蒼い雨 第10話
1
土曜日、東京駅で待ち合わせをしていた。
いつものように、蒼真はもう改札前にいた。
私が三十分前に来ても、きっとこの人はここに立っているのだろう。
そんなことを思ってしまうくらい、蒼真はいつも先にいる。
「今日も早いね」
改札を出て、私は小走りで蒼真のところへ向かった。
蒼真は何も言わずに、ただ私の手を取る。
そのまま握られた手がうれしくて、私もそっと握り返した。
「何食べる?」
歩きながら蒼真が私を見る。
「蒼真は?」
「俺が聞いてる」
「ずるい」
そう言ったのに、蒼真は笑って、そのまま迷いなく歩いていく。
目についただけなのか、最初から決めていたのか、蒼真は豆腐料理の店に入った。
「お店、決めてたの?」
「決めてたわけじゃないけど、早く着いたからちょっと調べただけ」
「じゃあ、そう言えばいいのに」
「美雨の希望も一応聞こうと思って」
一応、なんて言うところが蒼真らしい。
十四時前で、ランチタイムも終わりに近いはずなのに、店の中はまだ人が多かった。
案内された席に座って、私たちは他愛もない話をした。
今度は、車で遠出しようとか、近所に新しくできた焼き肉屋に行こうとか、スカイツリーから見る夜景の話とか。
食事の最後に出された熱いお茶を、私はゆっくり飲んでいた。
湯気を見ていたとき、奥の席から出口へ向かって歩いてくる人影が目に入った。
外国人がふたり。
観光で来ている人かもしれない。
会計をするつもりなのか、まっすぐレジのほうへ向かっていた。
そのうちのひとりが、私たちの席の近くで足を止めた。
蒼真はその人を見ると、すぐに立ち上がる。
「Soma!」
明るい声と一緒に、彼女は蒼真へ軽く抱きついた。
たぶん、ただの挨拶だ。
そう思ったのに、変に落ち着かない。
「どうしたの。こんなところで」
蒼真の知り合いらしかった。
日本語と外国語が混ざった会話は、なんとなくしかわからない。
女性は、連れの男性に蒼真を紹介するときも、蒼真の腕に手を添えたままだった。
そのあとも隣に並んで、自然に背中へ手を回している。
近い。
そう思ってしまう自分が、嫌だった。
蒼真が私を見たので、私も席を立った。
美雨だと紹介してくれているらしい。
私は軽く頭を下げた。
彼女は笑顔で何か言ってくれたけれど、意味はわからないままだった。
曖昧に笑って、小さく手を振る。
別れ際には、また蒼真の肩に手をかけていた。
そのまま彼女たちはレジのほうへ向かっていった。
誰だろうと思った。
仕事上の知り合いのような気がした。
外国では、あれくらい普通なのだろうか。
そう思えば、それで済むはずだった。
なのに、なぜかさっきから蒼真の腕ばかりが気になった。
2
一度は席に座り直したけれど、私たちももう最後のお茶を飲んでいただけだった。
それからほどなくして、店を出た。
さっきの人がどういう関係なのか、蒼真は何も言わない。
言わなくてもわかるだろうとでも思っているのか、そもそも説明するほどのことじゃないと思っているのか。
どちらにしても、私の中に引っかかったものは、そのまま残っていた。
外へ出ると、蒼真はまた何事もなかったみたいに私の手を取った。
「ちょっと、家電見たいんだけど、付き合って?」
そう言って歩き出す横顔は、いつもと同じだった。
さっきのことなんて、もう蒼真の中では終わっているみたいに見える。
引っかかっているのは、たぶん私だけだ。
だからといって、何を言えばいいのかもわからない。
彼女は腕に触れて、背中に手を添えて、肩に手をかけていただけ。
ハグだって、きっと挨拶にすぎない。
そんなことはわかっている。
わかっているのに、なんだか面白くなかった。
自分でも子どもみたいだと思う。
でも、そう感じてしまった気持ちまでは、なかったことにできない。
蒼真は家電量販店の中で、スピーカーやタブレットを見ていた。
私は私で、ドライヤーを手に取ったり、スマートウォッチを眺めたりして、そのあと冷蔵庫の売り場まで歩いた。
別に、何か必要だったわけじゃない。
ただ、なんとなく見ていただけだ。
並んだ値札を見て、結構高いね、と顔を見合わせて笑う。
蒼真も、何か買うつもりで来たわけではなかったらしい。
気になっていたものを、実際に見てみたかっただけだと話していた。
店の中を思ったより長く歩き回って、そろそろどこかで座ろうかということになった。
店を出ると、蒼真が大通りの向こうを見ながら言う。
「あそこに喫茶店あるから、あっち行く?」
示された先に、たしかに店が見えた。
このあたりは、蒼真の会社が近いはずだ。
だから詳しいのかもしれない。
そう思うと、私の知らない蒼真の時間が、この街のあちこちにあるような気がした。
3
その喫茶店も、土曜日だからかそれなりに混んでいた。
それでも待たずに席へ案内されて、梅雨明けしたあとの湿気の多い外気から逃げ込むみたいに、私はほっと息をついた。
店の中は冷房がよく効いていて、ちょうどよかった。
アイスコーヒーをふたつ頼んで、椅子の背にもたれる。
落ち着いたら、さっきから引っかかっていたことを、やっぱり聞いてしまった。
「さっきの人、会社の人?」
「うん。前に一緒に仕事した人」
「そう。仲いいんだね」
「まあ、仕事ではね」
蒼真の返事はあっさりしていて、本当にそれ以上の意味はなさそうだった。
気にしているのは、やっぱり私だけなのかもしれない。
でも、蒼真は自分のことになるとそんなふうに軽く流すくせに、私の話にはすぐ反応する。
「美雨は?」
「なに?」
「最近、仕事どう?」
「どうって、普通だけど」
「ほんとに普通?」
普通と言ったばかりなのに、そう返されると急に自信がなくなる。
私はウォーターグラスに落としていた視線を上げて、蒼真を見た。
「寺田さんが、よく来るから」
言った途端、蒼真の空気が変わる。
「また、触られた?」
「……うん」
眉を寄せたまま、蒼真が聞く。
「どこ」
「腕とか、手?」
「手?」
「握られただけ」
「それで普通?」
「まあ、普通」
「それが?」
「だって、寺田さんは前からそうだし」
「美雨に触るのが?」
「そういう人だから」
言いながら、自分でも苦しい言い訳みたいだと思った。
蒼真は案の定、まったく納得していない顔をしている。
納得しなくても、仕方のないことだと思っていた。
私だって、触られることが仕事だなんて思っているわけじゃない。
「そういうお客さんもいるのよ」
「お酒も入ってるし、いちいち気にしてたら仕事にならないから」
そう言うしかなかった。
そうやって流すことを覚えないと、やっていけない場面があるのも本当だった。
「でも、嫌だったんだろ」
まっすぐに言われて、言葉に詰まる。
「……今回はね」
「なんで?」
なんでって。
そんなの、蒼真のせいだ。
でも、それをそのまま言うのは悔しくて、私は視線を落とした。
「前とは、ちょっとだけ気持ちが違っただけ」
「じゃあ、普通じゃないだろ」
「仕事としては普通なの」
「俺には普通じゃない」
そうかもしれない。
言いたいことはわかる。
わかるけれど、蒼真だって、さっきあの人に触られていた。
気にしないでおこうと思っていたのに、結局、口に出してしまった。
「でも、さっきの人だって蒼真にずっと触ってた」
そう言うと、蒼真は一瞬だけ言葉を止めた。
「ああ……」
「ああ、じゃないよ」
「なに?」
「腕にも、背中にも、肩にも。ハグもしてたじゃん」
「そういえば、そうだったな」
その反応に、余計にむっとする。
本当に、気にも留めていなかったのだ。
たぶん、あの人は普段からああいう距離感で人に触れるのだろうし、蒼真もそれをわかっている。
だから気にしていない。
それはわかる。
わかるのに、私には普通じゃないと言う蒼真が、腹立たしかった。
「平気なの?」
「別に、気にしてなかった」
「私はちょっと嫌だった」
そう言うと、蒼真は考え込むような顔をした。
「そうなんだ」
寺田さんのことを、私は普通だと言った。
なのに、蒼真が女性に触れられているのを見た私は、嫌だと思った。
もう、普通とか普通じゃないとか、そういう話じゃない気がした。
そもそも、そんな基準は最初から曖昧だった。
たぶん私が本当に引っかかっているのは、触れられたことそのものじゃない。
触れられたことより、その人に触れられている蒼真を見たことのほうが、ずっと引っかかっていた。
4
気まずい空気が流れていたのに、蒼真はそれを押し切るみたいに言った。
「俺はもっと嫌だよ」
「なにが?」
「美雨が男に触られるの」
「仕事だよ」
「仕事でも」
間髪を入れずに返されて、胸の奥がざらつく。
「どうしろって言うの?」
「触らせるな」
「無茶言わないでよ」
「無茶なのはわかってる」
「だったら言わないで」
思ったより強い声が出た。
自分でも少し驚いたけれど、もう引っ込められなかった。
「私だって、触らせるのが仕事じゃないと思ってる」
「嫌だから言ってる」
「私、何年この仕事してると思ってるの」
「年数の話じゃない」
「じゃあ、なに?」
「俺が嫌だって話」
その言い方が、勝手だと思った。
勝手なのに、まっすぐで、余計に腹が立つ。
「蒼真が嫌だからって、私が全部変えなきゃいけないの?」
「全部変えろとは言ってない」
「じゃあ、どうするの?」
自分でも、投げるような口調になっているのがわかった。
でも、止められなかった。
「白夜で働いてたら、寺田さんでなくてもそういう人はいるよ」
「最初から、わかってたじゃない」
「嫌なら、私が仕事辞めるか、蒼真が我慢するしかないじゃん」
言い終わった瞬間、言いすぎたかもしれないと思った。
けれど、蒼真は迷いもなく言った。
「じゃあ、辞めろ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……はぁ?」
5
「簡単に言わないで」
「簡単には言ってない」
「辞めたら生活どうするの」
「俺が見るよ」
硬直するって、たぶんこういうことを言うのだと思った。
一瞬、頭の中が真っ白になる。
やっとのことで出てきたのは、間の抜けた声だった。
「……なにを?」
「生活」
「いや、そういう意味じゃなくて」
蒼真はまっすぐ私を見たまま、淡々と言う。
「家賃も生活費も俺が出せる」
「美雨は、自分の貯金を削らなくていい」
今度は、息まで止まりそうになった。
急に全身の力が抜けるみたいな安心感が、空気に混ざってそのまま胸の奥に流れ込んでくる。
そんなふうに言ってもらえることが、思っていたよりずっと、うれしかった。
でも、それとこれとは別だった。
「そういうことじゃない」
「じゃあ、なに」
「私、何するの」
言った瞬間、自分が本当に引っかかっていた場所が、ようやく言葉になった気がした。
すると蒼真は、やっと腑に落ちたみたいな顔をした。
私はその表情にむっとしながら、言葉を続ける。
「辞めたあと、何していいかわからないから困ってるの」
蒼真は考えるように黙って、それから言った。
「わかった」
「何がわかったのよ」
「そこは、俺が決めることじゃない」
「でも、白夜を辞めてほしいっていうのは変わらない」
「頑固」
「うん。知ってる」
その返事があまりにも迷いがなくて、呆れるのに笑いたくなる。
ほんとに頑固だと思う。
でも、私のこの先のことまで勝手に決めなかったことには、ほっとしていた。
6
喫茶店を出ても、気まずい空気はまだ少し残っていた。
そのまま歩き出したところで、蒼真が私の手を取る。
私は黙ったまま、蒼真を見上げた。
蒼真も私を見て言った。
「腹減らない?」
「ご飯食べたの二時だよ?」
「じゃ、帰る?」
「どこに?」
「清澄」
「うん」
短いやり取りだった。
それなのに、さっきまで張っていたものが、ほどける。
蒼真は、生活は俺が見ると言った。
たぶん、それは蒼真なりの責任の取り方なのだと思う。
そういうふうにしか言えなかったのかもしれない。
それでも、勝手だと思った。
腹が立った。
私の先のことを、そんなに簡単に囲い込まないでほしいとも思った。
だけど、その言葉にほっとした自分がいたのも本当だった。
ふたりで生きていくつもりでいるのだと、あの言い方でわかってしまったから。
暮らしてはいける。
きっと、暮らしていける。
でも、暮らしていけることと、どう生きていきたいかは、たぶん同じじゃない。
私がまだ迷っているのは、そこなのだと思った。
蒼い雨 第10話 おわり




