永続契約
ヴァルトが報告書のページをめくるたびに、私は椅子の端で指を組み替えていた。意図的アーカイブ。旧文明の終焉予期。C級魔獣。ノードの可能性。自分で書いた報告書なのに、上司が読んでいる間は緊張する。
ヴァルトは読み終えた後、窓の外を見ながら長い時間黙っていた。
「メイラ」
「はい」
「この発見は、本局に報告を上げる。追加の予算と人員を申請する。お前の調査は——本局が注目することになる」
「承知しました」
「それと同時に、面倒ごとも増える。覚悟しておけ」
面倒ごと、の意味はまだよくわからなかった。だが、ヴァルトの声に微かな疲労の色が滲んでいたのは気になった。
報告書の提出から三日後、護衛契約の見直しが行われた。
調査の長期化と危険度の上昇に伴い、護衛体制を強化する必要がある。ヴァルトが言った。
「現行の長期契約を、永続契約に切り替える」
永続契約。期間を定めない継続配置。調査が終了するか、契約の解除が双方から申し出られるまで、護衛冒険者は調査官に専属で配置される。
事務的な手続きだ。書類の変更。契約条件の更新。報酬体系の見直し。
ヴァルトが書類を用意していた。私の名前とトーマの名前が既に記入されている。
「トーマ、永続契約に移行する。条件は現行から変更なし。拒否する権利はある。確認は?」
トーマは書類に目を通した。短い時間だった。
「問題ありません」
署名した。
ペンを置く動作が、わずかに遅かった。署名欄に名前を書き終えてから、ペンを紙の上に戻すまでに、一拍の間があった。
ペンの置き方。そんなものに注意を払う理由はない。契約書の署名は事務手続きだ。ペンを置くタイミングに意味などない。
私も署名した。「依頼主」の欄に「メイラ」と書き、所属と日付を記入する。
「契約成立だ。これで正式に、調査終了まで護衛配置が確定する」
ヴァルトが書類を綴じた。
「次の調査対象が決まり次第、通達する。港区地下遺跡の深層部——ノードネットワークへの接続点。保管庫の下層で確認された高魔素環境の調査だ」
「承知しました」
深層部の調査。ノードネットワーク。ついにそこまで行く。
胸が高鳴った。だが今日は、その興奮を表に出さなかった。ヴァルトの前だからだ。報告の場では冷静に。興奮はスケッチブックに向かうときに出せばいい。
昼過ぎ、ギルドに寄った。
永続契約の書類をギルド支部に提出する必要がある。トーマのランクと配置状況の更新手続きだ。
ギルド支部はデルガの中心部にあった。港区と工場区の間、丘陵の中腹に建つ大きな建物。一階は受付と掲示板、二階以上は会議室と訓練場。銀牌以上の専用フロアもあると聞いている。
受付で書類を提出し、更新手続きの完了を待つ。待合のベンチに座っていると、トーマの姿が目に入った。彼は受付の向こう——ギルドのロビーで、誰かと話していた。
背の高い男だった。日焼けした肌、短い暗い髪。軽装の革鎧に、魔物素材の武器を複数携行している。目つきは鋭いが、笑うと人懐っこい顔になる。
トーマと同年代か、少し若い。二人の会話は距離が近く、砕けた調子だった。トーマが敬語を使っていない。旧知の相手だ。
「よぉ、トーマ。久しぶりじゃねえか」
男の声がロビーに響いた。
「カイ。デルガにいたのか」
「ちょっとな。素材の売却でデルガに寄った。お前こそ、護衛仕事か」
「ああ」
「何の護衛だ? 商人? 貴族?」
「遺跡調査官だ」
カイと呼ばれた男が、にやりと笑った。
「学者のお守りか。長くなりそうだな」
「……まあ」
「お前が護衛なんぞやるのも珍しいが、長期契約ってのはもっと珍しいぞ。よほど居心地がいいのか」
トーマが何か言いかけたが、カイが先に続けた。
「冗談だよ。学者先生の護衛は慣れてるだろ。心配するな」
「心配してない」
「じゃあ何で顔が硬いんだ」
「硬くない」
カイが声を上げて笑った。ロビーにいた数人の冒険者が振り返るほどの笑い方だった。
「変わらねえな、お前は。まあいいさ。飯でも食おうぜ。時間あるだろ」
「今は勤務中だ」
「うわ、真面目。いつ終わる?」
「依頼主が——」
トーマの視線がこちらに向いた。私が待合のベンチにいることに気づいたのだろう。
カイもこちらを見た。私を見て、トーマを見て、また私を見た。
「お、あの子が学者先生か」
「調査官だ。カイ、声が大きい」
「そうか? 普通だろ」
カイがこちらに歩いてきた。
「こんにちは。トーマの旧知でカイっていう。遺跡屋だ。護衛の仕事ぶりはどう? 不満があったら俺に言ってくれ、代わりに殴っておく」
人懐っこい笑顔だった。初対面の距離が近い人だ。リタに似ている。
「メイラです。不満はありません。とても助かっています」
「そりゃよかった」
カイはトーマを振り返った。
「聞いたか、トーマ。お褒めの言葉だぞ」
「……ありがとうございます」
トーマの声は平静だったが、カイは何か面白いものを見つけた顔をしていた。目が細くなっている。
「ま、お前に任せておけば安心だろ。じゃあ飯はまた今度だ。——メイラさん、うちの友人をよろしく」
「こちらこそ」
カイは手を上げて去っていった。ロビーの奥で他の冒険者に声をかけている。陽気な人だった。
トーマが戻ってきた。表情はいつもと変わらない。
「知り合いですか」
「ギルドの同世代です。カイは遺跡探索専門の冒険者で——少し声が大きい」
「楽しそうな人でした」
「……そうですね」
短い沈黙があった。トーマが何か言いたそうにしたが、結局口を開かなかった。
ギルドを出た。
午後の日差しの中、局舎への坂を上る。
永続契約が成立した。これで護衛体制は安定する。調査が続く限り——いつ終わるかわからない長い調査が続く限り——トーマはここにいる。
事務的な安心感があった。護衛の交代を心配しなくていい。現場を知っている人が隣にいる。それは調査の効率にとって大きい。
坂の上から港が見えた。入江を取り囲む灰白色の建物。船の帆柱。潮の匂い。
「次はノードネットワークの調査ですね」
「はい」
「深層部は危険度が上がります。今日みたいにC級魔獣が出るかもしれない。トーマさんの負担が増えます」
「問題ありません。それが契約の内容です」
契約の内容。そうだ。永続契約の書類に署名した。報酬と引き換えに、危険な環境での護衛を引き受ける。それが仕事だ。
「あの——」
私は足を止めた。
「カイさんが言ってましたね。『長くなりそうだな』って」
「ああ」
「長くなりそうです。この調査は」
「……承知しています」
「ご迷惑でなければいいのですが」
なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。永続契約はトーマ自身が署名したものだ。迷惑なら断る権利があった。彼は断らなかった。
「迷惑ではありません」
トーマが言った。
「この仕事は——性に合っています」
沿岸遺跡の焚き火の前で、同じ言葉を聞いた。「人を守る仕事が性に合っていた」。
その言葉の意味を、私はまだ正確に理解していないのだろう。
「では、また明日」
「はい。おやすみなさい」
いつもの別れ方。いつもの道。
宿に戻り、ノートを開いた。明日の作業計画。ノルへの金属板の追加提出。セドリックとの分担調整。深層調査の準備。
永続契約の書類のことを思い出した。トーマが署名したとき、ペンを置く動作に一拍の間があった。
あれは何だったのだろう。
考えても仕方がない。契約は成立した。調査は続く。護衛は隣にいる。
ペンを置いて、窓を開けた。夜の港の匂い。
次の調査対象は、ノードネットワークへの接続点。デルガの地下に眠る、千年前のインフラの中枢に近づく。
長い旅になる。
カイが笑って言った「長くなりそうだな」が、耳に残っていた。




