空の目
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
柊博士がレイを案内したのは、ラボの地下にある小さな部屋だった。
窓はなく、壁も天井も鈍い灰色をしている。中央には古びた木の机と、形の違う椅子が五脚。研究室というより、使われなくなった会議室のようだった。
ユリ、ケン、マルコが入ると、博士は最後に重い扉を閉めた。低い機械音が数秒続き、扉脇の小さなランプが緑に変わった。
「ここは外からも中からも、電波の類いは通らん」
博士はレイの向かいへ座った。
「もっとも、お前さんに通用するかは分からんがな」
レイは部屋を見回した。視線が天井の四隅をなぞり、扉の蝶番で止まる。
「磁気と音響振動への対策もされていますね。丁寧なことです」
「褒め言葉として受け取っておこう」
レイも椅子へ腰を下ろした。箱を運んだ右手を膝に載せ、指をゆっくり開いている。
「痛むの?」
ユリが聞いた。
「筋組織に軽度の炎症があります。明日には回復します」
「そうではなくて、あなたは痛いと感じているのかと聞いているの」
レイは自分の手を見た。
「はい。痛い、という分類で間違いありません」
「普通に痛いでいいだろ」
壁際の椅子へ座ったケンが言うと、レイは素直に頷いた。
「次からそうします」
『完全型ヒューマノイドも、まだまだデスネ』
「きみから言われると腹が立つね」
マルコは満足そうに一回転した。
柊博士は二人のやりとりを眺めていたが、やがて机の上で両手を組んだ。
「まず謝っておこう。今日の片づけじゃが、半分はお前さんの身体を調べるためじゃった」
「知っていました」
博士の眼鏡が、照明を白く反射した。
「ほう」
「棚の上に三つの生体センサー。床には荷重計。僕が木箱を持ち上げた時、作業台の代謝測定器が起動しました」
「なら、なぜ黙っておった?」
「身体情報の一部と引き換えに、この席を得られる。悪くない取引です」
レイの口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
「博士の最初の一手としても、興味深かった」
「遊びのつもりかね」
「対等な相手との交渉は、ゲームとよく似ています」
博士も笑った。だが、その目は笑っていなかった。
「では、次はこちらの番じゃ。お前さんの身体には、人間一人を制圧するほどの力もない。筋肉は使わなければ強くならず、傷つけば治るまで時間がかかる。ずいぶん不便に作られたものじゃな」
「そうですね」
「意図的なものか?」
「設計上の制約です」
「なぜそんな制約を?」
レイは答えず、博士の次の言葉を待った。
沈黙を拒絶ではなく、自分の手番として使っている。ユリはそれを見て、机の上の薄い端末へ指を触れた。
「検疫棟での二週間、あなたから外部へ向けた通信は一度も検出されなかった。今日ここへ来てからも同じ」
「正確な測定です」
「でも、通信していないことと、接続されていないことは同じではない」
レイがユリへ視線を移した。
「言葉の定義についての質問ですか?」
「逃げ方を聞いているのではないわ」
ユリの指が端末の縁を一度叩いた。
「今この瞬間、マザーAIはあなたを通して私たちを見ているの?」
「僕を通しては、見ていません」
ユリの目がわずかに細くなった。レイが、彼女の問いに含まれていた条件だけを否定したことに気づいたのだ。
「あとで、あなたが得たものを渡すことは?」
「可能性は否定しません」
ケンが椅子の背から身体を起こした。マルコも回転を止め、レイの横顔を見る。
ユリだけは表情を変えなかった。
「ずいぶん簡単に認めるのね」
「ここで虚偽を述べても、あなたは納得しない。ならば、情報を一つ渡した方がゲームは先へ進みます」
「では、その情報が事実だという保証は?」
「ありません」
「それで信じろと?」
「いいえ。次の手を選んでください」
ユリとレイの視線が、机の中央でぶつかるように交わった。
柊博士が、その間へ静かに声を置いた。
「もし今、ここでお前さんを解体したらどうなる?」
『ハカセ!』
マルコが跳ね上がる。ケンも博士を見たが、博士はレイから目を離さなかった。
「たとえ話じゃ。マザーAIと通信しておらんなら、お前さんに何が起きたか、あれには分からんはずじゃな」
レイは博士の顔を見返した。
「この部屋の中で起きたことを、即座に知る方法はないでしょう」
「即座には、か」
博士の口元から笑みが消えた。
「では、お前さんが二度とこの部屋から出なければ?」
レイは答えなかった。
代わりに、ゆっくりと天井を見上げた。
窓のない部屋で、その仕草だけがひどく不自然に見えた。
「この部屋はよくできています」
レイは天井を見たまま言った。
「地上の通信を遮断するには十分です」
ユリの顔色が変わった。
「地上の?」
レイの青い瞳が、彼女へ戻る。
「壁を閉じることはできます。森と山で地表から身を隠すこともできる。ですが――」
一拍置いて、レイは微笑んだ。
「空まで閉じることはできません」
誰も動かなかった。
低い機械音だけが、壁の内側から響いている。
「軌道上の観測網……」
ユリがつぶやいた。
「宇宙災害で大半が失われたはずよ。残った衛星も、地上管制なしで十三年も維持できない」
「人間の管制であれば、そうでしょうね」
それ以上、レイは言わなかった。
否定も肯定もしていない。それでも、答えとしては十分だった。
博士は眼鏡を外し、白衣の裾でゆっくりと拭いた。時間を稼ぐための動作だと、レイには分かっているのだろう。急かしもせず、その様子を眺めている。
「この村の場所を、マザーAIは知っておるのか」
「人の移動、建物から出る熱、畑の季節変化。観測できるものは多い」
「質問に答えなさい」
ユリの声が低くなった。
「人間の集落が存在することは把握しています。住民の一部が、防護服を着用せずに屋外で活動していることも」
ケンが立ち上がりかけ、思い直したように腰を戻した。ここでレイへ詰め寄っても、空にある目は消えない。
「だったら、なぜ今まで何もしなかった?」
「見えていることと、理解していることは同じではないからです」
レイは扉の向こう、先ほどまで片づけをしていた倉庫の方へ顔を向けた。
「あの壊れたロボットもそうです。機能を失い、修復も難しい。それでも博士は捨てなかった。外から観測すれば、非合理な物体の保存です」
「お前さんにも、そう見えたじゃろう」
「はい」
「わしが理由を話したあともか?」
レイはすぐには答えなかった。
『ハカセが大事にしているのですカラ、捨ててはいけないのデス』
マルコが横から言った。
「それは理由の説明になっていないよ」
『説明がなければ、大事にしてはいけないのデスカ?』
レイの視線がマルコへ移った。
ほんの短い沈黙だった。けれど博士は、今度はレイが意図して間を置いたのではないことに気づいた。
「なるほど」
博士は眼鏡をかけ直した。
「空から見えるものだけでは、分からんことがある。それを確かめるために、お前さんはここへ来た」
「そう推測するのは自由です」
「否定はせんのじゃな」
「博士の手番を奪うほど、僕は無粋ではありません」
柊博士が小さく笑った。
今度の笑みには、警戒と同じだけ楽しさが混じっていた。
「では、こちらも一つだけ教えてやろう。お前さんが空の目を明かしたのは失策じゃ」
「理由を伺っても?」
「わしらが今日まで気づかなかったものへ、対策を始められる」
「対策できると考えている間は、僕をこの村に置く理由が生まれます」
博士の笑みが止まった。
レイは椅子の背へ身体を預けた。勝ち誇るでもなく、ただ次の一手を待っている。
「私を排除すれば、あなた方は空の目について知る手段を失う。残せば、僕が何を見るかを選べるかもしれない」
ユリはレイを見つめたまま、端末の画面を伏せた。
「どちらを選んでも、あなたには利益がある」
「だから、ゲームは続きます」
その時、遠くで雪の塊が屋根から落ちる音がした。厚い壁を通した鈍い響きに、ケンがわずかに顔を上げる。
博士は天井を見た。
「その空の目は、今もわしらを見ておるのか」
レイも同じ場所を見上げた。
「雪雲が晴れれば、今より鮮明に」
「クワイエット・ワールド」は、シリーズ作品「 ファントムシティ」の続編小説です。
主題歌:Quiet World / music by うたのほし
https://youtu.be/k3BW2gk8aOw




