蒼い雨 第5話
1
いつもより少し暇だった木曜日、私は蒼真からLINEのIDを教えられた。
名刺はもうもらっていたけれど、そこに書いてあるメールアドレスは仕事用だから、と蒼真は言った。
まあ、そうだろうと思う。
お客さんなのだから、むしろそれが普通だった。
帰り際、蒼真は内ポケットから二枚目の名刺を取り出した。
私に渡すためのその名刺の余白に、LINEのIDが手書きで添えられている。
「時間ある時に、追加しといて」
軽い調子でそう言われて、私はただ頷いた。
家に帰ってからそのIDを検索すると、すぐに蒼真のアカウントが出てきた。
追加しただけで、こちらから何か送ることはしなかった。
メッセージが来たのは、翌日になってからだった。
塚越蒼真
〈明日、平気?〉
短い文だった。
用件だけの、そのぶっきらぼうな聞き方が、蒼真らしいと思った。
〈午後なら〉
そう返すと、それ以上やりとりは続かなかった。
そして土曜日の今日、私は清澄白河駅に着いていた。
特に深く考えることもなく、服はいつもと同じような普段着だった。
空は一面の曇りで、雨は降りそうで降らない。
空気だけが、じっとりと肌にまとわりつく。
改札を出ると、蒼真はもう待っていた。
この前会った時とは違って、今日は機嫌がよさそうに見える。
「昼ごはん食べた?」
昼ごはんと言っても、もう十四時だ。
「十一時くらいに少しね」
「じゃあ、お茶でいいか」
それだけ言って、蒼真は自然に歩き出した。
私はそのあとについていく。
清澄白河がどんな街なのか、私はよく知らなかった。
でも歩きながら、カフェが多いんだなと初めて思う。
気取っているというより、静かで、余裕のある街だった。
古い倉庫を生かした店や、川沿いにゆっくりできる店も多いらしい。
蒼真はこの辺りに慣れているのか、迷う様子もなく周囲を見やった。
そうして一軒のカフェの前で足を止めると、何でもない顔でドアを開けた。
その仕草が、慣れているように見えた。
席に座ってから、私は店の中をそっと見回した。
明るすぎず、静かすぎもしない、落ち着いた雰囲気だった。
こういう店は好きだと思う。
しばらくしてアイスコーヒーが運ばれてきて、私たちはひと息ついた。
「機嫌は直った?」
笑いながら、からかうようにそう言う。
「うん。今日、会えたから」
蒼真は、ためらいもなくそんなことを口にした。
ああ、こういうところは昔から変わらない。
思ったことを、変に飾らずそのまま言ってしまう。
子どもの頃から知っている相手だからなのか、蒼真は私の前ではときどき拍子抜けするほどまっすぐだ。
たぶん、それは私も同じだった。
今日だって、この前だって、何を着て行こうかなんてほとんど迷わなかった。
気を張るより先に、昔から知っている相手だという安心のほうが勝ってしまう。
「もう、店には来ない?」
そう聞くと、蒼真は少し間を置いた。
「……たぶん」
「どうして?」
わかっている。
わかっているのに、私は聞いてしまう。
「見たくないもの、多いから」
その答えを聞いて、胸の奥が重くなった。
蒼真が何を見たくないのか、私はわかっている。
わかっていて、それでも言葉にさせた自分の意地の悪さにも気づいていた。
三十歳になった蒼真のことを、私はまだ全部知っているわけじゃない。
それでも、少なくとも私と向き合っているこの時間の蒼真は、どこか昔のままだ。
少年みたいに不器用で、まっすぐで、隠し方があまり上手くない。
2
一時間ほどカフェで過ごしたあと、店を出てからはそのまま街を歩いた。
この街を歩いてみたかったのは、私のほうだった。
「ここ、うちから近いのに、清澄白河って全然知らなかった」
思ったままを口にした。
「いいところだよね」
「うん。いいところ。美雨はさっき月島って言ってたけど、あっちのほうが下町っぽいよね」
「そうね。下町っぽい。でも、タワーマンションも建ってるし」
「建築士って、タワーマンションも建てるの?」
「うちの会社では、あんまりかな」
蒼真は考えるようにしてから続けた。
「もっと大きい商業施設とか、そういうのが多いかも。けど、仕事は地味だよ。打ち合わせして、現場行って、図面書いて、また図面見て。竣工までも長いし」
並べられた言葉はどれも堅そうなのに、蒼真が言うと不思議と遠く感じなかった。
きっと毎日のように向き合っている仕事だからだろう。
「私にはよくわからないけど、忙しいんだね」
「でも、何にもないところから、大きな形にしていくって、見ていて嬉しいだろうね」
そう言うと、蒼真は苦笑するように笑った。
そんなふうに話しながら歩いているだけなのに、知らない街の景色まで特別に見える。
ふと、思ったことが口をついた。
「なんか、蒼真はすごい家に住んでそう」
「なんで?」
「建築士だから」
言った途端、蒼真が声を立てて笑った。
思っていたよりずっとおかしそうに笑うから、私はむっとする。
「そんなにおかしい?」
「うん。おかしい」
まだ笑っている。
その笑い方につられそうになりながら、私は唇を尖らせた。
すると蒼真が、笑いの残る声で言った。
「ここから近いよ。見る?」
一瞬、息が止まる。
意味を考えるより先に、何かが揺れた。
けれど、戸惑いよりも興味のほうが勝った。
「見たい」
3
思いがけず、蒼真の家へ行くことになった。
自分でも不思議なくらい、ためらいはなかった。
清澄白河駅からどれくらい離れていたのか、よくわからない。
あちこち歩き回った流れのまま、気がつけばここまで来ていた。
蒼真の家に向かっているというより、蒼真と歩いた先にたまたま家があった、そんな感じに近かった。
目の前の建物は、いかにもマンションらしい外観をしていた。
独身者向けのすっきりした感じではなく、もっと生活の気配が濃い。
ひとり暮らしの男の人が住むというより、家族で暮らす人たちのための場所に見えた。
玄関前にベビーカーを置いた部屋もあって、ひとり暮らし向けというより、家族で暮らす人の多いマンションらしかった。
風通しがよくて、南向きなのか明るかった。
蒼真は慣れた手つきで玄関のドアを開けて、私を振り返った。
「入って」
言われるまま中へ入って、私は目を見開いた。
思っていたより、ずっと広い。
「広いね」
「ひとりにしては広いかも」
「でも、こだわり感じる」
「そう?」
「照明とか、椅子とか。なんか、蒼真っぽい」
そう言うと、蒼真は少し不思議そうな顔をした。
「十五年会ってなかったのに?」
たしかに、その通りだった。
十五年。
口にすると長いのに、こうして向かい合っていると、その時間が本当にあったのか曖昧になる。
「なんとなく」
自分でもうまく説明できないまま、私はそう答えた。
本棚には、建築やデザインの本、写真集のような大きな本が多く並んでいた。
仕事に関係しているのだろうと思う。
あの名刺に書かれていた肩書きを、私はふと思い出した。
水菱地所設計の一級建築士。
文字だけで見たときにはどこか遠かったそれが、部屋の中の空気や家具の選び方と結びついて、急に輪郭を持ちはじめる。
私はまだ座りもせず、部屋の中をゆっくり見回していた。
蒼真は、キッチンへ入っていった。
「その辺、座ってて。コーヒーくらい出すよ」
私は返事をする前に、もう一度だけ部屋を見た。
ここで蒼真は暮らしているのだと思った。
朝、起きて。
服を選んで。
仕事へ行って。
帰ってきて、またこの部屋に入る。
その繰り返しの中にいる蒼真を、私は知らなかった。
知らなかったはずなのに、照明の色も、椅子のかたちも、整いすぎない本棚の並び方も、どこか納得してしまう。
ああ、この人はこういうふうに生きてきたのだ、と。
中学生の頃の記憶の中にいた蒼真と、名刺の肩書きの中にいた蒼真と、今ここでコーヒーを淹れようとしている蒼真が、ひとつにつながった気がした。
4
蒼真の住むマンションは、部屋がふたつあった。
小さいながらダイニングとリビングもきちんと分かれていた。
私からすれば、ずいぶん余裕のある暮らしに見えた。
もちろん、だからといって自分の部屋が悪いとは思わない。
私は私で、あの部屋にちゃんと満足している。
ただ、蒼真の部屋には、自分の知らない種類の落ち着きがあった。
キッチンから戻ってきた蒼真が、コーヒーの入ったマグカップをリビングテーブルに置く。
「座らないの?」
そう言われて、私は気づいた。
この部屋に入ってから、ずっと立ったままだった。
促されるままソファに腰を下ろす。
二人掛けのそれは、ひとりで見るより実際に並んで座ったほうが近かった。
その距離で初めて、私は自分が男の部屋にいるのだと実感した。
浅く腰かけて、マグカップを手に取る。
そのまま背中に、視線を感じる。
蒼真はソファの背にもたれて、背もたれの上に腕をかけていた。
たぶん、私を見ている。
そう思っただけで、妙に背中が意識された。
仕事では、お客さんに必要以上に触れられることがある。
もちろん、露骨に常識を外れたことをする人ばかりではない。
それでも手を握られたり、膝に手を置かれたりするくらいなら、珍しくもなかった。
慣れている、というわけではない。
ただ、いちいち動揺していたら務まらないだけだ。
それなのに。
もし今、私がこのままソファの背にもたれるように座ったら、蒼真の腕が肩に触れるかもしれない。
そんなことを思った途端、意識がそこにばかり向いてしまう。
触れられたわけでもないのに、もう近い。
仕事のときとはまるで違っていた。
私はマグカップに口をつけるふりをして、そっと息をついた。
落ち着こうとしていることを、気づかれたくなかった。
せっかく家まで来たのに、結局していたのは雑談ばかりだった。
このあたりは大通りから離れていて静かだとか、ひとりで暮らすには少し広すぎるだとか。
そんなことを、途切れそうで途切れない調子で話していた。
ふと時計を見ると、十七時になっていた。
「そろそろ帰ろうかな」
そう言って立ち上がると、蒼真も一緒に腰を浮かせた。
「送るよ」
「ありがと」
玄関で靴を履くあいだも、蒼真がそばにいる気配がする。
床に置いていたバッグを取ろうとしたとき、先に彼が手に取って差し出してくれた。
受け取る拍子に、指先が触れる。
その手が、思っていたより温かかった。
それだけのことで、胸が波打った。
外へ出ても、まだ明るい。
この時期は少しずつ日が長くなって、かわりに雨の気配が増えていく。
空は白く曇っているのに、夕方にはまだ遠かった。
並んで歩きながら、蒼真がふいに言った。
「今度、美雨の部屋も見てみたい」
思わず、隣を見る。
「なんで?」
「俺んち見たから」
「交換条件なの?」
「そういうことにしといて」
冗談めかしているのに、その言い方はどこか本気にも聞こえた。
十五歳の男の子は、三十歳になり面影だけを残していた。
名刺に書かれていた一級建築士という肩書きも、今はうまく重ならなかった。
ただ、自分の知らない場所で毎日働いて、毎日ここへ帰ってきて、あの部屋で暮らしている。
そんな当たり前のことだけが、確かなものとして私の中に残っていた。
私は、今日になって初めて、蒼真をひとりの男として見たのだと思う。
蒼い雨 第5話 「 」




