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蒼い雨  作者: mamio


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8/9

蒼い雨 第8話

1


朝、目が覚めたのは九時だった。

洗濯機に洗剤を入れて、スイッチを押す。

ふだんは部屋干しにしているけれど、今日は違う。


久しぶりにきれいに晴れていた。

せっかくの日曜日だし、今日は外に干したいと思った。


窓を大きく開けると、やわらかい風が部屋に入ってくる。

そのままベランダに出て、しばらく外を眺めた。


次、いつ空いてる?


昨日の帰り際、蒼真にそう聞かれたことを思い出す。


会うことはもう決まってるみたいな言い方をしていた。

今更おかしくなって、私はひとりで笑った。


そのとき、リビングのテーブルに置いていたスマートフォンから、LINEの通知音が鳴った。

部屋に戻って手に取ると、画面には蒼真の名前が表示されていた。


塚越蒼真

〈今日、何してる?〉


それを見た瞬間、また笑ってしまう。


〈洗濯物干す〉


塚越蒼真

〈干したあとは?〉


〈掃除? 買い物?〉


塚越蒼真

〈会いたい〉


その一言に、胸がわずかに跳ねた。

私は画面を見つめたまま返す。


〈来る?〉


塚越蒼真

〈美雨の部屋?〉


〈うん〉


塚越蒼真

〈行きたい〉


送られてきた文字をしばらく見ていた。


前に蒼真が、美雨の部屋も見てみたいと言っていたのを覚えていた。

だからかもしれない。

自分でも驚くくらい自然に、あんなふうに返していた。



蒼真は昼過ぎに来ると言っていた。

それなら、軽く掃除だけしておけばいい。

買い物は、彼を迎えに行ったついでで十分だと思った。


お互いの家は、そう遠くない。

電車で二駅。

その近さを改めて思った。


そこまで考えて、私は自分がまったく構えていなかったことに気づいた。

色の褪せたTシャツにジーンズ。

化粧もほとんどしていない。


このままは、さすがにどうなんだろう。

もう少しまともな服に着替えたほうがいい気がした。

せめて軽くでも化粧はしておこうと思う。


月島駅に着いたのは、十三時五十五分だった。

改札の近くには、もう蒼真がいた。


私に気づくと、蒼真はいつものように笑う。


「また、早い」


そう言うと、蒼真もすぐに笑った。


「美雨も五分前」


五分前くらい、普通だと思うけど。


心の中でそう返しながら、私は彼の隣に並ぶ。


「ちょっと、スーパー寄ってもいい?」


「何買うの」


「何っていうか、何もなくて。アイスコーヒー飲みたいし」


蒼真は、わかったというようにうなずいた。


ふたりでスーパーに寄って、アイスコーヒーと少しお菓子を買った。

それから並んで、私の部屋に戻った。



2


部屋は、別に派手じゃない。

おしゃれな部屋にしたいと思ったことがないわけじゃないけれど、実際のところ、私の部屋はたぶん普通だ。

きれいにしているつもりではあるけれど、雑誌に載るような感じではない。


ただ、普通なりに、私らしいものはあると思う。


本棚には本が多い。

休みの日にふらっと入った店で見つけたものもあるし、客との会話のなかで気になって、そのあと自分で買った本もある。

器や小物も同じだった。

ひとつずつ、ちゃんと気に入ったものだけを増やしてきた。


その一方で、クローゼットの中だけは雰囲気が違う。

仕事用の服が並ぶそこだけが、妙に華やかだ。

自分で選んでおきながら、あれは別の顔をしているみたいだと思うことがある。


玄関で靴を脱いだ蒼真は、部屋に入ると、へえ、というふうに静かに見回した。

落ち着かない。

別に困るものは出していないし、掃除もした。

それなのに、自分の部屋を誰かに見られるのは、やっぱりそわそわする。


「どうぞ」


言ってから、どうぞも変かもしれないと思う。

蒼真はそんな私の気配に気づいているのかいないのか、穏やかな顔のままリビングに入った。


買ってきたアイスコーヒーを冷蔵庫に入れて、お菓子をテーブルに置く。

振り向くと、蒼真はもう本棚の前に立っていた。


「本、多いな」


「そう?」


「多い。美雨っぽいけど」


美雨っぽい、と言われても、自分ではよくわからない。

ただ、否定するのも違う気がして、私は曖昧に笑った。


蒼真が背表紙を目で追っていく。

小説、エッセイ、仕事の参考にしたくて買った接客の本。

統一感があるようでない並びを見られるのは、気恥ずかしい。


その指が一冊のところで止まった。


「これ、建築の本?」


蒼真が抜き取ったのは、数日前に買ったばかりの本だった。

建物の写真や、古い物件を活かした空間づくりについて載っている本。

難しい専門書ではないけれど、私にしては珍しい部類かもしれない。


「この前、ちょっと気になって」


数日前、本屋で目に留まって買ったものだった。

蒼真と建物の話をするようになってから、以前よりそういうものが気になるようになっていた。

そう答えると、蒼真が本を手にしたまま、口元をゆるめる。


「俺の影響?」


その聞き方が、からかっているようでいて、期待しているみたいにも見えて、私は返事に困る。


「でも、昨日あの店見て、この本のこと思い出してた」


「昨日?」


「兜町で入ったとこ」


肩をすくめるみたいにして笑うと、蒼真も笑った。

その顔を見ていると、別に隠す必要もないのかもしれないと思うのに、素直に認めるのは、なんだか悔しい。


昨日、兜町を一緒に歩いた。

古い建物をきれいに手入れして使っている場所があって、蒼真が、こういうのは壊して新しく建てるだけじゃなくて、残せるものを活かしてるのがいいんだと話していた。


そのときは、ふうん、という顔をして聞いていたと思う。

でも実際には、印象に残っていた。


「ああ、あのリノベーションの話」


「うん。古いものを残しながら使うの、いいなって」


私がそう言うと、蒼真は意外そうに目を細めた。


「ちゃんと聞いてたんだ」


「聞いてたけど」


「興味なさそうな顔してたのに」


それは否定できない。

興味がないふりをしていたつもりはないけれど、たぶん私は、何かを面白いと思っても、すぐ顔には出ない。


「蒼真の話が長くなりそうだったから」


「ひどいな」


そう言いながらも、蒼真は楽しそうだった。


私は本棚に目をやる。

自分の興味で選んだ本のなかに、蒼真の話をきっかけに手に取ったものが混じっている。

それが、なんだかくすぐったい。


こうして見られると、私が何を好きで、何に目を留めて、どんなふうに暮らしているかが、思っていたよりそのまま置かれている気がする。


蒼真はまた本棚を見上げて、静かに笑った。


「なんか、いい部屋だね」


その言い方が自然すぎて、私は返事に一拍遅れた。


「……そう?」


「うん。ちゃんと美雨の部屋って感じする」


私はごまかすみたいに、冷蔵庫のほうを振り返った。


「アイスコーヒー入れる」


「手伝う?」


「いい。座ってて」


短くそう返しながら、頬がゆるみそうになるのを、自分でなんとか抑えた。



蒼真はソファに座ったけれど、私は床に座った。

なんとなく、そのほうがいい気がした。


自分でも、どうしてそうしたのかははっきりわからない。

でもたぶん、先日蒼真の部屋に行ったとき、二人掛けのソファに並んで座ったときの緊張を、まだ覚えていたんだと思う。


テーブルの角を挟んで、私は蒼真を少し見上げる位置にいた。

蒼真からすれば、私を見下ろすような形になる。


落ち着くような、落ち着かないような、微妙な距離だった。


蒼真は最初こそ何も言わなかったけれど、少ししてから、テーブルに手をかけた。

それを向こう側へそっと押しやる。


何をするのかと思って見ていると、そのまま蒼真もソファを下りて、床に腰を下ろした。


自然な動作だった。


「……そっち座るの」


そう聞くと、蒼真は軽く笑った。


「美雨、こっちだと遠いから」


近づきたくてそうしたみたいに聞こえるのに、たぶん蒼真は、そこまで深く考えていない。


だから余計に、困る。


同じ床に座るだけで、さっきより空気がやわらいだ気がした。

それなのに、近くなったぶん、私は前よりずっと蒼真を意識してしまう。


「普段は何時に帰るの?」


「二時とか、三時かな」


「寝るのは?」


「四時くらい」


「毎日?」


「そう」


蒼真は、そのあと黙っていた。


「なに?」


「いや」


考えても、どうにもならないと思っているんだろう。

少し間を置いて、蒼真が口を開く。


「昨日さ、歩道橋見て…」


「あ…」


「思い出さなかった?」


「…うん。思い出した」


蒼真が照れくさそうに、笑って言った。


「俺、あれ初めてだった」


「私も」


「美雨が初めてなのは、知ってた気がする」


「私もわかってたと思う」


十五歳の幼く淡い、他の誰も知らないふたりだけの秘密だった。


「なんか、急だったよね」


記憶を思い返して、言った。


「ああ…ごめん」


「十五年経って謝るの?」


謝りながら笑う蒼真と、記憶をたどって幼かったと笑う私の声が重なった。



3


不意に沈黙が落ちた。


さっきまで確かにやわらかかった空気が、形を変える。

重いわけじゃない。

気まずいわけでもない。

ただ、次にどちらが何を言うのかを待つみたいに、静かだった。


十五歳のころの話をしていた。

歩道橋の階段裏で、あまりにも急に触れた、あの淡い記憶。

幼くて、ぎこちなくて、でもたしかに忘れていなかったもの。


それを、今こうして蒼真と向かい合って思い出している。

同じことを彼も考えている気がした。


大人になった今、もし彼とキスをしたら、どうなるんだろう。


そこまで考えてしまってから、私は急に落ち着かなくなった。

視線の置き場に困る。

近い。

床に座ったままの距離が、急に意識に触れてくる。


蒼真は何も言わなかった。

言わないまま、ただ静かに私を見ていた。


見られている、と思っただけで、喉が少しかわく。

何か言おうとして、でもうまく言葉が見つからない。


「……なに」


やっとそれだけ言うと、蒼真が目を細めた。


「いや」


さっきと同じ返事なのに、今は意味が違って聞こえる。

その短い声のあと、また沈黙が続いた。


心臓の音だけが、自分の中でやけに大きい。


蒼真が、少し身体を寄せた。


逃げたいわけじゃない。

でも、どうしたらいいのかわからない。


彼も確かめるみたいに近づいてきていた。

急がず、私の様子を見ながら。

その静かな気配が、余計にやさしくて、ずるいと思う。


私は少し顔を上げた。

蒼真の目が近い。

昔みたいに不意打ちではなかった。

ちゃんと、この先を知りながら見つめ合っている。


そのまま、蒼真の指先がそっと私の髪に触れた。

耳の横に落ちていた髪を、邪魔にならないように払うみたいな、やさしい触れ方だった。


「美雨」


名前を呼ばれて、胸の奥が震える。


返事はできなかった。

できなかったけれど、目をそらさなかった。


次の瞬間、蒼真の唇が、そっと重なった。


昔の記憶みたいな、勢いまかせの触れ方じゃない。

短い確かめるようなキスだった。


唇が離れても、蒼真はすぐには離れなかった。

近いまま、ただ静かに私を見ている。


息がうまく整わない。

さっき触れたばかりの熱が、まだそのまま残っている気がした。


目をそらすこともできなくて、私は小さな声で言った。


「……十五年ぶり」


自分で口にしてから、その長さにおかしくなる。

蒼真は口元をゆるめた。


「長かったな」


低くて、やわらかい声だった。


その言い方が、冗談みたいでもあり、本気みたいでもあった。

十五年前の続きみたいで、でもまるで違う。

あのころよりずっと近くで、ちゃんと私を見ている目だった。


蒼真の指が、そっと私の頬に触れた。

触れるだけみたいなやさしさなのに、それだけで意識が全部そこへ向く。


「……蒼真」


名前を呼ぶと、彼の目がわずかに細くなる。

返事はない。

ないまま、顔が近づいた。


また、と思ったときには、私はもう目を閉じていた。


二度目のキスは、一度目よりも静かで、深かった。

確かめるだけじゃなくて、もう少し先まで触れたいと思っているのがわかる。


離れたくないのは、たぶん私も同じだった。


だから今度は、ただ受け止めるだけじゃなくて、自分からわずかに顔を上げて、触れてくる唇に応える。


蒼真が息を止めた気がした。


その反応が伝わってきて、恥ずかしい。

恥ずかしいのに、うれしい。


唇が重なったままの短い時間が、ひどく長く感じる。

十五年分の空白を、少しずつ埋めるみたいだった。


やがて蒼真がゆっくり離れて、でもまだ近いまま、私を見た。

私もたぶん、ひどく困った顔をしていたと思う。


蒼真は何か言いかけて、結局言わずに笑った。

その照れたような表情が、自分だけじゃなかったのだと教えてくれる。


十五歳のときの淡い秘密は、もう昔の思い出のままじゃなかった。

いま触れた熱で、静かに新しくなっていく気がした。



4


蒼真が帰ったあと、私はひとりになった部屋で、しばらく座っていた。

立ち上がろうと思えば立てたのに、なぜかすぐには動けなかった。


さっきまでここに蒼真がいた。

同じ部屋で話して、笑って、触れて。

その気配がまだどこかに残っている気がして、何をする気にもなれなかった。


うれしかった。

それは間違いない。


でも、うれしいだけじゃなかった。


時間が経つほど、別の感情が静かに押し寄せてくる。

胸の奥にたまっていくそれが、不安だと気づくまでに少しかかった。


明日になれば、私はまた白夜に行く。

いつも通り店に出て、いつも通り夜を過ごす。


男の隣に座る。

腕をつかまれることもある。

手を握られることだってあるし、同伴することもある。


それが仕事だ。

今さらそんなこと、考えなくてもわかっている。


けれど、今日のあとでは、その当たり前が急に当たり前のままではいられない気がした。


このままで、いいんだろうか。


そう思ったとき、自分でも答えが出ないことが苦しかった。

このままじゃだめだとして、じゃあ何をどう変えればいいのか。

すぐにやめられる話でもない。

簡単に割り切れる話でもない。


考えようとするほど、何から考えればいいのかわからなくなる。


辞めることはできる。

でも、そのあと私は何をして生きていくんだろう。


その答えだけが、どこにも見つからなかった。

部屋は静かなのに、気持ちだけが少しも静かにならなかった。




蒼い雨 第8話 おわり




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