情報屋
酒場に足を踏み入れるのは、たぶん人生で二度目だった。ガゼルとの面会場所は、港区の裏通りにあるその店だった。
昼間から営業している店だが、客の大半は冒険者と商人だった。カウンターの奥に半個室があり、そこにガゼルがいた。
大柄な男だった。白髪交じりの長い髪を後ろで束ね、顎に短い鬚がある。片目の近くに深い傷跡。だが目つきは鋭く、こちらを品定めするような視線を向けてきた。
テーブルの上には酒と、地図のようなものが広げられていた。
「ああ、調査局のお嬢さんか。ヴァルトから話は聞いてる」
ガゼルは椅子の背にもたれて、私を見た。それからトーマを見た。
「お前、まだ護衛なんかやってんのか」
トーマに向かって言った。声は気安く、旧知の口調だった。
「仕事だ」
トーマが短く返した。
「仕事ね。お前が長期契約の護衛とは珍しい。昔は短期の遺跡護衛ばかりやってただろう」
「状況が変わった」
「そうかい」
ガゼルの目が私に戻った。トーマを見て、私を見て。にやりと笑った。
「なるほどね」
何がなるほどなのかわからなかった。トーマの表情が一瞬だけ硬くなった。だがすぐに戻った。
「それで——記録室の場所を知っていると聞きました」
「知ってるよ。正確には、知っていた、だな。二十年前にこのあたりの地下を走り回ってた頃の記憶だ」
ガゼルはテーブルの地図を指した。デルガの地下区画の概略図だった。私が調査局で見る地図より遥かに詳細で、正規の調査では確認されていない通路や空間が書き込まれている。
「ここだ。工場区の最深部。ノードの直下に位置する」
指が示したのは、私たちが調査しているノード空間のほぼ真下だった。
「記録室、と呼ばれている。正確には俺がそう呼んでいるだけだが。中に入ったことがある」
「入ったことが?」
「冒険者時代だ。若い頃は無茶をした。深層に潜って、珍しい遺物を見つけては売っていた。記録室は——特別だった」
ガゼルは酒を一口飲んだ。
「壁一面に金属板と、回路を持つ遺物が保管されていた。保管庫と似ているが、規模が違う。そして中身も違う。お前さんが見つけた保管庫は、技術記録のアーカイブだろう? 記録室は違う。もっと——抽象的なものが残されている」
「抽象的?」
「図面だ。ネットワーク全体の構造図のようなもの。俺には読めなかったが、何かの設計図だということはわかった。街一つでは収まらない規模の」
私の心臓が速くなった。
「ネットワークの概念図。大陸規模のインフラの設計図——」
「かもしれない。確認はしていない。当時は金になるかどうかしか考えていなかったからな。金属板は持ち出せなかった。重すぎるし、数が多すぎる」
ガゼルは地図の上に指で経路を描いた。
「ここからここへ。通路が狭い区間が二箇所ある。それから、C級以上の魔獣が棲みついている可能性がある。二十年前にはいなかったが、魔素濃度が高い場所には魔獣が集まる」
「経路を教えていただけますか」
「金と引き換えだ」
ガゼルはテーブルに両手を置いた。商談の姿勢だ。
「調査局の予算から出す。ヴァルトに承認を取っています」
「ヴァルトは渋いからな。まあいい。——もう一つ、忠告してやる」
ガゼルの目が真剣になった。
「ここには面白いものがある。だが面白いものには、面倒なものがついてくる。お前さんが記録室で見つけたものは、軍が欲しがるだろう。ネットワークの制御技術——そういうものがあるとすれば、国家間の力のバランスを変える可能性がある」
「それは——」
「俺は遺物を売って生きてきた人間だ。遺物が金になるのは、欲しがる奴がいるからだ。軍も商人も学者も、欲しいものは同じさ。力になる知識。ただし使い方が違う」
ガゼルは地図を折り畳んで、私に渡した。
「地図は渡す。金はヴァルト経由で。もう一つ——」
ガゼルがトーマを見た。
「お前、この嬢ちゃんを守れよ。記録室の周辺は、俺が潜った頃より確実に危険度が上がっている。魔素濃度が上がれば、魔獣も増える」
「わかっている」
「わかってるならいいが。——なあトーマ、お前昔より顔が柔らかくなったな」
トーマは答えなかった。
「まあいい。気をつけろ」
ガゼルは酒を飲み干し、椅子から立ち上がった。大柄な体が半個室に影を落とす。
「面白い時代だ。千年前の遺物が、今になって世の中を動かす。俺みたいな商人には商機だが、お前さんみたいな学者には——大変だろうな」
そう言って、ガゼルは酒場を出ていった。
酒場を出た。
午後の日差し。港区の通り。
地図を持っていた。記録室への経路。ガゼルの記憶に基づく、二十年前の地下地図。
「トーマさん、ガゼルさんとはどういう関係ですか」
「遺跡護衛の仕事で何度か顔を合わせたことがある。向こうは元冒険者で、遺物の取引をしている」
「親しそうに見えました」
「……顔見知り、程度です」
トーマの声は平静だったが、ガゼルの「顔が柔らかくなった」という言葉に対して何か思うところがあったのかもしれない。
私はガゼルの最後のやり取りを思い返した。ガゼルが私を見て、トーマを見て、にやりと笑った。「なるほどね」と。
何がなるほどだったのだろう。
トーマが護衛の仕事をしていることに対する感想だろうか。長期契約が珍しいという話の流れだから、そういう意味だろう。
それ以上は考えなかった。
局舎に戻り、ヴァルトに報告した。ガゼルから入手した地図。記録室の位置。経路の情報。
「記録室への降下は三日後だ。準備を進めろ」
「軍のオブザーバーは?」
「同行する。レーヴェンが直接来るかもしれん」
軍の人間が記録室に入る。ネットワークの概念図を見る。制御技術の情報に触れる。
胸の中で反発が膨らんだが、飲み込んだ。調査を進めなければ始まらない。記録室に何があるのかを確認し、記録する。それが先だ。
「セドリックにも連絡します」
「ああ。それと——護衛を増員するか」
「トーマさん一人で十分です」
言ってから、その言葉の確信の強さに自分で驚いた。護衛増員の必要性を検討もせず、即答した。
合理的な判断だ。深層に対応できる護衛はデルガに限られている。そしてトーマは、すでにノード空間の構造を熟知している。別の護衛を入れるより、彼一人の方が効率がいい。
合理的な判断だ。
——本当に?
「では、そのように」とヴァルトが言った。
局舎を出て、いつもの道。
地図を鞄にしまって、歩きながら考えた。記録室。ガゼルの言う「ネットワーク全体の構造図」。もしそれが本物なら、ノードネットワークの全体像が見える。デルガだけではない、大陸規模のインフラの設計図。
軍が欲しがるのは当然だ。だが軍に渡す前に、記録の客観的な保存を確保しなければならない。原本は調査局。写しのみ共有。学術的公表の自由。
「あなたの仕事を優先してください」
トーマがそう言ったのは昨日だ。
隣を歩く彼の横顔を、ちらりと見た。
夕暮れの光が彼の顔を照らしている。目元の古い傷。いつもの無表情。だが最近、その無表情の下に何があるのか気になることがある。
気にする理由はない。
「また明日」
「おやすみなさい」
いつもの別れ。いつもの道。
宿に帰って、ガゼルの地図を広げた。記録室への経路を確認する。
指で経路を辿りながら、ガゼルの最後の言葉を思い出した。
「全ての遺物は繋がっている」。
もしそれが本当なら——港区地下遺跡も、沿岸遺跡も、工場区の保管庫も、全てが一つのネットワークの断片だったことになる。私が半年かけて調べてきたものの、全体像が見える。
地図の上に、まだ知らない線が何本も走っているはずだった。




