蒼い雨 第7話
1
土曜日、私は日本橋にいた。
LINEで蒼真は、〈人形町にでも行こう〉とだけ送ってきた。
理由は聞かなかった。
けれど、私もあの町は好きだ。
古いものと新しいものが、きれいに溶け合っているわけじゃない。
雑多で、せわしなくて、それでも歩いていると、なぜか落ち着く。
そういうところが、好きだった。
電車を降りて改札へ向かうと、蒼真はもうそこにいた。
いつもそうだ。
私より先に来て、当たり前みたいに待っていてくれる。
「早いね」
そう言うと、蒼真は笑った。
「美雨も」
「五分前」
「俺は十五分前」
「早すぎ」
人のことは言えない。
私だって、会う日には少し早く着いてしまう。
待たせたくないのもあるし、少しでも早く会いたいのも、たぶんある。
駅を出て、並んで歩く。
蒼真は迷いがない。
今日はもう、行き先を決めているらしかった。
どこへ行くんだろうと思っていると、蒼真が言った。
「ちょっと、見せたいものがある」
「なあに?」
「うん。兜町」
「それだけじゃ、わかんないよ」
私がそう返すと、蒼真は答えずに笑うだけだった。
そういうところが、ずるいと思う。
気になって、ついて行ってしまうから。
やがて蒼真が、一軒の建物の前で立ち止まる。
外観は古い。
けれど、軒先にはかわいらしい暖簾が揺れていて、提灯の形もどこか不思議で、思わず足が止まった。
「わあ……。なにこれ、素敵」
思わずそう言って、私は蒼真を見上げた。
「でしょ。この辺、こういうの多い」
「そうなの? 他にもあるの?」
「うん。中はね、外と全然違う」
「古いのに、新しいってこと?」
「そう。梁とか、ドアとか。昔のまま残ってるほうが、面白いときもある」
蒼真の言葉を聞きながら、もう一度建物を見る。
古いものをただ古いまま置いておくんじゃなくて、ちゃんと今の景色の中に生かしている。
そういうの、蒼真らしい見方だなと思った。
「わあ……」
さっきより小さな声が、自然にこぼれた。
「入ってみる?」
「うん」
蒼真のあとについて、店の中に入る。
外から見たときは、古い建物に目を引かれたのに、中はまた全然ちがっていた。
壁の色は思いきりがよくて、置かれているオブジェはレトロで、でも古臭いわけじゃない。
あちこちに目を奪われる。
カラフルなのに不思議とうるさくなくて、見れば見るほど楽しかった。
私は立ち止まりそうになるのをこらえながら、店内をゆっくり見回した。
知らない場所に来た、というより、知らなかった世界を見つけたみたいだった。
「こういうの好き?」
店の中を見ている私を見ながら、蒼真が言った。
「好き」
すぐに答えていた。
ほんとうに、好きだった。
自分ではなかなか見つけられない場所に連れてきてもらえたことまで、うれしかった。
席についてからも、まだそわそわしていた。
目に入るもの全部が気になって、落ち着かないのに、その落ち着かなささえ楽しい。
やがて、注文していたアイスコーヒーが運ばれてくる。
グラスに触れると、ようやく気持ちが席に戻ってきた。
ひと口飲んで、私は息をついた。
それでやっと、落ち着きを取り戻す。
顔を上げると、蒼真がこっちを見て笑っていた。
「なに?」
「いや。すごい楽しそうだから」
言われて、恥ずかしくなる。
でも、隠すのも違う気がして、私はグラスを持ったまま笑った。
「だって、楽しいもん」
蒼真はまた笑った。
その顔を見ていたら、この店が気に入ったことと同じくらい、蒼真がここへ連れてきてくれたことがうれしいのだと、そんなふうに思った。
「蒼真は、こういうところ、よく来るの?」
「仕事柄ね。どういうふうに残して、どう再利用しているのかを見ることもあるから」
蒼真は店内を見回しながら答えた。
「でも、嫌いじゃない」
「私は、こういうリノベーションっていうのは知ってたけど、実際に来たのは初めて」
アイスコーヒーをひと口飲む。
冷たさが喉を通って、気持ちが落ち着いた。
「なんか、いいね」
「うん」
蒼真は短く返して、また店内を眺めた。
私はストローで氷をかき回しながら、ずっと気になっていたことを口にした。
「あのさ」
「なに?」
「この前、沙耶ちゃんと何を話したの?」
「誰?」
「白夜の」
「ああ」
蒼真は、思い出したようにうなずいた。
「仕事の話とか。美雨と十五年ぶりに会ったって話」
「それだけ?」
思わず聞き返すと、蒼真の口元が少し上がった。
「気になる?」
「……もういい」
からかわれたような気がして、私は視線をアイスコーヒーに落とした。
けれど、蒼真はそんな私を見て、楽しそうに笑っている。
なんだか、むっとした。
「じゃあさ、俺も聞いていい?」
「なに?」
「寺田さんって、よく来るの?」
「そこ、気にしてたの?」
「気にはなる」
「仕事だもん」
「わかってるけど」
蒼真はそう言ったきり、黙った。
店内に流れる音楽と、遠くで食器が触れ合う音だけが耳に入ってくる。
間を置いて、蒼真はもう一度、静かに口を開いた。
「わかってるけど、嫌なもんは嫌だ」
その言葉に、私は顔を上げた。
嫌って……。
そんなふうに、はっきり言い切るとは思っていなかった。
冗談めかして流すのだと思っていたのに、蒼真の表情は思ったより真剣だった。
胸の奥が、わずかにざわつく。
「じゃあ、どうすればいい?」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのかわからなかった。
ただ、蒼真の言葉を聞き流したくなかった。
「今、どうこうしろって話じゃない」
「嫌だから、嫌だって言っただけ」
蒼真はそう言って、グラスに手を伸ばした。
その横顔を見ながら、私はストローを指先でゆっくり回した。
嫌だと言われたことが、なぜか嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥に残って、何度も反芻してしまう。
蒼真が私を気にしている。
その言葉が、しばらく耳の奥に残っていた。
2
カフェを出ると、私たちは目的地を決めるでもなく、散歩をするように歩き始めた。
けれど、私はさっきの蒼真の言葉を何度も思い出していた。
――嫌なもんは嫌だ。
どうしようもないことなのに。
私はずっと、あの仕事で生きてきた。
これからも、簡単に変えられるものではない。
そう思っているのに、蒼真にあんなふうに言われたことが残っていた。
そのとき、突然、腕を引かれた。
「危ない。こっち」
蒼真の声に、はっとする。
前から来た人とぶつかりそうになっていたらしい。
私はまったく気づいていなかった。
「ごめん」
そう言いながら、つかまれた腕に意識が向いてしまう。
触れられたのは一瞬だった。
それなのに、心臓が大きく跳ねた。
お客さんに触れられるときは、相手の意図がわかっている。
どんなふうに触れられるのかも、その先に何があるのかも、ある程度は予測できる。
でも、今の蒼真の動きには、そんな意図はなかった。
ただ危ないから、私を引き寄せただけ。
だから、こんなにもどきどきするのだろうか。
信号が赤になり、私たちは立ち止まった。
その先に、歩道橋が見える。
何気なく見上げると、蒼真も同じように歩道橋を見ていた。
その横顔を見た瞬間、記憶の奥にしまっていた光景が、静かによみがえった。
十五歳の夏。
学校のそばにある歩道橋。
その階段の裏側は、少し人目につきにくくて、十九時を過ぎて薄暗かった。
蒼真は、押してきた自転車を階段の裏に停めていた。
私たちはそこで、並んで立ち話をしていた。
何を話していたのかは、もう思い出せない。
ただ、気づいたら、蒼真の顔が近くにあった。
そして、唇が触れた。
初めてのキスだった。
たぶん、蒼真にとっても。
あのときの私は、驚いて、息をすることさえ忘れていた。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、ずっとこの瞬間を待っていたような気がした。
信号が青に変わる。
蒼真が歩き出した。
私は一拍遅れて、その背中を追いかける。
十五歳の夏から、もう十五年が過ぎている。
それなのに、腕に残った蒼真の手の感触は、あの日の記憶を呼び起こすには十分だった。
3
近くに神社があるから、寄ってみよう。
蒼真がそう言って、私たちは足を伸ばした。
大きな神社ではなかった。
そのせいか、境内に参拝する人の姿はない。
すぐ外の通りにはあんなに人が歩いているのに、そこだけ切り離されたみたいに静かだった。
空気が、違う気がした。
並んで歩きながら、私はぼんやり思う。
十五年ぶりに再会したのに、私たちは不思議なくらい十五年前の話をしない。
白夜で再会したあのときから、ずっとそうだ。
話してはいけないと思っているわけじゃない。
避けているつもりもない。
なのに、どちらからも、その頃のことを口にしない。
どうしてなんだろう。
自分でも、よくわからなかった。
神社を出て、駅へ向かって歩いているときだった。
蒼真が、前を向いたまま言った。
「次、いつ空いてる?」
その言葉に、私は思わず蒼真を見た。
「また、会う?」
聞き返すと、蒼真はすぐに答えた。
「会うけど」
あまりに迷いがなくて、胸が跳ねる。
「決まってるの?」
「決まってる」
間を置いて、蒼真が続けた。
「嫌?」
「え……」
うまく返せないでいるうちに、蒼真はふっと笑った。
「また、連絡するよ」
帰り道、ひとりになって思い返した。
蒼真って、こんなに強引だったっけ。
十五年前は、もっと静かだった気がする。
もちろん今だって全部わかるわけじゃない。
でも、あの頃よりずっと、ためらわずに近づいてくる。
それが意外で、でも、嫌じゃなかった。
嫌じゃないどころか、次はいつ会うんだろうと、もう考えている。
そう思うなら、あのときちゃんと返事をすればよかった。
今さらそんなことを思った。
自分の顔が、緩んでいるのがわかった。
蒼い雨 第7話 おわり




