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海が哭く夜に  作者: 病@【宝石の庭~私を過去にするのなら~】電子書籍発売中


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前編

ジャンルに迷いましたが、恋愛が絡んでいて現代ものなので、恋愛・現実世界にしました。

異類婚姻譚、もっと増えて欲しい。狂おしいほどに読みたい……。

時間がある時に、ゆっくりとお読みいただけると幸いです。

 

「海が哭(な)いている時は、そばに寄ったらあかんよ。海神様に連れてかれるからねぇ」


 祖母のそんな言葉を聞いたのは、いつの頃だっただろう。


 ***


 ――……。


 意識が、少しずつ引き上げられていく。

 微睡みの海を揺蕩う水泡のように、ゆらりゆらりと不規則に浮き上がっていくと、やがて四肢に感覚が戻り、自然と視界が開けていく。

 そうして、目を開けた先に広がっていたのは、窓から入る月明かりに照らされ、薄暗闇の中でぼんやりと浮かぶ、木目の並んだ天井だった。


 外で鳴く秋の虫の声、風に揺れる木々のかすかなざわめきとともに、耳鳴りがするほどの静寂が、寄り添うように真夜中の一室を包み込む。

 ゆっくりと体を起こし、何気なく外へと視線を向ければ、開けていた窓から、しっとりと夜を照らす満月が見えていた。


「……誰かに呼ばれたような気がしたんだけど、夢かな」


 半身を起こしたまま、ぽつりとそう呟くと、その声は思いのほか室内に響いた。


 この、昔ながらの木造平屋。丈夫な造りの縁側から海が一望できるこの家は、今は亡き祖母が所有していたもので、近所の親戚に丁寧に管理されつつも、ずっと人が住むことなく在り続けていた。

 懐かしいい草の香りを感じながら開け放たれた窓へと近づけば、遠くから寄せては返す波の音とともに、どこからともなく響く海鳴りが、かすかに耳へと届いた。


 ***


 舞(まい)の両親は、舞が生まれて間もなく、父の浮気と借金がひょんなことから発覚し、それが原因で離婚することとなった。

 若かりし頃の母・紗枝(さえ)は、早々にろくでなしの父に見切りをつけたものの、生まれて間もない舞を抱え、ろくな覚悟も準備もないまま、一人で舞を育てることとなったのだ。

 都会でキャリアウーマンとして実直に仕事をこなしていた紗枝であったが、結婚と妊娠を機に仕事を辞めていたため、蓄えはあっても、先の収入はない。

 不安に押しつぶされそうになった紗枝は、結局、嫌だと言って飛び出したはずの故郷へ戻り、祖母の暮らす実家へと身を寄せることにした。

 祖父を早くに亡くしてから一人で暮らしていた祖母は、紗枝と舞を温かく迎え入れてくれた。そして舞は、そのままその家で中学卒業までの期間を過ごすことになる。


 確かにそこは、海ばかりが広がる何もない田舎町ではあったが、舞は、ゆったりと時間が流れているような町の雰囲気をとても気に入っていた。

 近所には子供も少なく、子供と見ればだいたい友達という狭い世界の中、それでも毎日が輝いていた。大人になった今では、当時の記憶が殊更に色鮮やかに思い出せる。

 温暖な気候、少々陽気でありながらも穏やかな気質の住人たち。そして何より、蒼く美しい海を見ることが、当時の舞にとって一番の楽しみであった。


「舞はすっかり海に魅入られちょるねぇ。あんまり海に近づきすぎると海神様に連れていかれるで、あんまり遅くに海辺に行かん方がええよ」


「ちょっとお母さん、余計なこと言わないでよ。舞が興味を持ったらどうするの?」


 八歳になったばかりのある日、熱心に海ばかりを見に行く舞に、祖母が真面目な顔をしながらそうこぼしたことがあった。

 それを横で聞いていた紗枝は、また始まったかと言わんばかりにうんざりとした顔をしていたが、舞はそんな紗枝の顔よりも、祖母の言う【海神】という聞き慣れない言葉が気になっていた。

 当時、学校の怪談や魔女図鑑なる、ちょっと不思議な読み物にハマっていた頃であったから、なおさらだ。


「おばあちゃん、海神さまってなあに?」


「ほらぁ。この子、そういうちょっと不思議な話が最近好きなのよ。だから言わなかったのに……」


「はは、ええじゃないの。ほら、ちょっくら話してあげようかね。ここいらに伝わる、古い古い昔話さ――」


 そう言って祖母の口から語られたのは、子供に聞かせるには少々闇が深すぎる話であった。


 遠い昔、この地にあった集落の一つに、若い夫婦がいた。

 この辺りはもともと潮の流れの関係で魚が滞留しやすい場所であったこともあり、漁には困らず、集落はそれなりに豊かであった。そして、若夫婦もまた漁を糧に、毎日幸せに暮らしていた。

 しかし、その当たり前の幸せを妬む者がいたのだ。それが、集落の長の息子と、その妹であった。

 長の息子は、昔から密かに女に心を寄せていたが、その女は幼い頃からの幼馴染でもある男と夫婦になってしまった。

 一方、妹は、集落の中でもとびきり容姿端麗な男に惚れていて、様々な手を使って言い寄っていたものの、素気なくあしらわれ、その男の嫁となった女へ身勝手な憎悪を募らせていた。

 毎日のように見せつけられる彼らの幸せな姿を、見当違いに恨み、妬んだ長の息子と妹は、集落の中でも粗暴な男たちを集めた。

そして手に入らないならばと卑劣な方法で若夫婦を襲い、結果妻を自死に追い込んだ。そして恨みの果てに正気を失った夫を殺し、崖の向こうへ投げ捨てさせたという。


 しかし、それからというもの、潮の流れは大きく変わり、海は荒れに荒れて、まともに漁もできなくなり、毎日のように海鳴りが響き続けた。

 そして、夫婦を手にかけた男たちは、立て続けに謎の死を遂げた。最後には、元凶である長の息子と妹が、そろって陸にいながら溺死するという奇怪な死を迎えた。それを怨嗟に狂った男の呪いだと恐れた集落の人々は、彼を祀る祠を建て、【海神】として崇め奉ることにした――。


 祖母から語られたのは、地方特有の伝承のようなものだったが、長く生きてきた祖母の瞳には、それをただのありがちな伝承だとは思っていないような色が浮かんでいた。

 どうやら伝承にまつわる祠は実際に存在し、危険だから子供は近づいてはならないと言われている海岸の洞窟の奥にあるのだという。

 ただでさえ洞窟の中は暗く、ごつごつとした岩肌には藻が張り付いていて、足元も滑りやすい。さらには、潮の満ち引きによっては閉じ込められるような場所にあるため、祠が祀られたのは随分と昔のことで、石造りの祠とはいえ、今はほとんど管理されていない。

 祖母は、舞が興味を持っても絶対に行ってはならないと、厳しく言いつけた。さすがに幽霊が出そうな場所には一人で行きたくないと素直に頷いた舞に、祖母はどこか安堵したように顔を緩ませた。


「なんか、お母さんが前に観てた昼ドラみたい。こわいけど……かなしいね。海神さまがかわいそう」


「例えが昼ドラってあんた……。まぁ、改めて聞くと、確かにホラーサスペンスみたいな話よねぇ」


 そんな気の抜けた親子の感想に、祖母は少し呆れたような目を向けた。それから、堪らずといったように小さく笑い、遠い昔を思い出すように視線を逸らした。


「祖母がね、昔、海神様の巫女をやっとったでな。私もある程度聞いとったけど、今では大々的に巫女を立てて祀っとるわけでもないけぇ、ここまで詳しく知る者はおらん。そうさな、私が死んだら、代わりに舞が憶えとってくれるか?」


 不謹慎にもそう言って快活に笑い始めた祖母に、紗枝は怒りを滲ませるように顔を顰め、縁起でもない話題を窘めた。


「もう、縁起でもないこと言わないで! まだまだぴんぴんしてるでしょうに。それに私だって憶えてるわよ。昔から何度も聞かされてきたんだから」


「そうは言っても、お前はここが嫌いだろうに。そういう者はな、よそに行ってまでこの話を引きずらんのよ。第一、この話をするまで忘れとっただろ?」


「ま、まぁ確かに……。でも、舞だってまだ小さいし、すぐ忘れちゃうと思うわよ?」


「海神様とご縁があるなら、忘れていてもいずれ繋がるさぁ。……舞、海は好きか?」


 穏やかな声色で尋ねる祖母に、舞は晴れやかな笑顔を向けながら大きく頷いた。


「うん! あのね、海に行くとね、なんかここがきゅっとなるけど……でもね、ずっと見てたくなるの」


 舞は胸に手を当てながら、へへへと頬を赤くして笑う。

 ここの海を見ていると、だんだんと胸の奥の方が締め付けられるような感覚に襲われ、落ち着かない気分にさせられる。


 遥か遠い昔から見てきたかのような物懐かしさ。そして、記憶にない何かを追慕するような、一抹の心寂しさがあふれる時があった。

 潮の香りに包まれ、凪いだ静かな海辺を歩いていると、離れがたいような気持ちが湧き上がるのに、幼い舞にはそれが何なのかわからない。

 当時の舞は無邪気な子供だったからこそ、そんな感情を制御できず、ただ海へ通うことで愚直に答えを知ろうとしていた。


「そうかい、そうかい。じゃあ、ここにいる間は好きなだけ海に通うとええ。ただなぁ、近いからっていっても、夜は危ないから海辺には近づかんこと」


「うん。夜は眠いから寝るもん」


「はは、そうだねぇ。お前は寝るのが早いから、余計な心配だったねぇ。でもなぁ……舞、海が哭いている時はそばに寄ったらあかんよ。海神様に連れてかれるからねぇ」


 そう言って穏やかに微笑んだ祖母が、舞の頭を優しく撫でてくれたことを、舞は今でも鮮明に憶えていた。


 ***


 この地を離れてから、すでに十年ほどが経つ。

 舞の中学卒業と同時に、都会で仕事が決まった紗枝に連れられ、名残惜しくも生まれ育ったこの地を去った。

 それから海に近づく機会はなく、慣れない生活に翻弄されながらも、新たな人間関係を築いていくうちに、ここでの暮らしは少しずつ懐かしく、輝かしい思い出になっていった。


 けれど、舞はまたここへ戻ってきた。今なお色鮮やかに残り続ける、幼い思い出の縁に導かれるようにして。


 ――海が哭いていたら、近づいてはならない。


 祖母が幼い舞に言い聞かせていたその言葉を、大人になった今なら破ってみてもいいかもしれない。

 窓辺で月を眺めながらふと思い立った舞は、玄関へ向かった。建て付けの悪くなった扉を開けて外へ出ると、不安定に明滅する街灯の下を抜け、砂利道を進んで急な石段を降りる。

 案外明るい月明かりを頼りに、少しずつ海へ続く道を進んでいくと、波の音がだんだんと大きくなるにつれて、潮の香りも強くなってきた。


 町全体が寝静まった夜半、堤防で夜釣りをする者もおらず、この場にいるのは舞一人だけだった。

 階段に足をかけて堤防へ上がると、浜辺に幾重にも重なるレースのように美しい波の花と、満月に照らされて夜空を反転させたかのように煌めく海面が広がっていた。


 ゴウゴウと、どこからともなく荒々しく唸るような音――海鳴りが聞こえる。


 舞は、履いていた靴を脱いで指に引っかけるように持つと、素足になり浜辺へと降り立つ。

 ギュッという音とともに、指と指の間に入り込んだ砂粒がさらりと流れ、不快ではない程度のこそばゆさを感じさせた。

 秋の夜風というには少しばかり温い風が頬を撫で、舞の髪を掻き上げるように浚っていく。

 誰ひとりいない、寂しくも非日常の中にいるような浜辺を、わずかな足跡を残しながら、月明かりを頼りに波が届くぎりぎりのところまで歩いていくと、湿った砂に足がまとわりつき、わずかに沈み込んだ。


「……綺麗」


 暗闇に慣れた目で捉えた夜の海は、幽玄で非現実的でありながらも、昔と変わらず美しかった。


 見渡す限りどこまでも続く海を眺めていると、自分が抱えていたものすべてが、なんともちっぽけに感じる。

 ここでこぼした言葉なら、どんな酷い言葉であっても、波に浚われ、何もかもなかったことにしてくれるかもしれない。そんな気持ちにさせてくれるのだ。


 少し荒れて波が立つ波打ち際を、しばらく海鳴りを聞きながらゆっくりと歩いていると、ふと何かに気を取られ、舞は足元から目を離して顔を上げた。


 そこで、気を取られたものが、誰かの影であることに気づく。

 煌々と照らす満月の光によって、薄暗闇の中に浮かび上がる影。それを追って視線を彷徨わせると、そこには一人の男性が静かに佇んでいた。

 月の下で映える日焼けした肌に、若々しくも張りのある雄々しい体躯。同性でさえ目を奪われるだろう、男らしい精悍な顔立ちは、どこか気だるげでありながらも、人を惑わせるような色気を秘めている。

 少し長い黒髪を無造作に後ろで結び、無地のシャツと形の良いズボンに身を包んだ彼は、まるで飾り気がないにもかかわらず、不思議な存在感を放っていた。


 彼は、舞が自分に気づいたとわかると、端正な顔にかすかな笑みを浮かべ、ゆっくりと彼女へ近づく。


「――おかえり」


「えっ……?」


 月と夜の陰影が、彼という存在をいっそう深く、妖艶に浮かび上がらせていた。


 どこまでも見透かすような切れ長の瞳が、舞をじっと見つめている。

 口元に柔らかな微笑みを浮かべたまま、まるでようやく出会えたかのような、重い熱を孕んだ眼差しで、ただ戸惑う舞を見下ろしていた。


 いったい誰なのか――そう思ったのは、ほんの一瞬だ。


「まさか、鳴海(なるみ)……お兄、さん?」


 なぜここに、どうして帰ってきたことを知っているの――そんな疑問は、彼の低く響いた声であっという間に溶けてしまう。


「久しぶりだな。……髪、伸ばしたのか。よく似合ってる」


 彼はそう言うと、おもむろに舞の髪先へ手を伸ばし、指先で弄ぶようにしてから、そっと放した。

 彼の指からはらりと零れ落ちた髪に、舞が言葉もないまま何気なく視線を落としていると、頭上から忍ぶような笑い声が聞こえ、再び顔を上げた。


「初めて会った時には随分と髪が短かったから、てっきり男かと思ったが……今はもう、間違えようがないな」


「そ、それは小学生の頃のことでしょう? あの頃は……確かに男の子みたいな格好をして、あちこち遊び歩いていたけど」


「そういえば、虫を見つけてきては、自慢げに見せてきたこともあったな。あとは……海に服のまま飛び込んで、溺れそうになったり。はは、今のお前からは考えられないようなお転婆ぶりだった」


 久方ぶりに会って早々、再会の喜びもそっちのけで、穏やかな表情のまましみじみと言われてしまえば、気まずさよりも先に、昔の自分のお転婆ぶりが次から次へと蘇り、羞恥心が湧き上がる。

 舞は暗がりでもわかるほど頬を赤らめ、抗議するように鳴海を睨んだ。

 しかし、鳴海があまりにも昔と変わらないままそこにいるから、今は遠い少女時代の記憶と感情が明瞭に蘇る。

 かつて彼に恋をした、未熟で歪な過去の残滓が、今なお棘のように胸に刺さったまま在り続けていたことを、今更ながらに自覚する。


「や、止めてよ……もう昔のことだから。それにしても、鳴海お兄さんは全然変わらないね。……昔から、格好いい鳴海お兄さんのまま」


 舞が思わず顔を逸らしてそうこぼすと、彼はその言葉が嬉しかったのか、形の良い目元を細め、笑みを深めた。


 ***


 気づけば、流れる雲に遮られた月が、陰っては現れることを繰り返していた。

 天気が少しずつ崩れ始めているのか、海面を滑る強い風に煽られて白波が立ち、浜辺を削りながら舞の足元まで迫ってきている。

 煌々とした月光がゆらゆらと海面に光の帯を作ると、海と夜空の境界が曖昧になっていくように感じられ、どこかに投げ出されたのではないかという錯覚を抱いてしまいそうだ。


 波打ち際から離れて腰を下ろした舞の隣で、同じように座り、暗い海を眺めている鳴海の横顔は、思い出の中の面影と何も変わらない。

 少し近寄りがたく感じる凛々しさも、時折見せる柔らかな笑顔に潜む幼さも、彼の持つ形容しがたい不思議な魅力も、何もかも――舞が恋をしていたあの頃のままだ。


 この地で過ごした幼い頃、ふとした出来事から彼と交流を持ち始めた。

 特に観光地でもない片田舎。すれ違う人は皆知り合いと言ってもいいくらいのところに、突如現れた見知らぬ青年。

 考えるよりも先に行動に移してしまう年頃だった舞は、夏の暑さに耐えかねて服を着たまま海へ飛び込み、結果、溺れかけていた。そんな舞を助けてくれた青年こそが――鳴海であった。

 無謀なことをしたと真摯に叱りながらも、涙と鼻水にまみれた舞の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれたお人よしに、好奇心旺盛な舞は興味を惹かれたのだ。


 それから度々、彼とこの浜辺で落ち合い、平凡で他愛もない時間を過ごした。

 知り合ったばかりの子供のくだらない遊びに律儀に付き合い、お転婆で無鉄砲だった舞に呆れながらも、厭うことなく優しく見守ってくれた。

 彼と会えるのは、きまって海が黄金に染まる黄昏時だけ。陽が沈むまでの短い逢瀬に特別感を抱いていた舞は、時間があれば浜辺に通い、鳴海と同じ時を過ごした。

 そうした日々を重ねるにつれ、舞のお転婆ぶりは次第に落ち着き、それと同時に、鳴海への感情も少しずつ変わっていった。

 子供ながらに慕う気持ちはだんだんと鮮やかに色づいて花開き、自分でも気づかないうちに、淡い恋心へと昇華していたのだ。


 思えば、出会ったあの時から――溺れて沈みかけた舞に、躊躇なく手を伸ばしてくれた彼の姿を見たその時から、魅せられていたのかもしれない。


「なぁ、最後に会ってから……もう、どれくらい経ったと思う?」


 隣に座って静かに海を見つめていた鳴海が、ふと舞にそう切り出した。

 鳴海の問いに、回想から意識を引き戻された舞は、小さく肩を跳ねさせると、俯いていた顔を上げて鳴海の方へ向き直る。

 淡い月に照らされて浮かび上がった彫刻のような深い顔立ちには、あの頃と変わらず、どこか退廃的な憂いが帯びている。暗闇よりも暗く感じる鳴海の瞳が、舞の心を見透かすようにじっと見つめていた。

 舞はどうしてか居たたまれない気持ちになり、彼の瞳から逃げるように再び目を逸らすと、ぎこちなく笑みを作りながらそっと口を開いた。


「十年、かな」


「はは、そうだよな。雰囲気も変わるわけだ。……そうか、お前が俺の唇を奪ってさっさと逃げたあの時から、十年か」


「っ……そ、それはっ」


 鳴海がさらりと口にした台詞に、舞は羞恥心で頬が一瞬にして熱くなり、言葉を失う。

 薄れつつあったあの時の記憶が一瞬にして蘇り、あっという間に、当時のままならなかった拙い感情までもが鮮やかによみがえって、今この瞬間、舞の心をひどく苛んだ。


「今でもよく憶えてるぜ? あの時のこと。――なんで引き留めてくれないのかって泣きながら、容赦なくぶつかってきたよな?」


「その、ちっ違う……いや違わないけど、とにかくあれはっ」


「あの時は痛かったな。しかもこっちが驚いてる間に返事も聞かずに逃げ出して……そのまま俺の前から消えちまった」


 からかうような軽い調子で話しつつも、どこか淡々と響く低い声に、舞は昔を語る彼の顔色を窺うことさえできなくなった。

 ただただ熱くなったり、血の気が失せたりする顔を手のひらで覆い、所在なさげに体を丸めたまま、どうしようもなく救いようのない過去の過ちを、どうにかやり過ごそうとしていた。


「あれは、あの時はおかしかったの。ここから離れることをずっと言えなくて、うじうじ悩んで、ようやく打ち明けられたと思ったら、鳴海お兄さんはいつも通りに笑って、さっさと送り出そうとするんだもの。理不尽だってわかってても、どうして悲しんでくれないのかとか、どうして引き留めてくれないの、なんて、そんな思いがぐるぐるして……。そうだ、どうせもう会えなくなるなら、思い出くらい作ろうって――」


 中学二年生になってすぐ、仕事に復帰するため東京へ引っ越すことになりそうだと、紗枝に告げられた。

 すでに鳴海への恋心が形になりかけていた頃だ。舞は、住み慣れたこの土地を離れることよりも、心を寄せる鳴海と離れることにショックを受けた。

 鳴海と共に過ごした時間は、黄昏時のほんのわずかな時間ではあったが、それでも積み重ねるうちに彼との思い出は増え、抱いた感情もまた大きくなっていった。

 すでに軽い別れの挨拶で済ませるような関係ではなく、その頃の舞にとって、彼はかけがえのない日々の一部となっていた。そんな彼に会えなくなるなどと考えたこともなかった舞は、突然のことに心を大きくかき乱されてしまったのだ。

 未熟な心は、突然失うことになった鳴海という存在に執着し、思考が沈めば沈むほど、おかしな方向へ進んでいった。そして、あの日――爆発した。

 大人になった今なら理解できる。彼は舞との別れにわだかまりを残したくなくて、笑顔で見送ることを選んだのだろう。

 けれど、当時の舞には、その屈託のない笑顔がどうしようもなく悲しかった。


 ――舞は気づいていた。

 多感な時期だったからこそ感じた違和感。鳴海が、舞を通して誰かを見ているという、どこか確信に近い感覚。

 彼と共に過ごしてきた時間の中で、長めの前髪に隠れた美しい瞳の奥に、舞の知らない過去に思いを馳せるような、切なくも陰りを帯びたものが宿る時があった。


 だからこそ、爪痕を残したかったのだ。彼の中に、舞を通して見える誰かではなく、舞自身の何かを。

 私だけを見て――そんな歪んだ執着心を、衝動的に彼にぶつけた。そして、彼の心が少しでも舞に向いてくれたら、それだけでよかった。


 飛び込むように彼にキスをして、彼の唇に傷をつけた挙げ句、行き場のないやるせなさに泣きながら、一方的に別れを告げて逃げた。


 その後、鳴海に嫌われたかもしれないという恐怖から顔を合わせることもできず、結局一度もここに通わないまま、この地を出た。

 そうして歳を重ね、心も体も大人になった今でも、このことは後悔という錘となって、ずっと舞の心に沈み続けていた。

 いつまでも忘れることのできない、深く刻み込まれた苦々しい別れだ。


「……鳴海お兄さんに『幸せになるためにここを出るべきだ』って言われて、カッとなったの。どうして私の幸せを勝手に決めるのかって。あの時、私にとっての幸せはここにあったのに」


 地方の片田舎では将来の選択肢が広がらないという紗枝の言葉も、今なら受け入れられるが、当時は住み慣れたこの地を離れることが嫌でたまらなかった。

 紗枝自身、この地を飛び出し、東京という様々な境遇の人が集まる場所で身を立てていたのだから、その言葉には自身の経験も含まれているのだろう。

 まだ未成年で、小さな世界しか知らなかった舞にとっては、先のことまで考えてこの地を離れなければならないという不満の方が大きかった。

 新しい土地でうまくやっていけるのかという不安と、鳴海と離れることになる悲しさと喪失感。たとえ舞が行きたくないとわがままを言ったところで、親の庇護下にある以上、どうにもできない。すでに紗枝の中で決まったことなのだ。舞が何を言っても、事態が変わるわけではない。

 不満と不安、焦燥や虚無感。そんな持て余した感情を心の内に抱え続け、不安定な心境になっていっても、それでも周囲に心配をかけまいとして、舞はいつも通りに振る舞っていた。


 しかし、いつまでも鳴海に伝えないわけにもいかない。高校受験も間近という頃になってようやく話を切り出すと、彼は少し寂しげな笑顔で言った。

「東京に行けばお前が幸せになれるんなら、俺は応援するよ。まあ、喧しい奴が居なくなると思うと、寂しいけどな」

 それは、鳴海なりに不安がる舞の背中を押すための優しさだった。けれど当時の舞は、その言葉に突き放されたような気持ちになったのだ。

 ここから舞がいなくなるだけで、あとはいつも通りの日常が続いていく。きっと鳴海の生活は変わらないまま、いつしか舞のことなど、思い出の一部として忘れ去られてしまうのかもしれない。


『お前はお前の幸せを見つけるために、ここを出るべきだ』


 舞に恋という感情を植え付けた本人に、とどめのようにそんなことを言われてしまえば、もう耐えられなかった。


 気がつけば、舞は泣きながら「どうして引き留めてくれないの」と彼を理不尽に責め立て、不器用なキスをして、そして一方的に別れを告げて逃げ出していた。

 唇にどちらのものともわからない血の味を感じながら、部屋の中で声を殺して泣いた。どうして泣いているのかもわからなくなるほど泣いて、その日はそのまま眠りについた。

 次の日、朝起きた時に感じた唇の痛みは、大人になっても忘れられない。初めてのキスの最低な味を思い出して、また泣いてしまったことも、よく憶えている。


「――あの時は、ごめんなさい」


 舞はそう言って、鳴海に頭を下げた。


「本当は、ずっと言いたかったの。あれはただの理不尽な八つ当たりで、鳴海お兄さんには何の非もないって。あの時の私はね、鳴海お兄さんが好きでたまらなかった。幼稚な独占欲に振り回されて、あんなことをして……本当に今更、何を言ってるんだって思うけど、これだけは伝えたかった」


 舞は少し早口のままそこまで言い切ると、意を決して顔を上げる。


 雲が晴れた空から再び月明かりが注がれ、鳴海と舞を優しく照らした。

 鳴海の表情には、どこか「仕方がないな」といった呆れが滲んでいた。怒りや失望の色は感じられず、ただ舞という存在を懐かしむように目を細め、あの頃何度も見惚れた柔らかな笑みを浮かべる。そして、赤みを帯びているだろう舞の頬に手を伸ばし、慰めるように優しく撫でた。


「悪い。少しからかい過ぎたな。別にあの時のことは怒ってない。あの時は俺の配慮も足りなかった。……いつまでも出会った頃の、あの無邪気な子供のままじゃないのにな。あの時、お前が泣きながら俺に感情をぶつけた時に痛感したよ。女ってのは、本当にあっという間に大人になるんだなってな」


 手のひらから伝わる、ほんのりとした低めの体温。舞はその感触を確かめるように瞼を伏せ、再び思考の渦に飲まれる。


 彼が、どうしてここまで舞に甘く、優しくしてくれるのか。

 ただ一時の思い出を共有したに過ぎないのに。

 あれほど理不尽な別れ方をしながら、まるで離れていた時間など関係ないとばかりに舞に「おかえり」と言って、あっという間に受け入れてくれた。


 あの頃、鳴海との逢瀬は、未熟な舞の一方的な八つ当たりで幕を閉じた。そして会わないまま、十年という時が過ぎた。

 一度、祖母の葬儀でこの地を訪れたことはあったが、あの時は海へ赴く余裕はなく、葬儀が終わった次の日にはこの地を去っていた。

 舞がこの地を訪れてから祖母の葬儀が終わるまでの間、ひどい雨が降り続けた。雨音とともに響く海鳴りを聞きながら、紗枝と共に、静かに眠る祖母を見送ったのはほんの数年前だ。


 あの雨ではきっと、海は泥色に濁り、いつもの美しさは見られなかっただろう。

 思い出の中の海は、いつでも穏やかで澄んだコバルトブルーをしていた。その幼くも幸せな思い出を、喪失の悲しみで塗り替えたくなかったという気持ちもあった。


 ここを離れてから東京で過ごした十年という月日は、舞に感傷に浸る暇を与えてはくれなかった。

 新しい環境に、新しい人間関係。何もかもが目新しく、忙しない毎日は充実しながらもどこか息苦しく、常に人の目に晒されているようにも感じて窮屈だった。

 祖母との別れもまた、幼かった頃の記憶を色褪せさせることにつながったのだろう。気づけば、舞自身が都会の雑踏の一部になっていた。


 そう、そうしてとりとめのない日々を――送っていたはずなのに。


 送っていた、何事もなく、ただ消化するだけの毎日を――……?


 瞬間的に、ザザッと舞の脳内に雑音が入る。


「なあ――お前にいったい何(・)が(・)あ(・)っ(・)た(・)?」


 急にぼんやりとした舞から手を離し、彼女の顔を覗き込んだ鳴海は、瞳いっぱいに舞を映しながらそう尋ねた。

 舞は彼との距離があまりに近いことに気づくと、動揺してわずかに肩を跳ねさせ、少し身を引く。そして、それを隠すようにぎこちなく笑みを作ると、変わらず真っすぐ射抜くように見つめていた鳴海と目が合った。


「何がって、別に何も……どうして?」


「そうか……自(・)覚(・)が(・)な(・)い(・)ん(・)だ(・)な(・)」


 軽く俯いた鳴海が小さく呟いた言葉は、波音にかき消され、舞には届かなかった。

 しかし舞は聞き返すこともなく、鳴海が投げかけた質問の意図がわからないまま首を傾げた。


「俺はな、お前が今(・)度(・)こ(・)そ(・)良い人生を送れるならと思って、一度はお前を手放した。たとえここから離れても、お前が生きていることだけわかればいいってな」


 鳴海はそう言いながら、おもむろに舞を引き寄せ、腕の中に囲い込んだ。

 息苦しく感じるほど強く抱きしめられ、舞は混乱しながら顔を上げようとする。しかし、かすかに失意を滲ませた彼の声が、それを思いとどまらせた。


「な、鳴海お兄さん? どうしたの、いったい……」


 顔を彼の胸に埋めたまま、戸惑うように舞が尋ねると、鳴海はさらに強く抱きしめた。

 舞の肩に額を預けた鳴海は深く息を吐くと、そのまま話を続けた。


「ここに来る前に、何をしていた?」


「え? ここへ来る前って……」


「この地に来る前のことだ。わかるか?」


 彼がそんな意味のわからないことを聞きたがる理由も理解できないまま、舞は促されるように、最近の出来事を思い出しながら口を開こうとした。

 しかし、ふとした違和感に気づき、言葉を発しかけた唇を閉じる。しばらく沈黙が続いた。


 あの家で目が覚めた時は、特に何も感じなかった。この地に戻ってきたという確かな意識はあったが、なぜここへ来ることになったのか、その理由を考えようとすると、途端に何かに邪魔をされるように思考がまとまらなくなり、視界が歪んで、頭の中では忌々しいほどの雑音が耳鳴りとともに鳴り続ける。


「そうだ……仕事帰りに、職場の同僚と道を歩いていたら――」


 雑音がしきりに舞の思考を遮る中、途切れ途切れによみがえるのは、ここに来る前の出来事だった――。



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