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蒼い雨  作者: mamio


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9/10

蒼い雨 第9話

1


できた。


鏡の前で、小さなパールが水滴みたいに揺れるピアスをつける。

鏡に映った私は、昨日までの私と違って見えた。


別人みたいだと思う。

ドレスも、髪も、メイクも、何も特別変えていないのに。


ちゃんと気持ちを切り替えなきゃいけない。

そう思っているのに、鏡の中の自分があまりにも昨日とかけ離れて見えて、うまく頷けなかった。


白夜が嫌になったわけじゃない。

店に出れば、これまで通りに笑える。

接客だって、きっとできる。


それなのに、私は少し怖くなる。

今まで当たり前だった切り替え方が、急にわからなくなった気がして。


夜は夜。

昼は昼。

私はずっと、そうやってきちんと分けて生きてきたはずだったのに。



鏡越しに、後ろのドアが開くのが見えた。

入ってきたのは、春香ちゃんだった。


「おはようございます」


「おはよう」


振り向かないまま、鏡越しに返す。


春香ちゃんはふたつ隣の椅子に腰を下ろして、ヘアアイロンを手にしながら私を見た。


「美雨さん、お休みの日って何してるんですか?」


「昨日は洗濯して、外に干した」

「久しぶりに、いい天気だったし」


そう答えると、春香ちゃんが目を丸くした。


「え、それだけ?」


「あとは……人が来た」


「彼氏ですか?」


「そういうんじゃないよ」


すぐに否定したのに、そのあとに続いた沈黙が、自分でも不自然だった。


そういうんじゃない。

少なくとも、今はまだ。


鏡の中の私は、平気な顔をしていた。

でも、その言葉をいちばん言い聞かせたかったのは、春香ちゃんじゃなくて、たぶん私自身だった。



2


店が開いて、最初のお客さんにつく時間は、たいてい楽だった。

まだ早い時間だからか、ひどく酔っている人は少ない。


遅い時間になると、最初からお酒の回ったまま来るお客さんもいる。

そういう人は、機嫌ひとつで空気を変えるから厄介だ。


今日は林さんだった。

証券会社でかなり上の立場にいる人で、話しぶりにも自分が数字の大きな世界で働いているという自負がにじむ。


私は席について、グラスに手を添えながら話を聞いた。


「最近さぁ、利上げの話ばっかりでさ」


「利上げって、金利が上がることですよね」


「そうそう。そのせいで相場が素直に動かないんだよ。お金を借りるコストが上がるだろ?」


「じゃあ、あまりいい話じゃないですね」


「一概には言えないけどね」


林さんは、こういうふうに説明したがる。

教える立場に回るのが嫌いじゃない人なのだと思う。


「林さんが先日おっしゃってた、雇用統計。金曜日の」


「おお、よく覚えてるね」


「あの指標で、株価も為替も大きく変わるみたいですね」


そう言うと、林さんは目を細めた。

こういう反応を返してくれる人には、会話が運びやすい。


「さすがだね、紫乃ちゃん」


「いいえ、私なんか興味半分ですから。プロの林さんから、いろいろお聞きしてお勉強させていただいていますよ」


口にすると、するりと馴染む。

こういう言い方は、もう考えなくても出てくる。


「けど、そんな話できる女の子、なかなかいないからさ」


「そんな、大げさな」


笑って返しながら、私は自分の声を遠くに聞いていた。

ちゃんと相手に合わせて、気分よく話させて、場を保つ。

そうやって私は、今までここでやってきたはずだった。


林さんを挟んで、もうひとり女の子が座っていた。

彼女は林さんの顔をのぞき込むようにして、甘えた声を出した。


「なんだか難しそうなお話でしたけど、私にも教えてください」


「ああ、いいよ。アメリカのね――」


林さんはすぐに機嫌をよくして、話しはじめる。

その子は、こういう人の扱い方をよくわかっているんだなと、私は感心した。


相手に気分よく話させる。

知っていることを気持ちよく教えさせる。

それだけで、場はずいぶんやわらかくなる。


ふと目を上げると、向こうから黒服が近づいてくるのが見えた。

私は小さくうなずいて席を立ち、林さんに声をかけた。


「少しの間、失礼しますね」


通路に出ると、黒服が低い声で言った。


「寺田さんです」


「わかりました」


それだけ返して歩き出した。


なぜだろう。

いつもと同じ名前を聞いただけなのに、今日は気が重かった。



2


「いらっしゃいませ」


「紫乃ちゃん。久しぶりじゃない?」


「何言ってるんですか。金曜日にもお会いしましたよ」


「そうだっけ?」


寺田さんはそう言って笑い、親しげな顔のまま私の腕に触れた。

いつものことだった。

この人は、自分だけは私に触れても許されると、どこかで思っている。


私はグラスに視線を落としたまま、マドラーで氷を静かに回した。

その手を、寺田さんが軽くつかむ。


笑みは崩さずに、そのままそっと手を引く。

けれど、少しすると、また触れられた。


そのたびに、かすかに強張る。


違う、と思った。


蒼真の手じゃない。

昨日、私の頬に触れた手じゃない。

あのとき、髪をそっと払った指じゃない。


同じように触れられているはずなのに、まるで違った。

こんなふうに比べてしまうこと自体、もう以前と同じではいられない気がした。


寺田さんは、今日も連れをふたり連れてきていた。

店の女の子もふたりついて、連れの男性たちの相手をしている。


テレビ局の人だと聞けば、女の子たちも多少は興味を持つ。

話題もそれなりに広がっていたから、これなら私が席を外しても問題ないだろうと思った。


ひとこと断って席を立ち、バックヤードへ向かう。

口紅を塗り直したかった。

あれはすぐ落ちる。


化粧室に入ると、沙耶ちゃんがいた。

彼女も鏡の前で、口紅を引き直しているところだった。


鏡越しにちらりと私を見て、沙耶ちゃんが言う。


「美雨さん、今日どうしたんですか?」


「は?」


「寺田さん」


「寺田さんが何?」


「いつもなら、あれくらい普通じゃないですか」


まただと思った。

人の気分をかき回して、反応を見るのが好きなんだろうか。

そう思うと、むっとする。


「普通でしょ」


短く返すと、沙耶ちゃんは口紅のキャップを閉めながら、何でもないふうに続けた。


「塚越さんと何かありました?」


「なんで、蒼真が出てくるの?」


言ったあとで、自分で気づく。

沙耶ちゃんの口元が、ゆっくりと意地悪くゆがんだ。


「ほら。この前まで、塚越さんって呼んでたのに」


いちいち指摘されて、訂正するのも癪だった。

でも、黙っているのも余計に認めるみたいで嫌だった。


「私は、昔から彼を蒼真って呼んでるの」


言い訳みたいな言葉になったのが、自分でもわかった。


沙耶ちゃんは、案の定、楽しそうに笑う。


「外で会ってるんですか?」


「悪い?」


「付き合ってるんですか?」


「そういう話はしてないけど?」


言いながら、胸の奥がざわつく。

寺田さんに触れられるたび、以前ならなかったはずの反応をしてしまう自分にも、まだ戸惑っていた。

そのうえで、こうして沙耶ちゃんに面白がられるのは、正直いらだつ。


「美雨さんでも、そういうのあるんですね」


「そんなに気になる?」


「別に」


そう言いながらも、沙耶ちゃんはまだ笑っていた。

その顔を見ているだけで、私の中の何かが、また乱される。



3


二十三時前には、店はもう満席になっていた。

あちこちで笑い声が上がって、グラスの触れ合う音が重なる。

その中で私も、いつも通り微笑みを浮かべて、お客さんの話に耳を傾けていた。


視線を少し動かせば、春香ちゃんも沙耶ちゃんも見える。

笑って、頷いて、グラスが空きそうになればすぐに気づいて、途切れなく場をつないでいる。


みんな、ちゃんと仕事をしている。

私もずっと、そうやってきた。


この仕事が嫌いだったわけじゃない。

接客は嫌いじゃないし、自分の知らない話を聞くのも、昔からわりと好きだった。

その場で聞いて終わりにしないで、あとから調べてみることもある。

お客さんの話がきっかけで、本を買ったことだって一度や二度じゃない。


いろんな男の人を見てきた。

本当に、ひとりひとり違うと思う。


それなのに、どうしてこんな気持ちになるんだろう。


三十になったせいなのかもしれない。

たぶん、それもある。

二十五のころなら、五年後のことなんて考えなかった。


じゃあ、私はいつまでこの仕事を続けるつもりだったんだろう。

あと五年。

そこまで思って、自分で曖昧に笑いたくなった。


ずっとではないことは、前から知っていた。

辞めようと思えば、辞められる。


辞められないわけじゃない。

ただ、辞めたあとに自分がどう生きていくのか、その形が見えなかった。

だから今まで、考えないふりをしていただけなのかもしれない。



4


閉店したあと、女の子たちは今日来たお客さんの話をしていた。

スマートで格好よかったとか、触り方がいやらしかったとか、話し方が好きじゃないとか。

酔いの残る店内で、淡々と短いお礼のメールを返している子もいる。


黒服がタクシーの手配をしているのを横目に見ながら、私は更衣室へ向かった。


バッグの中の、スマートフォンを取り出した。

見ると、LINEの通知が一件来ている。


蒼真だった。


塚越蒼真

〈お疲れ様〉


届いた時間は二十三時半。

今から返しても、もう寝ているかもしれない。

そう思って、いったんスマートフォンをバッグに戻し、そのまま着替えた。



店を出て、タクシーに乗ってからも迷った。

それでも結局、短く返す。


〈今終わった〉


返事は、思っていたよりずっと早く来た。

時計を見ると、二時前だった。


塚越蒼真

〈おつかれ〉


〈起きてたの?〉


塚越蒼真

〈起きてた〉


〈明日も仕事でしょ〉


塚越蒼真

〈美雨も仕事だったろ?〉


〈そうだけど〉


塚越蒼真

〈今日、どうだった?〉


そこで、指が止まった。


どうだったって。

仕事のことを聞いているのか、それとも私の気持ちを聞いているのか、よくわからない。


昨日、蒼真に聞かれたことを思い出す。


何時に帰るの。

何時に寝るの。


あのとき答えたあと、蒼真は少し黙っていた。

その沈黙が何を意味していたのか、今もまだ、はっきりわからない。


どう返すのが正しいのか決めきれないまま、私は画面に文字を打った。


〈普通だったよ〉


嘘ではなかった。

営業は滞りなく終わったし、困るようなことも起きていない。


普通じゃなかったのは、たぶん私だけだった。


ふいに、沙耶ちゃんの言葉が頭に浮かぶ。


付き合ってるんですか。


あれを、違うと簡単に言い切れるほど子どもでもない。

たぶん、私も蒼真も、もうそういうつもりでいる。


この罪悪感みたいなものは、きっとそのせいだった。

ただ気になるだけの相手なら、こんなふうには思わなかった。




蒼い雨 第9話 おわり



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