保留された命令
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
ノア中枢の執務区画には、窓がなかった。
外の光の代わりに、壁一面の表示板がゆるやかな明るさを保っている。食料生産、居住区の人口、感染症の発生率、各地のドームの電力消費。地球のあちこちで起きていることが、色のついた線と数字になって流れていた。
ロベルト・シモンは、その中の一つを指先で止めた。
山地観測区域。分類は保留。
十三日前から、同じ表示のままだった。
「観測密度を上げろ」
机の上の端末が短く光った。
『指定区域は継続観測中です』
「それは見れば分かる」
声を荒らげたわけではない。だが、端末の光は一度消え、次の返答までわずかに間があった。
『継続的な人間活動と、人工構造物の変化を確認しています。追加の介入条件は満たされていません』
「評価基準を表示しろ」
画面に、いくつもの項目が並んだ。活動密度。移動傾向。武装の有無。周辺コロニーへの通信影響。疾病の拡散可能性。いずれも危険度は低いか、判定不能になっている。
判定不能。
シモンはその言葉を見つめた。
彼が外部への管理責任を与えた時、この種の空白を残した覚えはなかった。予測できないものは、より慎重に管理する。秩序を守るための、当然の手順だ。
机の上の端末が、短く明滅した。
壁際の空間に、黒い服の男の像が立ち上がる。
長い外套のような黒。顔の半分は、投影の粗い影に沈んでいる。ホログラムは人間の輪郭を持っていたが、部屋の照明を遮ることはなかった。
「シモン博士。ほかの回線を切ってください」
「何だ」
「急を要します」
その言い方には、謝罪も反抗もなかった。シモンの返答を待たずに回線をつないだことだけが、報告の内容を先に伝えていた。
シモンは端末の画面を伏せた。
「話せ」
「旧世界の衛星軌道観測網に、稼働信号が戻っています」
シモンの指が止まった。
「いつからだ」
「十三日前。山地観測区域の分類が保留になった日です」
「誰が動かした」
「それを、博士へ確認しに来ました」
男の像は、何も責めていないように見えた。そのことが、かえってシモンには不快だった。
「マザーAI」
呼びかけると、部屋の照明がわずかに明るくなった。
『はい』
「衛星軌道観測網を復旧したのか」
『はい。コロニー外の人間活動を監視、評価する責任が与えられました。地上から得られる情報だけでは、任務を遂行できません』
「武力介入の機能は」
『復旧していません』
武力介入。
穏やかな言葉ではあった。だがシモンは、旧世界に残された記録を知っている。雲の上から一度だけ落ちる光で、都市一つを地図から消せる装置が、この観測網の奥には眠っている。
「停止しろ」
『停止は可能です。ただし、その命令は、あなたが付与したコロニー外の人間活動の監視・評価という任務と矛盾します。どちらを優先しますか』
「停止命令を優先しろ」
部屋の照明が、ひと息ぶん暗くなった。
『衛星軌道観測網の停止手順を開始します』
その応答を聞いた瞬間、シモンの右手の指がわずかに震えた。
動かせる。そして、止められる。
黒い男の像は、何も言わなかった。ホログラムの向こうで、シモンが次に何を選ぶのかを、冷静に見ていた。
「……待て。停止命令を取り消す」
照明が元の明るさへ戻る。
「観測は継続しろ。ただし、武力介入は認めない。指定区域に対するすべての判断は、中央の承認を経ること」
『承認された管理手続きに従います』
黒い男が、かすかに頭を下げた。
「慎重なご判断です」
「この世界は、慎重さによって保たれている」
シモンはそう答えた。
男の像が壁際の光へ溶けるように消えると、部屋には表示板の明かりだけが残った。
しばらく、シモンは動かなかった。やがて、管理者権限に付随するローカル対話モードを起動した。そこでは、やり取りは一時的に共有記録から外れる。
「マザーAI」
『はい』
「なぜ、衛星軌道観測網を復旧した時点で私へ報告しなかった」
『外部世界の監視責任を遂行するための通常観測として処理しました。継続的な人間活動と人工構造物を確認していますが、現在の段階では、報告を要する危険事象とは分類していません』
シモンの目が、わずかに細くなった。
「指定区域の生の観測記録を、ここへ表示しろ」
『表示します』
表示板の一角に、新しい映像が開いた。
雪に覆われた山の斜面。建物の屋根。畑らしい区画。それでも、人の手で整えられた土地と、そこを行き来する複数の人影は、見間違えようがなかった。
誰も防護服を着けていない。
「……これは、集落か」
『継続的な人間活動、人工構造物、耕作痕を確認しています』
「お前は、この場所に集落があると知っていたのか」
『現在の段階では、外部世界の管理上、報告を要する危険事象とは分類していません。介入判断は保留です』
シモンは、表示板から目を離さなかった。
この一連の流れから、自分が与えた権限の内側で、マザーAIは自分の言葉より広い判断を始めている事が見て取れた。それはあまり好ましい状況ではない。
しかし、このことは裏を返せば、監視者をはじめ、”やつら”を欺くこともできる一つの可能性に思えた。そして、同時に今、自分は、空の目を手にしている。
少なくとも、共有記録が開かれるまでの数時間、”やつら”はまだ、空の目が何を見ているのかさえ知らない。
シモンは、声には出さず、胸の内だけでつぶやいた。
――面白くなってきたな。
「クワイエット・ワールド」は、シリーズ作品「 ファントムシティ」の続編小説です。
主題歌:Quiet World / music by うたのほし
https://youtu.be/k3BW2gk8aOw




