背中合わせ
保管庫の下層に、未知の空間があることに気づいたのは、偶然だった。
封印区画の奥の壁面を計測しているとき、床面に微かな隙間を見つけた。壁際の床材が一枚、周囲より五ミリほど低い。経年劣化で沈んだのかと思ったが、叩いてみると音が違った。
下に空洞がある。
ヴァルトに報告し、探索の許可を得た。床材を慎重に除去すると、下降する階段が現れた。急な傾斜で、携帯灯の光は底まで届かなかった。
セドリックは金属板の拓本作業があるため、保管庫で待機することになった。下層の探索は私とトーマの二人だけで行う。
「空気は動いています。ただし魔素濃度が高い。携帯灯の光が乱れるかもしれません」
トーマが階段の入口で空気を確認した。魔素濃度が高い環境では、携帯灯の光源が不安定になることがある。魔素が光の伝導に干渉するためだ。
「下りましょう」
トーマが先行した。
階段は狭く、急だった。トーマは大きな体を壁に寄せて降りていく。私は彼の後ろで、壁面に手をつきながら慎重に足を進めた。
十段、二十段。空気が変わった。温度が上がり、肌にぴりぴりする感覚が出てきた。魔素が濃い。呼吸をするたびに、胸の奥に微かな圧迫感がある。
階段が終わった。
広い空間が広がっていた。保管庫と同程度の広さだが、天井が高い。六メートル以上。そして——
壁面が光っていた。
微かな青白い光。回路構造が発光している。魔素を循環させることで、千年以上の歳月を経てもなお光を放っている。活性回路だ。
「ノードに近い」
私は呟いた。
ネットワークの中継点——ノード。港区地下遺跡の「交換局」で仮説として持っていた、ネットワークの接続点。それに近い環境だ。魔素濃度の高さが、それを示している。
だが今は記録よりも先に、安全の確認が必要だった。
トーマが空間の周囲を確認している。壁際を歩き、天井を見上げ、床面の状態を調べる。
「構造は安定しています。ただ——」
トーマが足を止めた。
「奥に何かいます」
私も足を止めた。
奥の闇から、微かな音が聞こえた。かさかさという、爬虫類の鱗が石を擦る音。
トーマが剣を抜いた。
「下がってください」
私は言われた通り、階段の入口まで後退した。携帯灯を持ったまま、奥を照らす。
光の輪の端に、何かが見えた。
鱗に覆われた胴体。体長二メートルほど。背面に黒い棘が並んでいる。棘の先端が微かに帯電し、青白い火花を散らしている。
棘背蜥蜴。
C級魔獣だった。
「トーマさん、棘背蜥蜴です。背面の棘は帯電します。接触すると——」
「知っています」
トーマの声は落ち着いていた。盾を前に構え、剣を低い位置に保っている。
棘背蜥蜴がこちらを向いた。全長の半分を占める長い尾が、床を叩く。威嚇だ。テリトリーに侵入者が来たことに気づいている。
C級魔獣との正面戦闘。トーマは銀牌5だ。C級を単独で処理できる実力はあるはずだが、閉所での戦闘は条件が悪い。逃げ場がない。
棘背蜥蜴が動いた。
低い姿勢のまま、驚くほどの速度で突進してきた。トーマが盾で受ける。衝撃音が空間に反響した。棘が盾の表面を擦り、火花が散る。
トーマが半歩後退し、剣で蜥蜴の首元を狙った。蜥蜴は身を捩って回避し、尾を振った。尾の一撃がトーマの盾に当たり、金属音が響く。
私は階段の入口で身を縮めていた。戦闘の邪魔をしてはいけない。護衛の仕事を護衛に任せる。それが調査官の正しい行動だ。
だが観察は止められなかった。
棘背蜥蜴の動きを見ていた。突進、回避、尾の攻撃。パターンがある。突進時に左に旋回する癖がある。旋回すると右側の棘が壁に近づき、帯電した棘が壁面の回路に干渉して——一瞬、火花が激しくなる。
右側の棘が帯電している。つまり右側面からの接近は危険だ。
「右側の棘が帯電してます、左から!」
声が出ていた。
トーマが動いた。
次の突進に合わせて左に回り込んだ。蜥蜴が左に旋回しようとした瞬間——旋回方向と逆からの攻撃。蜥蜴の動きが一瞬止まる。
トーマの剣が、棘のない首の付け根に入った。
正確な一撃だった。致命的ではないが、深く切り込んでいる。蜥蜴が悲鳴を上げ、体を捩って後退した。出血が床に散る。
もう一撃。トーマが追撃した。今度は脚の付け根。蜥蜴の動きが鈍り、体が傾いた。
三撃目で仕留めた。首の急所を正確に突く。蜥蜴が崩れ落ちた。棘の帯電が消え、暗い空間が静かになった。
トーマは息を整え、剣の血を拭った。
「終わりました」
「……はい」
私は階段から降り、空間に戻った。心臓が速い。戦闘を見ていた興奮ではない。恐怖だ。閉所でC級魔獣と護衛が戦っている間、私にできることは何もなかった。
——いや、一つだけあった。
「助かりました」
トーマが言った。
「え?」
「右側の帯電。気づいていませんでした。あの指示がなければ、右から回り込んでいたかもしれない」
「……観察するのが仕事なので」
口から出た言葉は、トーマがいつも使う「仕事ですから」に似ていた。
トーマは少し目を細めた。笑ったのだろうか。暗くてよくわからなかった。
棘背蜥蜴の死骸を調べた。C級魔獣が棲みつくほどの魔素濃度。この空間は、ネットワークの接続点——ノードに極めて近い。あるいはノードそのものかもしれない。
壁面の発光している回路を観察した。ノードネットワーク。この下に、さらに深い層がある可能性。
「セドリックに報告しなければ」
階段を上がりながら、私はそう言った。保管庫の下にノードがある。この発見は、遺跡のネットワーク構造を理解する上で重大だ。
だが階段を上がる足が、少しだけ軽かった。
セドリックがこの場にいなかったことに、奇妙な安堵を感じていた。戦闘の危険にさらされなくてよかった、という安堵だ。同僚の安全を心配するのは当然のことだ。
トーマが危険にさらされたことには——
それも心配している。もちろん心配している。護衛が怪我をすれば調査に支障が出る。
だが今の安堵は、そういう種類の感情だっただろうか。
考えなかった。考える必要がなかった。戦闘は終わった。全員無事だ。それだけでいい。
保管庫に戻ると、セドリックが拓本作業の手を止めて顔を上げた。
「大丈夫でしたか? 何か音が聞こえて」
「C級魔獣がいました。トーマさんが処理しました」
「C級……」
セドリックの顔が少し青ざめた。
「怪我は?」
「ありません。トーマさんも私も無事です」
セドリックがほっとしたように息をついた。それから私を見て、少し笑った。
「メイラさん、興奮してますね。目がキラキラしてる」
「してません」
「してますよ。ノルさんと同じだ」
ノルと同じと言われて、少し可笑しかった。あの鑑定士は「してない」と否定するだろう。私も否定した。
「……下層にノードがある可能性があります。報告書をまとめましょう」
仕事の話に戻した。
だが報告書を書きながら、トーマの剣が蜥蜴の首を正確に突いた瞬間が脳裏に残っていた。指示を出したのは私だ。観察結果を声にした。トーマはそれを即座に活かした。
言葉なしでも通じた、とまでは言わない。言葉は使った。だが、一言で通じた。「右側の棘が帯電してます、左から」。それだけで、彼は動いた。
息が合っている、と思った。仕事のパートナーとして。
報告書に向き直った。
——ふと思った。セドリックがあの場にいたら、同じように連携できただろうか。
考えて、すぐにやめた。比べることに意味はない。
だが一つだけ、確かなことがあった。蜥蜴が突進してきた瞬間、恐怖より先に浮かんだのは、「トーマがいるから大丈夫だ」という確信だった。
それがいつから当然になっていたのか、思い出せなかった。




