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蒼い雨  作者: mamio


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4/9

蒼い雨 第4話

1


木曜日だった。


例外はある。

けれど、なぜか木曜日は客が少ない。

少ない、という言い方も曖昧だ。

そんなものは店によって違うし、女の子の感覚でも変わる。

それでも二十二時を過ぎたこの時間で、まだ半分以上の席しか埋まっていないとなれば、今日は静かな夜だと言ってよかった。


店の中は、ひどく落ち着いて見えた。

氷の鳴る音も、グラスの縁に触れる指先も、笑い声も、どこか薄い膜を一枚かぶせたみたいに遠い。

忙しすぎる夜は何も考えずに済むけれど、こんなふうに余白がある夜は、見たくないものまでよく見える。


いま私がついているのは、テレビ局勤務の人だ。

部下をふたり連れてきている。

その真ん中に座っているのが寺田さんだった。


四十代後半。

年齢のせいではなく、肩書きと立場に甘やかされてきた人特有の、嫌なふくらみ方をした偉そうさがある。

自分は多少無作法でも許されると、本気で思っている顔だった。


こういう人は、言葉の端より先に、手が出る。


銀座の高級クラブは、外から見える華やかさとは少し違う。

どこまでが客の愛嬌で、どこからが無遠慮か。

その線引きは、思っているよりずっと厳しい。

もちろん店によって違うし、はっきり境界線が引かれているわけでもない。

けれど、女の子が嫌だと思った時点で、それはもう見過ごしていいことではなかった。


寺田さんは、今日も何度も私の手を握った。

やめてくださいと口に出すほどではない、その半端さがいちばん厄介だった。


私は笑っていた。

そうしながら、この人は今日も同じことをするのだと、どこか冷えたところで考えていた。


どこからどこまで、という決まりはない。

少しくらいなら、と流してしまえば、相手はそれでいいのだと思う。

次はもう少し踏み込んできて、その次はさらに曖昧になる。


寺田さんの指が、また私の手に重なった。


その瞬間、私は顔を上げた。

少し離れた場所に立っていた黒服と目が合う。

ほんの一瞬だけ。


それで充分だった。


黒服はすぐにこちらへ来て、まるで最初からそういう段取りだったみたいに、新しいボトルを確認するふりをして、私が手を引く隙もつくってくれる。


寺田さんは気づいていないふりをした。

あるいは本当に、気づいていないのかもしれなかった。 


私はもう一度、いつもの笑顔をつくった。


この程度なら、まだ夜は壊れない。

そう思いながらも、指先には、さっきまで触れられていた感触だけが、薄く残っていた。



2


今日は暇だった。


寺田さんの席にも女の子は足りている。

部下をふたり連れてきているぶん、会話の相手は私ひとりでなくても十分に回る。

だから、ずっと付きっきりでいる必要はなかった。


グラスを置いたところで、背後に人の気配が近づく。

黒服だとわかったのは、足音ではなく、こちらに声をかける前のあの一瞬の間だった。


私はソファに座ったまま、肩越しに振り返る。


黒服は腰を低くして、周りに聞こえないくらいの声で言った。


「塚越様がお見えです」


え、と小さく漏れた声は、自分でも思ったより素直だった。


反射みたいに入口のほうを見る。

蒼真が、フロアの手前に立っていた。


店の光は誰にでも多少の見栄えを与える。

でも、蒼真はそういうものに助けられている感じがしなかった。

背の高さも、立ち方も、昔より輪郭が鋭くなっているのに、見間違えようのない顔だった。


どうしてここにいるの。

そう思ったのに、足はもう席を立っていた。


寺田さんには軽く断って、私はそのまま玄関まで出る。

近くまで行って、気づいた。

先日、一緒に来た常連の藤原さんがいない。


私は蒼真の顔を見上げた。


「ひとり?」


 

「うん」


短い返事だった。


それがかえって落ち着かない。

藤原さんに連れられて来たのではなかった。

自分の意思でここに来たのだと、その一言だけでわかってしまったからだ。


私は彼のそばに立って、少し顔を寄せる。

店の入口で立ち話を長くするわけにもいかない。

囁くみたいな声で言った。


「高いよ。ここ」


冗談めかしたつもりだった。

でも本当は、こんな場所にひとりで来る理由を、先に軽く否定してしまいたかったのかもしれない。


蒼真は笑ったようだった。

曖昧で、逃げない顔だった。


「何しに来たの」


そう聞いた私の声は、自分が思うより冷たくなかった。


蒼真はためらわなかった。


「美雨に会いに来た」


会いに来た。

まっすぐすぎて、受け止める場所に困る。


十五歳を懐かしんで。

それとも、紫乃に会いに。


違うだろう、美雨にと言った。


店内から、グラスの触れ合う乾いた音が聞こえる。

いつもと同じ夜の音なのに、ここだけ空気が薄い。


私は蒼真を見た。

見れば見るほど、昔の輪郭と今の表情が重ならない。

なのに、ときどき不意に、あの頃のままの目をする。


困る。

そんなふうに来られると、困る。


「会いに来たって」


私は自嘲気味に言った。

責めるみたいにならないように、でも簡単には受け取らないように、声の置き方を選びながら。


「そういうの、急すぎるんだけど」


蒼真は言い訳をしなかった。

それが余計に、私の調子を狂わせる。


店の入口に立ったままではいられない。

私は仕事中で、ここは私の居場所で、蒼真は客として来た。

それなのに、それだけでは済まない気がしてしまう。


「……案内してもらうから、少し待ってて」


そう言ってから、私は一度だけ目を伏せた。


会いに来た。

その言葉が、思っていたよりずっと長く、胸の内側に残っていた。



3


蒼真は、こういう店に慣れているようには見えなかった。


それは、当然といえば当然だった。

三十歳で、仕事でもないのにこういう店にひとりで馴染んでいる人は、そう多くない。

ここへ来る人の多くは、金に余裕があるか、仕事の接待で使うか、そのどちらかだ。

経営者や接待の客は帰り際に領収書を受け取っていくけれど、蒼真はそういう類ではない。


今日の彼は、藤原さんと一緒に来たときより、明らかに落ち着かなかった。


ソファに腰を下ろしても、視線の置き場が定まらない。

グラスに触れる指先も、店内を見回す目も、居心地の悪さを隠しきれていなかった。


私は蒼真の向かいに座ったまま、近くを通った黒服を呼び止める。


「藤原さんのボトル、持ってきて」


黒服は一瞬だけ私を見たけれど、何も言わずに頷いた。


ボトルを新しく入れれば、そのぶん高くつく。

蒼真は、たぶんそういうことまで考えていない。

けれど藤原さんは、こんな細かいことを気にする人でもなかった。

あとで何か言われたとしても、どうにでもなる程度のことだ。


蒼真はまだ、居心地悪そうな顔をしていた。


「こういうところ、ひとりで来る人いるの?」


探るようでもなく、ただ純粋に不思議そうに聞く。

私は水割りのグラスに視線を落としたまま答えた。


「いるよ」


「美雨目当てで?」


思わず顔を上げた。


蒼真は、変に笑ってもいなければ、からかっているふうでもなかった。

ただ、本当に知りたいことだけをそのまま口にしたような目をしていた。


「私だけじゃないと思うよ?」


そう返すと、蒼真は眉を寄せていた。


「なんで?」


「いや……」


言葉を濁して、蒼真が曖昧に笑う。


「ちょっと、気になった」


ちょっとね、と思う。


男の言う「ちょっと気になった」が、本当は全然ちょっとじゃないことくらい、わかる。

この仕事をしていれば、そのくらいは自然とわかるようになる。

何気ない顔で聞く人ほど、聞きたいことは別のところにある。


でも、それを蒼真に向かって言う気にはなれなかった。


ボトルが運ばれてきて、私は慣れた手つきでグラスを整える。

藤原さんの名前が入ったそれがテーブルに置かれると、蒼真は一瞬だけ、申し訳なさそうな顔をした。


「別に、気にしなくていいよ」


私がそう言うと、蒼真は頷いた。


店の中は相変わらず、静かだった。

騒がしくないぶん、隣の席の笑い声や、遠くで氷の当たる音がよく聞こえる。

そういう夜は、会話の切れ目までやけにはっきりする。


新しいお客さんを案内した黒服が、私たちの席の脇の通路を通っていく。

そのあとを歩いていたのは、前についたことのある客だった。


見覚えのある顔だと気づいた瞬間、向こうも私に気づく。


彼は通り過ぎざまに、軽く手を上げて笑った。


「紫乃ちゃん、あとで来てよ」


その名前が耳に入った途端、空気がわずかにずれた気がした。


私はとっさに笑って、「ありがとうございます」とだけ返す。

それが店の中の私の顔だった。

何も引っかからないように、何も残さないように、きれいに受け取って流すための顔。


けれど、通り過ぎたあとの数秒だけ、視線の置き場に困った。


紫乃。

もうすっかり馴染んでいるはずの、店の中の名前。

呼ばれるたびに、それは私であって私ではないものとして、ちゃんと使い分けてきたはずなのに。


いまは、そのたった二文字が生々しく感じる。


蒼真が何を思ったのか、私はすぐには見なかった。

見たらたぶん、何かを読もうとしてしまう。

読めたとしても困るし、読めなかったらもっと困る。


だから私は、テーブルの上のグラスを整えるふりをして、ほんのひと呼吸ぶんだけ間を置いた。


この店では、紫乃が私だ。

蒼真の前では、美雨が私だ。

どちらも嘘じゃないのに、同じ場所に並ぶと、息が詰まる。


それでも顔を上げたとき、蒼真は何も言わなかった。


何も聞かず、ただ静かにこちらを見ていた。

その沈黙が責めるものではなかったからこそ、私はかえって落ち着かなくなる。


店の灯りは柔らかいのに、隠したいものばかりがうっすら照らされる。



4


沙耶ちゃんが、こちらへ近づいてきた。


店の空気を読むのがうまい子だ。

私と蒼真の席の前で足を止めると、柔らかく笑って言った。


「桜です。よろしくお願いしますね」


桜とは、沙耶ちゃんのこの店で使っている名前だ。


そう言いながら、蒼真の隣に自然に腰を下ろす。

その一連の動きがあまりに滑らかで、見ているこちらのほうが息を止めた。


ちょうどそのとき、別の黒服が私に目配せをした。

寺田さんが呼んでいるのだと、言葉にされる前にわかる。


私は蒼真にひとこと断って、席を立った。


戻った寺田さんの席では、本人だけがひどく上機嫌だった。


「紫乃ちゃん、どこ行ってたのー」


語尾の間延びした声と一緒に、腕を引かれる。

私は体勢を崩さないようにしながら、そのまま隣に座った。


どうにか理由をつけてでも触りたいのだろう。

そんなことは、もうとっくにわかっている。


「ちょっとほかの席に」


笑って返しながら、さりげなく腕を引く。

けれど寺田さんは気にした様子もなく、すぐにまた肩に手を置いた。


私はグラスを整え、氷を見て、水割りの濃さを確かめる。

そうやっていつもの仕事をしながら、視線の端だけは別の場所に向いていた。


蒼真の席だった。


蒼真も、ときどきこちらを気にしているようだった。


見ないでほしいような、見ていてほしいような、どちらともつかない気持ちになる。


沙耶ちゃんは、客を転がすのがうまい。

甘え方も、間の取り方も、相手に気を遣わせない笑い方も、ちゃんと知っている。

蒼真が初めてこういう店にひとりで来た客だとしても、居心地悪くさせないくらいのことは簡単にできる子だった。


それでも蒼真は、あまり気が乗らない顔をしていた。


無愛想というほどではない。

失礼な態度でもない。

ただ、そこにいても心だけ別のところにあるみたいな、そんな顔だった。


寺田さんがまた私の手を取った。


「紫乃ちゃん、今日なんか冷たくない?」


酔った声でそんなことを言う。

私は笑って、でも手はやんわりほどく。


「そんなことないですよ」


こういうやり取りに疲れた顔を見せないことも、もうできる。

けれど今日ばかりは、どうしても意識が散った。


肩に置かれる手。

指先にまとわりつく重さ。

そのひとつひとつを、蒼真に見られている気がした。


実際に見ているのかはわからない。

でも、そう思っただけで落ち着かなくなる。


紫乃として座っているときの私は、嫌なものを嫌だと悟らせずに、きれいにかわすことを知っている。

嫌なものは嫌だと知っていても、店の空気を壊さない程度にかわして、相手の機嫌もなるべく損ねずにやり過ごす。

それが仕事だった。


なのに今日は、その仕事の輪郭がぶれる。


蒼真の前でまで、こんなふうに見えていたくない。

そう思う自分がいることが、いちばん厄介だった。


目の端でまた蒼真の席を探してしまう。


沙耶ちゃんが何か言って、蒼真が小さく頷く。

けれどその表情は、やっぱりどこか晴れなかった。


会いに来たと言ったくせに。

自分で来たくせに。

そんな顔をするなら、来なければよかったのに。


心の中でそう思って、すぐに後悔する。


たぶん、困っているのは私だけじゃない。


寺田さんの笑い声が近くで弾けた。

私ははっとして、いつもの顔に戻る。


この店で座っているかぎり、私は紫乃だ。

それでも、忘れたくなる瞬間がある。

今日みたいに、蒼真がこんな場所までひとりで来てしまう夜には。



5


寺田さんを外まで見送って、フロアへ戻る。


扉の向こうに出たときの夜気は涼しかったのに、店内へ足を踏み入れた途端またいつもの空気が肌にまとわりついた。

もう慣れているはずのそれらを抜けて、私は蒼真の席へ戻る。


沙耶ちゃんは、ちょうどいいところで別の席へ移っていた。

さすがだなと思う。

空気の引き際がうまい。


「お待たせ」


そう言って座った瞬間、蒼真の顔を見て、ああ、と思った。


不機嫌だ。


露骨にむすっとしているわけではない。

けれど、この仕事をしていれば、そのわずかな差で機嫌くらいわかる。

目線の落とし方も、返事までの間も、グラスの持ち方も固い。


たぶん本人は無意識だ。

気づかれたくて出している顔ではない。


蒼真が不機嫌になる理由なんて、私にはわからなかった。

十五歳の私が、彼の中で特別だったからなのか。

今の私を、気にしているからなのか。

それとも、昔好きだった女が、こうしてほかの男たちに囲まれているのを見るのが嫌なのか。


どれでも違う気がしたし、どれでもあり得る気がした。


私はグラスに手を伸ばしながら、口元をゆるめる。


「機嫌悪い?」


からかうように言ってみると、蒼真はすぐに顔を上げた。


「悪くない」


返事は早かった。

早すぎて、可笑しい。


「そう?」


「そう」


短く言い切るくせに、声の調子はまるで隠せていない。

私は思わず笑いそうになって、でも笑いすぎないようにグラスに視線を落とした。


蒼真は黙ったあと、観念したみたいに息を吐いた。


「……仕事だってわかってる」


私は何も言わずに、その先を待った。


「でも、ああいうのを見るのは好きじゃない」


その言葉が耳に入った瞬間、心臓が波打つ。


ああ、と思う。


妬いているんだ、と。


それがわかっただけで、嬉しいと思ってしまう自分がいた。

恋人でもないのに。

何の約束もない相手の、わずかな感情の揺れに勝手に意味を見つけて、喜んでしまうなんて、ずいぶん滑稽だ。


でも、その滑稽さを笑えないくらいには、私はうれしかった。


「そっか」


そう返した声が、自分でも思うよりやわらかかった。


蒼真は気まずそうに視線をそらした。

言ってしまったことを、後悔している感じだった。


けれど私は、そこを深く追わなかった。

追えば、壊れてしまいそうな気がした。

せっかく零れた本音を、慌てて冗談に戻されるのも嫌だった。


だから私は、いつもの調子を取り戻したふりをして言う。


「見たくないなら、来なきゃよかったのに」


ほんの少し意地悪く。

でも、責めるほどではなく。


蒼真は苦笑する。


「それは思った」


「でしょ」


「でも、来たかったし」


その一言に、また胸が静かに鳴る。

来たかった。

会いに来たと言ったときと同じで、蒼真はこういう言葉を変に飾らない。

まっすぐすぎて、受け取るたびに困る。


木曜日の夜は、相変わらずどこか余白があった。

賑わってはいるのに、忙殺されるほどではない。

そのせいか、蒼真と向かい合っているこの時間だけが、店の中のほかの席とずれて流れている気がする。


そのあと、私たちはぽつぽつと話した。

大したことではない。

何を話していても、テーブルの真ん中に見えない熱が残っているみたいだった。


やがて帰る時間になって、蒼真は席を立った。


私は玄関まで見送る。

店の灯りが届くぎりぎりのところで、蒼真は言いにくそうに足を止めた。


「今度さ」


「うん?」


「できればまた、昼に会いたい」


昼。


その言い方が、私にはうれしかった。

この店じゃない場所で。

紫乃ではない私に会いたいと、そう聞こえたからだ。


「いいよ」


気づけば、そう言っていた。

たぶん私も、また昼の蒼真に会いたかった。


店の外には、もう深い夜が広がっていた。

けれど次に会う約束は、夜ではなく昼の中にある。




蒼い雨 第4話 おわり




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