崩落
崩落は、何の前触れもなく起きた。
ノード空間の更に奥——西方向の経路を辿っていたときだった。活性回路の青白い光に照らされた通路を、トーマが先行して進んでいた。私は三歩後ろで壁面の回路パターンを記録しながら歩いていた。
足元が軋んだ。
「止まって——」
トーマの声と、天井の崩落が、同時だった。
轟音。粉塵。石材と接合材の破片が降り注ぐ。視界が白く霞んだ。
体が引っ張られた。
後方に。強い力で、腰を掴まれて引き倒された。地面に叩きつけられる直前に、誰かの腕が頭を支えた。
衝撃。粉塵。石が砕ける音。
それから——静寂。
耳鳴りがしていた。粉塵が喉に入り、咳き込んだ。目を開けたが、何も見えない。携帯灯がどこかに落ちたのだろう。暗い——いや、完全な闇ではない。活性回路の光が、粉塵越しに微かに見えた。
「——大丈夫ですか」
トーマの声だった。近い。すぐ頭の上から聞こえる。
私の上に覆いかぶさっていた。天井からの落下物を、体で受け止めていた。
「はい——はい、大丈夫です」
声が震えていた。トーマの腕が私の頭の横にあった。もう片方の手は壁を掴んでいる。私を守る形で、体を覆っていた。
粉塵が少し収まった。活性回路の光が戻ってきた。
見えた。
トーマの左肩に、石材の破片が当たっていた。革鎧の肩部分が凹んでいる。血が滲んでいた。
「怪我を——」
「問題ありません。動けますか」
「はい。でもあなたの肩——」
「後で確認します。まず、ここから離れましょう」
トーマが立ち上がった。左肩を微かに庇う動作があったが、すぐに体勢を整えた。
周囲を確認する。崩落は通路の一区間で起きていた。前方が塞がれている。天井材と壁材が通路を埋めていた。後方——ノード空間への帰路は、辛うじて通れる。
「前方は通行不能です。後方から戻りましょう」
「はい」
立ち上がった。足が震えていた。膝に力が入らない。恐怖だ。天井が崩れてきた瞬間の、あの圧倒的な無力感。何もできなかった。
携帯灯を探した。粉塵の中で手を伸ばし、落ちた灯りを拾い上げる。
光を当てた。トーマの左肩。革鎧が凹み、肩の布地が裂けている。傷口が見えた。深くはないが、出血している。
「止血します」
「後でいい。まず安全な場所まで——」
「今やります」
自分の声が硬かった。手が震えているのを意識しながら、鞄から応急処置の布を取り出した。傷口に布を当て、きつく巻く。トーマは動かなかった。
巻いているとき、自分の手が震えていることが、はっきりわかった。布を結ぶ指先が滑る。何度かやり直した。
「なぜ庇ったんですか」
口から出た言葉だった。
考えて言ったのではない。手が震えていて、指先が滑って、うまく結べなくて、その焦りの中から出た言葉だった。
「護衛ですから」
トーマの声は平静だった。いつもと同じ声。いつもと同じ答え。
護衛だから。依頼主を守るのが仕事だから。
わかっている。わかっている。
だが今、その説明に対して——初めて——苛立ちに似たものを感じた。
護衛だから庇った。正しい。正しいに決まっている。彼は護衛だ。私は依頼主だ。それが契約の関係だ。
なのに。
この苛立ちは何だ。
「私の不注意です。すみません」
布を結び終えた。声を平静に戻そうとしたが、うまくいったかどうかわからない。
「いえ。崩落の予測は困難です。調査官の責任ではありません」
「でもあなたが——」
「軽傷です。動けます。戻りましょう」
トーマが通路を戻り始めた。左肩を僅かに庇っている。その動作が——小さな動作が——目に焼きついた。
ノード空間に戻った。活性回路の光が二人を照らす。
ここは安全だった。崩落はノードから離れた通路で起きたもので、ノード空間自体は損傷していない。
だが不思議なことがあった。
崩落の直後、壁面の回路パターンが変化していた。
私はそれに気づいた。ノード空間の壁面に描いたスケッチと、今見えているパターンが微かに異なっている。回路の光の強弱が変わっている。一部の経路が、崩落前より明るくなっていた。
「ノードが反応した」
私は壁面に近づいた。
「崩落の衝撃を——外部刺激を感知して、回路のパターンが変わった。フィードバックだ。ノードは単なる中継点じゃない。外部の変化に応答する機能を持っている」
スケッチブックを取り出した。手がまだ震えていたが、描かなければならない。この変化を記録しなければ。
回路パターンの変化を描いた。崩落前のスケッチと比較する。確かに異なっている。特に、崩落が起きた方向——西方向の経路に近い壁面で、変化が顕著だった。
「ノードが、崩落を検知した。そして経路の状態を変更した。損傷した経路を迂回する——あるいは、損傷を報告する信号を送っている可能性がある」
手が震えたままスケッチを続けた。線が少し乱れている。いつもより正確さに欠ける。
だがこの記録は、後からは取れない。ノードの応答は一時的なものかもしれない。今この瞬間を記録しなければ——
「メイラさん」
トーマの声。
「記録はここまでにしましょう。帰路を確認します」
私はスケッチブックを閉じた。彼が正しい。崩落が続発する可能性がある。安全な場所に戻るのが先だ。
だが閉じる直前に、もう一度壁面を見た。ノードの回路が微かに明滅している。千年前のシステムが、今この瞬間、崩落に反応して動いている。
生きている。
帰路は慎重に進んだ。
崩落の影響で、一部の通路に微細な亀裂が入っていた。トーマが一つ一つ確認しながら進む。左肩を庇う動作が、進むにつれて大きくなっていた。
何も言わなかった。痛みを口にしない。それが彼のやり方だった。
保管庫に戻り、セドリックと合流した。セドリックは崩落の音を聞いて心配していた。
「大丈夫ですか? すごい音がしました」
「通路が一箇所崩れました。トーマさんが——怪我をしています」
「怪我?」
トーマが「軽傷です」と言った。
軽傷ではない。応急処置の布が赤く染まっていた。傷は浅いと言っていたが、出血の量からすると、筋肉にまで達している可能性がある。
「局舎に戻って治療を受けてください」
「問題ありません。まだ——」
「これは指示です」
自分の声が、思ったより硬く響いた。
トーマが一瞬、目を見開いた。私が彼に「指示」をしたのは初めてだった。いつもは「お願いします」か「いかがでしょう」だ。
「……承知しました」
地上に出た。
ヴァルトに報告した。崩落の状況。トーマの負傷。ノードの応答反応。
「深層調査は一時中断。トーマの回復を待つ」
「はい」
「崩落の原因は」
「構造材の経年劣化です。千年の歳月で接合材が限界に達していた区画だったと思われます」
「人的要因はないか」
「ありません」
ヴァルトは頷いた。
「無理するなよ」
それが私に対する言葉なのか、トーマに対する言葉なのか、判断がつかなかった。
局舎を出た。
トーマは治療に向かった。ギルド支部に付属する治療施設で、左肩の傷を処置してもらう。
私は宿への道を歩いた。一人で。
トーマがいない帰り道は久しぶりだった。
歩きながら、左肩に石材の破片が当たった瞬間を思い出した。彼が私の上に覆いかぶさっていた。天井からの落下物を体で受けた。私を守るために。
「護衛ですから」
その答えが、頭の中で繰り返された。
護衛だから。仕事だから。契約だから。
正しい。正しい答えだ。
なのに苛立ちを感じた。その苛立ちを、「私の不注意で怪我をさせた責任感」として処理した。彼が怪我をしたのは私の近くにいたからだ。私がいなければ、彼は崩落を避けられたかもしれない。だから私は責任を感じている。
そういうことだ。
宿に着いた。灯りをつけた。
ノートを開いたが、何も書けなかった。
左肩を庇う動作が、目の前にちらついている。あの小さな動作。痛みを隠そうとして、隠しきれていない動き。
私はスケッチブックを開いた。今日の記録を見返す。ノードの応答反応。回路パターンの変化。
だが目が文字を追わなかった。スケッチの線が乱れている。手が震えていたときの記録。
彼の肩に触れた——いや、傷に布を巻いただけだ。応急処置だ。
ペンを置いた。
窓の外を見た。夜の港。灯台の光が、一定の間隔で闇を切っている。
彼の左肩が目に焼きついて、消えなかった。




