどまでに辛い思いをする」


 苦しくなるほど強く抱きしめられた舞は、わずかに震える彼の腕の中で、静かに涙をこぼした。

 舞が幼い恋心を自覚するまでの間、鳴海はずっと舞を慈しみ、その先の人生の安寧を願っていた。

 たとえ同じ時を歩めなくとも、隣にいることができなくなっても、今度こそ舞が人として幸せに過ごせるようにと。


 彼の澄んだ献身も、切ないほどの無償の愛も、愛おしく、そして何よりも悲しかった。


「――私、あなたのそばにいたい」


 気づけば、そんな言葉を口にしていた。


 過去を忘れられず、永い時の中で自身の寂しさを押し殺し続けてきた鳴海という一人の男を、舞は何よりも愛おしく感じた。

 それは魂が憶えている彼への慕情なのか、舞自身の恋情なのか。その曖昧ささえ、もはやどうでもいいと思えるほどに、彼という存在に改めて恋をしたのだ。


「あなたが好きなの。死んでもあなたの元に帰りたいと願うくらいに、ずっと、好きだったの」


 あの時素直に言えなかった言葉を、真っすぐ彼の目を見つめ、もう一度自分の口から真摯に伝えた。

 涙を流しながらも精一杯の笑顔を向け、舞の言葉が本心だと伝わるように。


「だから――連れて行って。もう二度と離れないように、今度こそ……永遠に一緒にいられるように」


 鳴海の身体を再び抱きしめ返し、その厚い胸に頬を寄せる。


 死を迎えたことで、舞を愛してくれた紗枝も、かけがえのない友人たちも、深く悲しませてしまっただろう。

 けれど、自分の死を誰かが悲しんでくれるのなら、それだけでいい。

 理不尽な最期を迎えてしまったけれど、魂が帰る場所は彼のそばだ。今はそれが何よりも幸せだった。


「なぁ、俺の名を呼んでくれ」


 鳴海はくしゃりと泣きそうに顔を歪め、かすかに震えた声でそう嘆願する。


「……鳴海」


 そう名を呼ぶと、彼は精悍な顔にありったけの幸福を浮かべ、美しく笑った。

 愁いを含んだものではない、神となる前に浮かべていたであろう屈託のない微笑みを。


「舞、愛してる。これからは、ずっと――そばに」


 海鳴りがいつまでも鳴り響く夜の海。

 水面が月光を弾き、白波が二人の足元を濡らす中、初めてのキスをやり直すように深く唇を交わした二人は、自然と手を取り合い、海の中へ歩みを進めていく。

 そして、どこまでも暗く、底のない闇が広がる海へと身を沈めた。


やがて、荒れていた海は凪いで、浜辺を滑る波音だけが辺りを包む。

波間に揺れる月影が、二人の行く末を、ただ見ていた。


 ――もう、海が哭くことはない。



 了




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