深層への階段
深層の空気を思い出すだけで、肌がぴりぴりした。あの青白い光の先に、まだ誰も見ていないものがある。深層部への調査は、入念な準備の後に始まった。
保管庫の下層で確認されたノードの環境は、これまでの調査区画とは次元が違う。魔素濃度が高く、長時間の滞在は体調に影響する。トーマが護衛増員を進言し、ヴァルトがそれを承認した。だが実際には、深層に対応できるランクの冒険者がデルガには限られている。結局、トーマ一人の護衛で臨むことになった。
代わりに、滞在時間に厳格な制限を設けた。一回の降下で最大三時間。頭痛や目眩などの魔素酔いの症状が出たら即座に撤退。
「準備はいいですか」
「はい」
保管庫を通り抜け、封印区画を抜け、下層への階段を降りる。
空気が変わった。
温度が上がり、肌がぴりぴりする。魔素が濃い。呼吸のたびに、胸の奥に微かな圧迫感がある。前回降りたときと同じ感覚だが、今回はそこから更に奥へ進む。
C級魔獣のいた空間を通過した。棘背蜥蜴の死骸は回収済みだ。壁面の活性回路が青白く光っている。千年の歳月を経てなお生きている光。
空間の奥に、更に下へ続く通路があった。前回は魔獣との戦闘で確認できなかった場所だ。
トーマが先行した。通路は前の階段よりもさらに狭く、傾斜が急だった。壁面の回路密度が目に見えて上がっていく。活性回路の光が通路全体を淡く照らし、携帯灯がなくても輪郭がわかるほどだ。
「ここから先は、遺跡の性質が変わります」
私は壁面に手を伸ばしかけて、止めた。活性回路に触れるのは危険だ。微量とはいえ魔素が循環している。
「居住・保管ではなく、インフラそのもの。ネットワークを維持するための基盤部分です」
通路が広くなった。天井が高くなり、壁面の回路が一層密になる。
そして——壁面だけではなく、床にも天井にも回路が走っていた。
上下左右、すべての面が回路に覆われた通路。光の管の中を歩いているようだった。青白い光が足元から顔を照らし、影が奇妙な方向に伸びる。
「すごい」
声が漏れた。
この構造は、回路そのものが通路を形成している。石材の壁に回路を刻んだのではなく、回路を通すために通路を作った。主客が逆転している。
スケッチブックを開いた。描く。回路の密度、配置パターン、発光の強弱。手が速くなる。
測定器を取り出した。魔素濃度を計る。針が振れた。高い。保管庫の下層よりも更に高い。
——針が振り切れた。
「メイラさん」
トーマの声。
「測定器の上限を超えました。濃度が高すぎる」
「身体の状態は」
「大丈夫です。まだ——」
頭の奥に、鈍い痛みが走った。
こめかみの辺りに、重いものが乗っているような圧迫感。魔素酔いの初期症状だ。
大丈夫だ。まだ記録を取れる。あと三十分あれば——
「休憩しましょう」
トーマが言った。
「まだ大丈夫です。記録が——」
「体調管理も調査の一部です」
譲らない声だった。穏やかだが、動かない。護衛として依頼主の安全を守る。それが最優先だ。
「……はい」
不承不承、ペンを止めた。通路の壁際に腰を下ろす。
トーマが水筒を差し出した。
タイミングが正確だった。私が座って、呼吸を整えて、頭痛が少し引いたところで。渡すのが早すぎると「大丈夫です」と断られるから、少し間を置いた——かのような。
水を飲んだ。冷たい水が喉を通る。頭痛が少し和らいだ。
「ありがとうございます」
水筒を返しながら、ふと思った。
この人はいつも見ていたのだ。
私が頭痛を感じるタイミング。水分を欲するタイミング。疲労の兆候。体調の変化を、彼は私自身が気づくより先に察知している。
護衛だから当然か。依頼主の体調管理は護衛の仕事だ。遺跡護衛の経験が長い人なら、調査官の体調変化のパターンを把握しているだろう。
——当然だ。護衛だから。
その処理に、一瞬の遅れがあった。
いつもなら即座に「仕事だから」と納得する。今日は一瞬だけ、別の可能性が頭をよぎった。だが、よぎっただけだ。すぐに消えた。
「五分で戻ります」
「十分にしましょう」
「……わかりました」
十分間、壁にもたれて目を閉じた。活性回路の光が瞼越しに青白く見えた。
千年前の光。生きている回路。この通路のさらに奥に、ノードがある。
休憩後、更に奥へ進んだ。
通路が開けた。
その先に広がっていたものを見たとき、私は立ち止まった。
広い空間だった。結節点と同じくらいの規模。だが壁面の回路密度は、結節点の十倍以上だ。床も天井も壁もすべてが回路で覆われ、青白い光が空間全体を満たしている。
そして——その光が、呼吸しているように見えた。
一定のリズムで、光の強弱が波打っている。回路に流れる魔素の量が変動しているのだ。
「生きている」
私は呟いた。
「この回路は——生きています。まだ機能している」
壁面に近づいた。回路のパターンを観察する。ルーペを当てる。
ここの回路は、これまで見たどの区画のものとも異なる構造だった。主幹路の伝達系でもなく、新区画の処理系でもなく、沿岸遺跡の観測系でもない。
すべてが混在していた。
伝達系の直線と、処理系の曲線と、観測系の波形が、複雑に絡み合って一つの構造を形成している。それが三次元的に重なり、壁面から天井から床から、あらゆる方向に走っている。
「中継点です」
声が震えた。
「ネットワークの中継点——ノードです。情報を受け取り、処理し、別の場所に送る。すべての機能がここに集約されている。この空間自体がノードだ」
スケッチブックに手が伸びた。描かなければ。この構造を記録しなければ。
描き始めた。手が震えている。興奮のためだ。
回路のパターンを追う。接続点を探す。どこから来て、どこへ行くのか。デルガの地下に張り巡らされたネットワークの、交差点。
「これは一つの中継点に過ぎません。他にもある。デルガの地下だけじゃなく——他の都市にも同じようなノードがある可能性がある」
私は壁面に向かって早口で喋っていた。
「ネットワークの規模が違う。一つの街の施設じゃない。これは——大陸規模のインフラかもしれない」
三時間の制限が近づいていた。トーマが「残り三十分です」と声をかけた。
名残惜しかったが、記録は十分に取れた。ノードの存在を確認した。ネットワークの中継点。生きている回路。
帰路、階段を上りながら、頭の中でネットワークの全体像を想像した。デルガの地下にノード。そこから伸びる主幹路が、沿岸遺跡や保管庫や、まだ見つかっていない施設に繋がっている。そしてそのネットワークは、デルガの外にも延びている。
他の都市にもノードがあるなら。大陸を横断するネットワーク。文明規模のインフラ。
階段を上がったとき、頭痛はほとんど引いていた。だが目の奥に、青白い光の残像が残っていた。
地上に出た。午後の日差し。港の音。
トーマが隣を歩いていた。
さっき、水筒を差し出してくれたとき。タイミングが正確だったこと。あの一瞬の遅れ——「護衛だから当然」と処理するまでの、ほんの僅かな間。
もう消えていた。日差しの中を歩いていれば、地下の青白い光も、手首の水筒の温度も、遠くなる。
だが消えるまでの時間が、以前より少し長くなっている気がした。




