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蒼い雨  作者: mamio


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6/9

蒼い雨 第6話

1


外は、湿気をたっぷり含んだ空気が肌にまとわりついていた。

昼には雨も降っていて、空はずっと鈍いままだった。


通用口からクラブ白夜に入った瞬間、ひやりとした冷房の空気が肌をなでて、ほっとする。


更衣室で着替えを済ませて、メイクルームへ向かう途中、ちょうど出勤してきたばかりらしい春香ちゃんと鉢合わせた。


「あ、美雨さん、おはようございます」


「春香ちゃん、今来たの?」


「はい」


「また降りそうだよね」


「ほんと、中途半端な天気続きますよね」


そんなことを話しながらすれ違いかけたとき、春香ちゃんがふいに笑った。


「美雨さん、今日なんだか楽しそう。いいことあったんですか?」


「え、そう?」


思わず足を止める。


「特に何もないよ。でも、この天気でまで暗い顔したくないし」


「ですよねー」


そう返しながら、春香ちゃんはそのまま更衣室へ入っていった。


楽しそう、なんて。

そんな顔をしていたんだろうか。


ふと、土曜日のことを思い出す。

蒼真の家で過ごした、ほんの短い時間。

二人掛けのソファで交わしたたわいない話。

本棚に並んでいた建築の本。

バッグを渡されたとき、わずかに触れた指先。


自分で思っていた以上に、あの時間が残っているらしい。


バッグからスマートフォンを取り出し、メイクルームのドアを開ける。

なんとなくLINEを開いて、蒼真とのトーク画面を見る。


最後のやり取りは、土曜日の夜で止まったままだった。


塚越蒼真

〈今日はありがとう〉


〈こちらこそ〉


それだけ。

それだけなのに、画面を閉じる指が鈍る。


私はそのままトップ画面に戻して、スマートフォンをバッグへしまった。


鏡の前に座ると、ちょうどドアが開くのが見えた。

入ってきたのは沙耶ちゃんだった。


「おはようございます」


「おはよう」


沙耶ちゃんは私の隣に腰を下ろし、化粧ポーチを取り出しながら何気ない顔でこちらを見る。


「そういえば、この前の塚越さん」


「ん?」


できるだけ普通に返したつもりだった。


「もう、来ないんですか?」


「知らない。多分、来ないんじゃない?」


来るかどうかなんて、私にだってわからない。

ただ、土曜日の様子を思えば、もう来ない気がした。

それに、私だって彼をお客さんとして見たいわけじゃない。


「えー、感じよかったのに」


「そう?」


「うん。美雨さんが寺田さんの席に行ってる間、少し話して」


チークブラシを持つ手が、そこでぴたりと止まった。

止めようと思ったわけじゃない。

ただ、そのひと言が思ったより耳に残っただけだ。


「へぇ」


それだけ返して、私はまた鏡に向き直った。


沙耶ちゃんは、こちらが聞いてもいないのに、先週の木曜日に蒼真がひとりで来たときの話をし始めた。


「話したって言っても、仕事のこととか」


「そう」


できるだけ興味のないふうに返したつもりだった。

けれど、沙耶ちゃんは気にした様子もなく続ける。


「建築士なんですね」


「うん」


「美雨さんの同級生なんでしょう?」


「そうだけど」


「十五年ぶりなんでしたっけ?」


そこで思わず、私は沙耶ちゃんの顔を見た。

どうして、そこまで知っているのかと思った。


「塚越さんが言ってましたよ」


その答えに、少し引っかかる。

蒼真は、自分からあれこれ話すタイプじゃない。

少なくとも、私の知っている彼はそうだった。


「結構、いろいろ話して楽しかったのに」


「ふぅん」


短く返しながら、鏡の中の自分を見る。

沙耶ちゃんは、いったい何が言いたいんだろう。


こういう言い方は、この子の得意なところだ。

意味ありげに匂わせて、相手の反応をうかがうような話し方。


何を話したのか気になるなら、蒼真に聞けばいい。

そう思う。

思うけれど、聞いたところでどうせ大した話じゃない。

同級生だったこととか、仕事のこととか、その程度だ。


自分の知らないところで、蒼真と沙耶ちゃんが話していたことが気に食わないのか。

それとも、沙耶ちゃんが楽しそうにそれを口にするせいなのか。

自分でも、まだよくわからなかった。



2


開店して最初に席についたのは、たまに私を指名してくれる島田さんだった。

五十代半ばの、いつも物腰のやわらかい人だ。


ソファに腰を下ろして、私はにこやかに笑う。


「いらっしゃいませ。お待ちしていました」


「やあ。今日は少しだけ飲んで帰ろうかと思ってね」


「ありがとうございます。お仕事帰りですか?」


「うん。ちょっと疲れた」


「じゃあ今日は、静かに飲みましょうか」


そう言うと、島田さんはほっとしたように目元をゆるめた。


「そうだね。紫乃ちゃんは落ち着いてて、話しやすいよ」


「うれしいです」


私は口元に手を添えて、ふっと笑った。


島田さんは、たしか通信会社の役員だったはずだ。

店の外では、きっと気の抜けない相手とばかり話している。


「この前お話しされていた会食は、うまくいきました?」


「ああ、あれね。無事に終わったよ。疲れたけど」


「そうでしたか。今日は前より少し、ほっとされている感じです」


「そう見える?」


「ええ。表情がやわらかいですもの」


島田さんが笑う。


「紫乃ちゃんは、いつもよく見てるね」


「そういうところを見るのも仕事ですから」


「じゃあ今日は何点?」


「九十八点です」


「マイナス二点は何?」


「飲みすぎなかったら、帰る頃に足してあげます」


「厳しいなあ」


そんなふうに、軽く笑える話をつないでいく。

島田さんは、高いお金を払ってまで仕事の話をしたい人じゃない。

もちろん、そういうお客さんもいるけれど。


「今度はさ、うちの若いやつも連れてくるよ」


「ええ、ぜひ」


私は笑顔を崩さないまま頷いた。


「若い方でしたら、桜ちゃんのほうが話しやすいかもしれないですね。流行にも詳しいですし」


「若いやつはそれでいいけど、俺はやっぱり紫乃ちゃんが落ち着くねぇ」


「ありがとうございます」


そう返して、また笑う。

こういう言葉を、きれいに受け取るのも仕事だ。


けれど今夜の私は、ちゃんと笑えているはずなのに、どこか気持ちが上滑りしている気もした。

ふとした拍子に、鏡の前で聞いた沙耶ちゃんの声が戻ってくる。



3


島田さんを玄関まで見送って、その足でバックヤードに戻った。

少し化粧を直そうと思ってメイクルームへ向かう途中、沙耶ちゃんと鉢合わせる。


すれ違いざま、彼女が声をかけてきた。


「美雨さん」


「なに?」


「塚越さんとは、外でも会ってるんですか?」


そのひと言に、一瞬だけ言葉が詰まった。


「……なんで?」


沙耶ちゃんは、意味ありげに笑う。


「なんとなく」


その顔が少し癪にさわった。


「会ったよ」


別に、嘘をつくようなことでもない。

同級生なんだから、店の外で会ったっておかしくはない。

客として会ったわけでもない。


「へぇ」


沙耶ちゃんが目を細める。


「デート?」


「違うけど」


そう答えながら、じゃああれは何だったんだろうと思う。

違うと口では言えても、きっぱり片づけられるほど簡単でもない。


沙耶ちゃんは、そのまま私の顔を見ていた。

反応を見ているのが、ありありとわかる。


「私も、もうちょっと話してみたかったなぁ」


だから何。

そう思う。

でも、こういうふうにはっきり言い切らないところが、この子は面倒くさい。


「そう」


短く返す。


もし沙耶ちゃんが誘ったら、蒼真は応じるんだろうか。

わからない。

そもそも、私に止める理由なんてない。

心の中で何を思っていても、それは別の話だ。


「そういえば、あの日ちょっと余計なこと言っちゃったかも?」


「あの日?」


「塚越さんに」


足を止めたまま、私は思わず振り返った。


「紫乃さん、人気ありますからって」


「それだけ?」


「店の外でも、お客さんと会ったりするしって」


返事が詰まる。


嘘ではない。

同伴だってあるし、アフターだってある。

仕事として、店の外で会うことはある。


それでも、わざわざ蒼真に言う必要があったのかと思った。


「わざわざ、言わなくてもよかったんじゃない?」


「そうですよね。ごめんなさい」


謝りながらも、沙耶ちゃんの顔にはどこか探るような色が残っていた。


「でも、美雨さん、塚越さんのことになると、ちょっと違いますよね」


「何が言いたいの?」


「ちょっと気になっただけです」


付き合っていられない。

私はメイクルームのドアを開けた。



手早く化粧を直して、またフロアへ戻る。

沙耶ちゃんは自分の席で、弾けるような笑い声を上げていた。


きれいな子だと思う。

快活で明るくて、ああいう華やかな笑い方がよく似合う。

蒼真とも、あんなふうに笑って話していたんだろうか。


そこまで考えて、急に嫌になる。


何を考えているんだろう。


相手が沙耶ちゃんだから気になるわけじゃない。

たぶん、誰だって同じだ。

私は最初から、気にしていたのだ。



4


午前一時。

閉店して、店を出たのは一時半だ。

外に出てから、スマートフォンを見た。


LINEにメッセージが来ていた。

蒼真だった。


塚越蒼真

〈今度いつ空いてる?〉



『私も、もうちょっと話してみたかったなぁ』


沙耶ちゃんの言ったことを思い出して、予定を見ないで返信した。


〈土曜日なら大丈夫〉


なんだか、焦って返信したみたいで後悔した。


すぐに返事が返ってきた。


沙耶ちゃんが誰と話していても、いつもなら気にならない。

なのに、蒼真のことだけは違う。


その違いが何を意味するのかまで考えかけて、私はやめた。

考えたところで、どうにもならない。


スマートフォンの画面を見る。

そこには、蒼真とのやり取りがそのまま残っていた。


塚越蒼真

〈じゃあ土曜〉


短いその文字を、しばらく見つめていた。


画面を閉じる気になれなかった。




蒼い雨 第6話  おわり



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