軍の影
嫌な予感は、玄関に立つ軍服の男を見た瞬間に当たった。軍情報部の将校が調査局を訪れたのは、報告書を本局に上げてから一週間後のことだ。
名前はレーヴェン少佐。三十代後半の痩せた男で、軍服の上に灰色の外套を羽織っている。目が鋭く、話し方は穏やかだが、その穏やかさには計算が透けて見えた。
ヴァルトの執務室で、三人で向き合った。私、ヴァルト、レーヴェン。トーマは廊下で待機していた。
「メイラ調査官。ノードネットワークの発見は、国家にとって重要な意味を持ちます」
レーヴェンは報告書の写しを手に持っていた。私の報告書だ。本局から軍情報部に共有されたのだろう。
「文明規模のインフラが、千年を経て一部機能している。これは学術的な発見であると同時に——安全保障上の関心事でもあります」
「安全保障上の関心、とは」
「旧文明のネットワーク技術が現存する場合、それが何らかの形で再活性化する可能性がある。あるいは、その技術が他国——神聖国家を含む——にとって戦略的価値を持つ可能性がある。いずれにせよ、軍が状況を把握しておく必要があります」
論理的だった。反論しにくい形で組み立てられている。
「調査データの共有を希望します。メイラ調査官の報告書の写し、スケッチ、測量データ。今後の調査計画も含めて」
「データの共有については、調査局の規定に従います」
ヴァルトが割って入った。
「軍情報部への提供は本局の承認が必要だ。私の判断ではない」
「もちろん。正規の手続きを経ます。ただ、今後の調査に軍からも人員を同行させたい。オブザーバーとして」
オブザーバー。見学者。だが実態は監視だろう。軍が調査の現場に入り、データの選別を——
「科学調査に軍が入ると、記録の客観性が損なわれます」
声に出していた。ヴァルトが微かに眉を上げた。
レーヴェンは笑った。穏やかな笑み。
「記録の客観性は尊重します。軍は調査の妨げにはなりません。ただ、国家の安全に関わる情報がある場合には、適切な管理をお願いしたい」
「適切な管理」。その言葉の意味は、データの選別だ。軍にとって都合の悪い情報は「管理」の名の下に隠される。
だがここで強く反論しても、状況は変わらない。軍情報部が動いている以上、本局の判断はヴァルトにも私にも覆せない。
「……承知しました。ただし、調査記録の原本は調査局が保管します。共有するのは写しのみ。そして、学術的な公表について軍が制限を加えないことを条件とします」
レーヴェンは少し考えてから頷いた。
「検討します」
検討する。承諾ではない。だがこの場ではこれ以上押せなかった。
レーヴェンが去った後、ヴァルトが溜息をついた。
「面倒だと言っただろう」
「はい」
「お前の条件は正しい。だが軍が『検討する』と言ったら、半分は拒否と同じだ。覚悟しておけ」
「……はい」
局舎を出た。
夕暮れの坂を下る。トーマが隣を歩いていた。
軍の介入に対する苛立ちが、まだ胸の中で燻っていた。旧文明の記録は、千年前の人々が残した知識だ。保管庫の金属板は、文明の終焉を予感した人々が、それでもなお残そうとした記録だ。
それを「国家安全保障上の関心」で管理する。利用価値で選別する。千年前の意志を、現代の軍事的な枠組みに押し込める。
「——記録は記録として残すべきで、利用価値で選別するものじゃない」
また口に出していた。帰り道にトーマに愚痴をこぼす、いつもの習慣。
「旧文明の人たちが金属板を刻んだのは、知識を残すためです。誰かが軍事利用するためじゃない。その意志を守るのが、調査官の仕事のはずなのに——」
言葉が詰まった。悔しさと苛立ちが混じって、うまく整理できない。
「軍が入ると、調査の方向性が歪む。『国家にとって価値のあるデータ』だけが残されて、『学術的に重要だが軍事利用できないデータ』は軽視される。記録の客観性が——」
「あなたの仕事を優先してください」
トーマが言った。
「安全面は私が引き受けます。軍が入ろうと、調査の現場では——あなたが何を記録するかは、あなたが決めることです」
私は足を止めた。
トーマも止まった。
夕暮れの通りで、二人で立っていた。
彼の言葉が、ただの業務上の発言ではなかった。少なくとも、私にはそう聞こえた。
護衛として安全を守る。それは彼の仕事だ。だが「あなたが何を記録するかは、あなたが決める」——それは、私の仕事の意義を認めてくれている言葉だ。
記録の客観性。調査官としての信条。それを、彼が理解してくれている。
いつもより長く、立ち止まっていた。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。苛立ちが和らいだわけではない。だが孤立感が薄れた。軍の介入に一人で向き合っているのではない。少なくとも一人、私の仕事を理解してくれている人がいる。
歩き出した。
坂を下りながら、ヴァルトが最後に言ったことを思い出した。
「軍が動いた以上、新しい情報が要る。ガゼルという名を知っているか」
知らない名前だった。
「遺物の闇市場に通じた情報屋だ。記録室の場所——お前が探しているネットワークの中枢に近い施設——を知っている可能性がある。軍情報部も彼を使っている」
「闇市場の情報屋を?」
「相手を選んでいられる状況じゃない。明日、会う手配をする」
ガゼル。闇市場のフィクサー。
軍も使う情報屋。調査局も使わざるを得ない。きれいな手段だけでは、もう進めない段階に来ている。
道が分かれた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
宿に戻り、ノートを開いた。明日の予定。ガゼルとの面会。軍のオブザーバーへの対応策。ノルへの追加データの提供。
ペンを走らせながら、トーマの言葉を思い出した。
「あなたの仕事を優先してください」
何度も繰り返し聞いた言葉に似ている。「承知しました」「問題ありません」「仕事ですから」。だが今日の言葉は、それらとは少し違っていた。
何が違うのか、まだ言葉にできなかった。




