復帰と記録
四日間、執務室が静かだった。装備の手入れの音がない。トーマが復帰したのは、怪我から四日目の朝だった。
局舎の門前で待っていた。左肩の包帯は取れていて、革鎧を通常通りに装着している。
「おはようございます。肩の具合は」
「問題ありません。治療師から許可が出ました」
腕を回して見せた。動きは滑らかだった。
だが私の目は、彼が意識していない瞬間を捉えていた。左腕を下ろすとき、肩の動きが右に比べてわずかに遅い。本人が気づいていないほど微かな差だ。完全には戻っていない。
四日前なら、気づかなかっただろう。
今は気づく。
彼の左肩を、無意識に見ている。いつから見ているのか、自分でもわからない。崩落のとき——いや、もしかしたもっと前から。
見ていることに気づいて、視線を外した。
深層調査を再開した。
崩落箇所を迂回するルートで、再度ノード空間にアクセスする。東方向の経路から迂回し、ノードの反対側に出る。
通路を歩きながら、壁面の回路パターンを確認した。崩落後に変化したパターンは、四日経った今も元に戻っていなかった。ノードの応答は一時的なものではなく、状態の変更として維持されている。
「まだ変わったままです」
壁面に携帯灯を近づけた。スケッチブックと見比べる。
「ノードは崩落を検知して経路を変更し、その変更を保持している。自律的な応答です。外部からの操作なしに、システムが自分で判断して動作を変えた」
記録を取り直した。変化後のパターンを正確に描く。
トーマは通路の安全を確認しながら、少し離れた位置を歩いていた。先行して足元と天井を確認し、安全を確認してから私を通す。いつもの手順だ。
だが今日は、彼の動きを以前より正確に把握している自分がいた。
彼が立ち止まる位置。壁に手をつく動作。足元を確認するときの視線の動き。左肩を庇っていないか——いや、もう庇っていない。動きは正常に戻っている。
なぜ、こんなに見ているのだろう。
護衛の安全を確認しているのだ。彼が負傷して調査が中断したばかりだ。護衛が万全な状態でなければ、深層調査は危険だ。だから彼の動きを確認している。
——説明が必要になった時点で、何かが変わっている。
その認識が、胸の奥にひっそりと落ちた。
ノード空間に到着した。
活性回路の青白い光が空間を満たしている。四日前と同じ光。だが回路パターンは確かに変化している。
今日の目的は、ノードのネットワーク接続を再確認することだった。崩落で西方向の経路が塞がれた。残る二つの経路——東方向と上方向——の接続状態を確認する。
東方向の経路は港区地下遺跡の主幹路に繋がっている。壁面の回路パターンを辿ると、情報の流れが見えた。ノードから東へ、主幹路を通って結節点へ。結節点から地表に近い層へ。沿岸遺跡からのデータもここに合流している。
上方向の経路は保管庫を経由している。保管庫自体は情報の「保管」だが、経路としてはノードとより浅い層を繋いでいる。
西方向——崩落で塞がれた経路。回路パターンの変化から、この経路がどこへ向かっていたのかを推測できないか。
壁面のスケッチを重ね合わせた。
「三方向の経路のうち、二つはデルガの中で完結している。東は港区、上は工場区。三つ目の西方向だけが——街の外に向かっている可能性がある」
記録した。
そして、東と上の経路のパターンを精密に描いた後、壁面全体の回路構造を俯瞰する図を描いた。
描き終えたとき、全体像が見えた。
デルガの地下に、少なくとも三つのノードが存在する可能性がある。一つはここ。残りの二つは、東と西の経路の先にあると推測される。そしてこの三つのノードを繋ぐネットワークは、一つの都市の施設ではない。文明規模のインフラだ。
報告書にまとめた。ノードの応答機能の確認。ネットワーク接続の再確認。三つ以上のノードの存在仮説。文明規模のインフラの示唆。
この報告は、調査局の上層部に上がることになる。ヴァルトがそう言っていた。
帰路を歩きながら、トーマが隣にいることを意識していた。
彼の歩く速度。足音の大きさ。呼吸のリズム。左肩の動き。
以前は、彼が隣にいることを「護衛がいる」としか認識していなかった。名前と牌ランクを記録して、あとは遺跡のことを考えていた。
今は違う。
彼がどこにいるか、何をしているか、以前より正確に把握している。無意識に。
これは「護衛の安全を確認している」のだと説明した。彼が負傷した後だから。調査の継続のために。合理的な行動だ。
だが合理的な行動なら、なぜ「説明」が必要なのだろう。
地上に出た。夕暮れの光。
ヴァルトに報告した。崩落箇所の迂回ルートの確認。ノードの状態。ネットワーク構造の分析。
ヴァルトは報告書を読み終えた後、長い時間黙っていた。
「メイラ」
「はい」
「この報告は本局に上げる。本局から上層部——おそらく情報局にも共有される。大きな話になる」
「承知しました」
「そして——」
ヴァルトが書類を一枚、机に置いた。
「軍情報部から、協力の申し入れが来ている」
私は書類を見た。反宗教国家軍情報部。差出人の名前は知らない将校だった。
「ノードネットワークの発見に、国家安全保障上の関心がある。調査データの共有を希望する」
「軍が、ですか」
「文明規模のインフラだ。軍が関心を持つのは当然だろう。——面倒ごとが増える、と言っただろう」
ヴァルトの声に疲労が滲んでいた。
科学調査に軍が介入する。記録の客観性が損なわれる。利用価値でデータが選別される。
胸の奥で、小さな反発が芽生えた。
「記録は記録として残すべきです。利用価値で選別するものじゃない」
声に出ていた。ヴァルトが少し目を見開いた。
「……正論だ。だが正論だけでは通らない。対応策を考える」
局舎を出た。
夕暮れの坂を下りながら、軍の介入への苛立ちが込み上げていた。旧文明の記録は、千年前の人々が残した知識だ。それを軍事的な観点で選別するのは——
「記録は記録として残すべきで、利用価値で選別するものじゃない」
さっき言ったことを、トーマに向かって繰り返していた。帰り道に仕事の愚痴をこぼすのは、いつの間にか習慣になっていた。
「旧文明の人たちは、知識を残すために金属板を刻んだんです。軍事利用のためじゃない。記録の意味が変わってしまう」
トーマは黙って聞いていた。
しばらくして、言った。
「あなたの仕事を優先してください。安全面は私が引き受けます」
短い言葉だった。
だがその言葉に、いつもより長く立ち止まった。
軍がどう動こうと、護衛として安全を守る。調査官は調査に集中すればいい。そういう意味だ。業務の範疇の発言だ。
なのに。
その言葉が、ただの業務報告よりも深い場所に届いた気がした。
「……ありがとうございます」
「いえ」
道が分かれた。いつもの場所。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
宿に戻った。ノートを開いた。
明日からの作業計画。軍情報部への対応。ノルへの報告。セドリックとの分担。
書きながら、ペンが止まった。
トーマの歩く速度、足音、呼吸のリズム、左肩の動き。
なぜ、こんなに正確に覚えているのだろう。
護衛の安全確認。合理的な行動。
——説明が必要になった時点で、何かが変わっている。
その言葉を、心の中でもう一度繰り返した。何が変わったのかは、まだわからなかった。




