第11話:マザー・ヴァインの記憶と、かつての「人間」
第4プラントは、深い静寂と、むせ返るような緑の香りに包まれていた。
私、農業ロボットのアルと、白衣を着たネズミのハカセ、亀のエンジニアのゲン爺は、プラントの中央にそびえ立つ巨大なトマトの樹――マザー・ヴァインの言葉に、じっと電子耳(と本物の耳)を傾けていた。
『(五百年前。私がまだ、小さな小さな「ただのトマトの種」だった頃。外の世界――私たちの故郷である「地球」は、もう青くはなかったわ)』
マザーの念波は、古いアルバムをめくるように、穏やかで少しだけ切ない波長を帯びていた。
『(資源は枯渇し、環境は緩やかに、けれど確実に終わりへと向かっていた。でもね、不思議と人間たちはパニックを起こしていなかった。長すぎた争いに疲れ果て、自分たちの星の寿命を、静かに受け入れようとしていたの)』
「……寿命を受け入れた?」
ハカセが小さな声で呟いた。「じゃあ、このアーク・パルナスは、限られた特権階級の人間だけが逃げ出すための箱舟じゃなかったのか?」
『(ええ。キサラギ博士をはじめとする人間たちは、自分たちの「エゴ」を知っていたわ。人間が他の星へ移住すれば、必ずまた争いを生み、その星の環境を壊してしまう。だから彼らは、人間ではなく、「地球の純粋な命」だけを宇宙へ送り出すことに決めたの)』
マザーの枝葉がサワサワと揺れ、淡い光の粒子がプラント内に舞い落ちる。
それが、ホログラムの映像のように、五百年前の記憶の断片を形作った。
白衣を着た、優しそうな白髪の老人の姿だ。
『……頼んだよ、アル。そして、私のかわいい知能化生物たち。君たちならきっと、他の星の命と手を取り合える』
それは、先ほどメインコンソールの深層領域で見た映像と同じものだった。
『(人間たちは、私たち動植物を知能化し、自活できるように遺伝子を調整したわ。そして、見返りを求めず、ただ命を育むことだけを喜びにできる「最高の農業ロボット」であるアル、あなたを私たちの保護者に任命したの)』
私は自分のアームを見つめた。
ただのプログラムだと思っていた「トマトを育て、誰かに食べてもらいたい」という欲求。それは、人間たちが私に託した、最も純粋で美しい『願い』そのものだったのだ。
「しかし、マザー」
私は一つの疑問を口にした。
「それなら、なぜアーク・パルナスには『十万人を収容できる居住区』があるのですか? 動植物と私だけなら、プラントの区画だけで十分なはずです」
私の問いに、マザーはふふっ、と温かい笑い声を念波に乗せた。
『(アル。あなたなら、もう答えを知っているはずよ。あなたが今まで、砂漠の星で、氷の星で、水の星で、何をしてきたかを思い出して)』
「……私が、してきたこと?」
お腹を空かせたピルル星人にトマトを渡し。
凍えるモフル星人に温泉を作り。
海の星のルカたちのために水耕栽培のドームを作った。
『(そう。あの広大な空っぽの居住区はね、人間が乗るためのものじゃない。いつかあなたたちが宇宙のどこかで出会う、住処を失ったり、助けを必要としている【未来の友だち】を、いつでも迎え入れられるように作られた『ゲストルーム』なのよ)』
「――っ!」
私は驚きのあまり、キャタピラをわずかに後退させた。電子頭脳のファンが高速で回転し、回路に熱い電流が駆け巡る。
「……バカな連中だ」
私の肩の上で、ハカセが小さな前足で顔を覆い、ポロポロと涙をこぼしていた。
「自分たちは滅びゆく星に残って、ネズミやトマトやロボットが……いつか見知らぬ宇宙人を助けられるように、こんなバカでかい船を、一生懸命に作ったって言うのか……っ」
「……人間とは……そういう……不器用で、愛おしい……生き物じゃったのぉ……」
ゲン爺もまた、しわくちゃの目尻を拭いながら、ゆっくりと頷いた。
キサラギ博士たちが、どんな思いでこの船を見送ったのか。
遠ざかる地球を見つめながら、彼らはきっと、まだ見ぬ宇宙の誰かが、私たちの育てた赤いトマトをかじって笑顔になる未来を想像していたに違いない。
「私は……なんという、素晴らしい機能を造物主(お父さん)たちからもらったのでしょう」
私はアームを胸に当て、誇りを持って言った。
「これからも、育てましょう。美味しいトマトを、宇宙の果てまで。それが、地球の人間たちが残した『星蒔き計画』の本当の姿なら」
私が決意を新たにした、まさにその時だった。
『――緊急警報。緊急警報』
突然、プラント内の照明が血のような赤色に点滅し、メインコンピューターの鋭いアラートが鳴り響いた。
『前方宙域に、異常なエネルギーの奔流を検知。超巨大規模の【宇宙磁気嵐】が発生しました。規模はカテゴリー9。回避不能。本船の航路と完全に重なります』
「なんだと!?」
ハカセが涙を引っ込めて端末を叩く。
モニターに映し出されたのは、宇宙空間を飲み込むように荒れ狂う、紫色の巨大な雷雲のようなエネルギーの渦だった。
「アル、マズいぞ! アーク・パルナスのシールドだけじゃ持ちこたえられない! こんな規模の電磁波を浴びれば、船のシステムは全滅、プラントの環境維持装置も完全にダウンしてしまう!」
ハカセの言う通り、このままではアーク・パルナスはただの鉄屑となり、マザーたちも枯れてしまうだろう。人間の残した最後の希望が、ここで潰えることになる。
「……いいえ。諦めませんよ」
私はキャタピラを鳴らし、力強くコンソールへ向かった。
「私たちには、この五百年間、ただ宇宙を漂っていたわけではありません。星々で出会った友人たちからもらった『知識』と『恵み』があります。……ゲン爺さん、ハカセ!」
「……おお……アル……」
「フン、言ってみろ! この天才ハカセがなんでも計算してやる!」
「アーク・パルナスの全動力を、防衛システムにバイパスします。私たちの『畑』は、私たちが守る!」
人間の想いを乗せた巨大な迷子船に、かつてない最大の危機が迫っていた。
しかし、私の電子頭脳に迷いはない。
農業ロボットとして、荒れ狂う宇宙の嵐という最大の『自然災害』に立ち向かうための、最後の作戦の計算が始まっていた。




