彼の記憶力
記録室のことを考えると眠れない。ネットワーク全体の構造図が、あの地下にある。降下は三日後に設定されていた。
準備の日々が始まった。ガゼルの地図をもとに経路を確認し、必要な装備を手配し、滞在時間の計画を立てる。深層はノード空間以上に魔素濃度が高い可能性がある。滞在時間は二時間を上限とした。
二日目の午後。
局舎の準備室で、私とセドリックとトーマが調査計画の最終確認をしていた。
テーブルにガゼルの地図と、私が作成した経路図を広げている。降下ルート。予想される障害。撤退経路。
「魔素濃度の計測器は二台持っていきます。一台が振り切れたとき、もう一台の数値で状況判断ができるように」
「サンプル回収用の耐魔素ケースも必要ですね。記録室に金属板があるなら、何枚か持ち帰りたい」
セドリックと私で準備品のリストを確認している。
打ち合わせが一段落したとき、セドリックが立ち上がった。
「お茶、入れますか。私、買いに行きますよ。メイラさん、何がいい?」
私が答える前に、机の端に湯気の立つ茶碗が置かれた。
見上げると、トーマが準備室の隅から戻ってきたところだった。片手に茶碗を持ち、もう片手で自分の分——水筒——を持っている。
茶碗を見た。
薄い茶色の液体。香りで、種類がわかった。キーマの葉茶。苦味が少なく、少し甘い。
私が好む種類だった。
そして——濃さが、私が好む濃さだった。薄すぎず、濃すぎず。
セドリックが茶碗を見て、言った。
「よく知ってるんですね」
何気ない一言だった。セドリックに悪意はない。単純な感想だ。護衛が調査官の好みの茶を知っている。それだけのことだ。
だが私の中で、何かが止まった。
彼は私の好みの茶を知っている。
いつから?
考えた。初めてお茶を出してくれたのはいつだったか。記憶を辿る。沿岸遺跡の野営ではダリンが食事を作っていたから、お茶は——いつだったか。保管庫の調査が始まった頃だろうか。
思い出せない。いつの間にか、トーマが私の茶を準備してくれるのが日常になっていた。
好みの茶。
それだけではない。
深層調査のとき、水筒を差し出すタイミングが正確だった。私が頭痛を感じるタイミング。スケッチに没頭すると水分を忘れること。
それも知っている。
沿岸遺跡で、灯りの角度を調整してくれた。スケッチに最適な角度。影が落ちないように。
最初の日からだ。配属初日の地下遺跡で、三時間、灯りの角度を合わせ続けてくれた。
荷物を持ってくれた。「足場が悪いので」。テントの結び方を見せてくれた。一度だけ。押しつけがましくなく。
頭をぶつけそうになったとき、手を伸ばしてくれた。天井と私の頭の間に手を入れて。
全部、仕事だと思っていた。護衛の仕事。依頼主の安全確認。経験豊富な護衛冒険者として当然の配慮。
だが。
お茶の好み。頭痛のタイミング。灯りの角度。スケッチに没頭すると水分を忘れること。
全部。
いつから知っていたんだろう。
全部、いつから知っていたんだろう。
「——メイラさん?」
セドリックの声で我に返った。
「あ——すみません。何でしたか」
「滞在時間の上限、二時間でいいですか」
「はい。二時間で」
お茶を一口飲んだ。ちょうどいい温度だった。それすら——
いや。お茶の温度は偶然だ。
偶然だ。
打ち合わせが終わり、セドリックが帰った後、準備室にはトーマと二人が残った。
私は机の上の地図を片付けながら、考えていた。
彼の記憶力。護衛としての観察力。依頼主の癖や好みを把握するのは、仕事の一環だ。遺跡護衛の経験が長ければ、様々な調査官の特徴を覚えるだろう。
だが——私以外の依頼主にも、こうだったのだろうか。
好みの茶を覚え、頭痛のタイミングを覚え、灯りの角度を覚え、寝るときに光が気になることを——
寝るときに光が気になること?
私は目を瞬いた。自分がそう思ったことに驚いた。沿岸遺跡の野営で、テントの入口の向きを調整してくれたのはダリンだったか、トーマだったか。
わからない。でも——朝起きたとき、焚き火の光がテントに直接当たらないようになっていた。
それを彼がやったのかどうか、確証はない。
「トーマさん」
「はい」
「……いえ。何でもないです」
聞きかけて、やめた。
何を聞こうとしたのだろう。「いつから私の好みの茶を知っていたんですか」。聞いてどうする。答えは「依頼主の好みを把握するのは護衛の仕事です」だ。そうに決まっている。
だが、もし違う答えが返ってきたら?
その可能性を考えた自分に、動揺した。
地図を鞄にしまった。
「明日、最終確認をして、明後日降下します」
「承知しました」
局舎を出た。いつもの道。いつもの夕暮れ。
隣を歩くトーマの足音を聞きながら、考えていた。
私は、彼のことを何も知らない。
好きな食べ物を知らない。趣味を知らない。家族の話を聞いたことがない。宿の場所すら、ガゼルとの面会の日にたまたま聞いただけだ。
彼は私のことを、こんなに知っている。お茶の好み。頭痛のタイミング。灯りの角度。
私は彼のことを、何も知らない。
その不均衡が、胸の奥に小さな棘のように刺さった。
道が分かれる場所で、いつものように立ち止まった。
「おやすみなさい」と言おうとして——少しだけ、間が空いた。
「……おやすみなさい」
「おやすみなさい」
宿に帰って、ベッドに座った。
ノートを開かなかった。スケッチブックも開かなかった。
窓の外を見ていた。夜の港。灯台の光。
彼のことを何も知らない。
知りたい、と思った。
それは——どういう種類の欲求なのだろう。
護衛のことをもっと知るのは、業務上有益だ。相互理解が深まれば、調査の効率が上がる。
違う。
そういう理由ではなかった。
理由がわからないまま、窓の外を見ていた。灯台の光が、一定の間隔で闇を切っている。




