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蒼い雨  作者: mamio


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3/8

蒼い雨 第3話

1


土日、白夜は休みだ。

あの店は、休日にわざわざ向かう場所じゃない。

仕事帰りに、どこか別の店で軽く飲んで食べたあと、すぐに帰りたくない人が流れ着く場所だ。

しらふで来る人は、あまりいない。


土曜日の今日は休みで、私は財布に入れたままだった蒼真の名刺を取り出した。

連絡すると約束したわけじゃない。


「考えとく」


あのとき、私はそれしか言っていない。


名刺が財布の中にあることは、ずっとわかっていた。

連絡を取らないからといって、捨てる気にもなれなかった。


「どうしようかな」


ひとりの部屋で、私はつぶやいた。


十五のとき、私は彼が好きだった。

まだ子どもだったから、先のことなんて何ひとつ考えずに好きになれた。

先入観も、計算も、利害もなかった。


でも、今はどうだろう。

十五年なんて、短くない。

その時間が人をどれだけ変えるのか、私にはわからない。

今の蒼真がどんな人なのか、私は知らない。


仕事を離れた場所で会いたいかと聞かれたら、会いたい気もした。

名刺には、メールアドレスが印刷されている。


少し迷ってから、私は短く打った。


〈この前の話、日曜日なら大丈夫〉


返事は、すぐに来た。



2


翌日の日曜日の昼、私は蒼真と待ち合わせをしていた。


休日の私は、ほとんど化粧をしない。

それでも今日は、日焼け止め代わりに薄くひと通りだけ整えた。


髪も巻いていない。

巻かなくても、もともと癖がある。


服も普段通りだった。

店に入れば着替えてしまうのだから、通勤のためにきちんとした服を選ぶ習慣はない。


蒼真に会うからと、きれいに装うことはしなかった。

懐かしいから、ゆっくり話したいだけだろう。

同級生なんだから、そういう気持ちになってもおかしくない。


東京駅に着くと、約束していた改札の前に蒼真が立っていた。

私を見つけると、まっすぐこちらを見て言った。


「この間もわりとすぐ美雨だってわかったけど、今日のほうがいい」


クラブ白夜にいる私と、今ここにいる私は、たしかに違う。

蒼真には、どちらがどう見えているのだろう。


「あの日も今日も美雨よ」


そう返してから、私は笑った。


「でも、名前を呼ばれなかったら、私のほうはすぐには気づかなかったかも」


並んで歩き出すと、蒼真は知らない人みたいだった。

もう客ではなくて、十五の夏に好きだった男の子でもない。


最後に会ったあの夏より、たぶん二十センチ近く背が伸びている。

あのころは、隣にいても見上げることなんてなかった。


今は少し、見上げる。

そのことだけでも、十五年という時間を思い知らされる気がした。



通りすがりのカフェに腰を落ち着けた。

ゆるんだ空気のまま、蒼真がカップに口をつけてから私を見た。


「なんで、今の仕事選んだの?」


やっぱりそこは聞くんだ、と思った。

聞かれて困ることでもない。

ただ、うまく説明しにくいだけだ。


「別に、何かあったわけじゃないの」


そう前置きしてから、私はミルクの入ったコーヒーをひとくち飲んだ。


「アルバイトしてたエステサロンに通ってたママに誘われたの」


「へえ」


蒼真は驚いたようでも、呆れたようでもない顔で聞いている。

そのことに安心する。


「やってみたら、向いてるみたいで。気づいたら長くなってた」


自分で言いながら、ずいぶんあっさりした理由だと思った。

でも、本当にそれ以上でもそれ以下でもなかった。

強い覚悟があったわけでも、どうしてもそこしかなかったわけでもない。

ただ流れの中で始めて、続けてきただけだ。


蒼真はしばらく黙って、それから言った。


「じゃあ、好きとか楽しくてやってる?」


好き。

楽しい。

その言葉を胸の中で転がしてみる。

ぴたりとはまる感じはしなかった。


「どうだろう」

「好きっていうか、向いてるとは思ってる」


口にしてみると、それがいちばん近い気がした。

お客さんに合わせて空気を読むことも、欲しい言葉を選ぶことも、私はたぶん昔から苦じゃなかった。

そういう意味では、向いているのだと思う。


蒼真は私の顔を見たまま、静かにうなずいた。


「だったら、俺がとやかく言うのは違うよな」


その言葉に、ほっとした。

仕事を知らない人に説明すると、たいていどこかで話がずれる。

蒼真は、少なくとも最初から決めつけるつもりはないらしい。



蒼真が仕事の話をやめて、カップをソーサーに戻した。

少し間ができて、そのあとでふっと笑う。


「最後に会ったの、いつだっけ」


「いつだろう」


そう言いながら、私はすぐに思い当たっていた。

十五歳の夏。

蒼真が親の転勤で、東京を離れることになった夏だ。


「夏休みの前じゃない?」


「そのへんか」


「転校するって聞いたの、たしかその少し前だったよね」


蒼真がうなずく。

あの頃のことは、細かい順番までは曖昧なのに、空気だけはまだ残っている。

教室のざわつきとか、放課後の薄い西日とか、歩道橋の手すりに触れたときの熱とか。


「最初のころは、連絡してたよね」


「してた」


あの頃は、まめにメッセージを送っていた。

今日は何してたとか、新しい学校はどうだとか、そんな他愛もないことばかりだった気がする。

返事が来るだけでうれしかったし、まだちゃんとつながっているような気がしていた。


蒼真が目を細める。


「途中から、連絡しなくなったよね」


私はストローの袋を指先で折った。


「うん」


どっちが先だったか、もう正確には覚えていない。

私が返さなくなった日が先だったのか、蒼真から来なくなったのが先だったのか。

思い出そうとすればできるのかもしれないけれど、どちらが先だったかなんて、もうそれほど大事でもなかった。


ただ、十五歳だった。

離れるには十分で、つなぎとめるには幼すぎた。


「まあ、あの距離で中学生だしな」


蒼真が苦笑まじりに言う。


「どっちが悪いとかじゃないよね」


「うん。たぶん、そういう年齢だっただけ」


言ってから、自分で救われた気がした。

ずっとどこかに引っかかっていたものが、責める相手のいないまま、静かに置かれていくみたいだった。


蒼真は何も言わずに一度うなずいた。

あの夏の続きを、今ここで話し直せた気がした。



昔の話がひと息ついて、私はカップに残っていたぬるいコーヒーを飲んだ。

少し間が空いたのは、何を話そうか迷ったからというより、次に何を聞けばいいのかわからなかったからだ。


それで、私はいちばん無難そうなことを口にした。


「彼女は?」


蒼真はあっさりと答えた。


「今はいない」


今は。

その二文字に、私は少し引っかかった。

言われなくてもわかることだ。

十五年もあったのだから、そのあいだ誰かと付き合っていても何もおかしくない。

おかしくないのに、かすかにざわつく。


「今は?」


聞き返した私に、蒼真が笑う。


「いた時期はあるってこと」


「そりゃ、そうだよね」


自分で聞いておいて、変な返しだと思った。

何を確認したかったのか、自分でもよくわからない。

ただ、蒼真にもちゃんと私の知らない時間があったのだと、改めて形になって見えただけだった。


「美雨は?」


今度は蒼真が聞く。


「いないよ。今はね」


短く答えると、蒼真は少し間を置いたあとで、ためらいがちに続けた。


「店の客と付き合ったことは?」


その聞き方に、私は笑ってしまった。

気になるんだ、と思ったからだ。


「お客さんとはないよ」


「お客さんとはね」


「口説いてくる人はいっぱいいるけど、遊びなのか本気なのかはだいたいわかるし。今まで付き合いたいと思う人はいなかった」


口にすると、ずいぶん冷静な言い方だった。

でも、それはたぶん事実だった。

店の中で向けられる好意は、夜の空気ごと持ち込まれていることが多い。

明るい昼まで残るものばかりじゃない。


蒼真は「そっか」とだけ言って、それ以上は踏み込まなかった。


それで安心した。

十五年間、私たちは止まっていたわけじゃない。

それぞれに別の時間を過ごして、別の誰かと出会って、それでも今こうして向かい合っている。

その当たり前のことが、なんとなく寂しくて、でもどこかほっともした。



少し黙ったあと、蒼真がテーブルの上の水のグラスに触れた。

指先で縁をなぞるみたいな、落ち着かない仕草だった。


「俺、あの頃、美雨が好きだったよ」


あまりにもまっすぐに言うから、私は一瞬だけ息を止めた。

でも、驚きはしなかった。

遅すぎる告白なのに、ずっと前から知っていたことを改めて聞かされただけのような気がした。


「知ってるよ」


そう答えると、蒼真が目を細めた。

その顔が、ほんの一瞬だけ昔の彼に重なる。


私は笑って続けた。


「私も好きだった」


今さら隠すことでもないと思った。

十五歳の私は、たしかに蒼真が好きだった。

教室で目が合うだけでうれしくて、帰り道を一緒に歩けるだけで、その日が特別になるくらいには。


蒼真は、ふっと力の抜けた顔で笑った。


「そうだった。俺も知ってた」


その言い方がおかしくて、私は声を立てずに笑った。

蒼真もつられて笑う。


どちらも口にしなかったけれど、たぶん最初から、お互いにわかっていた。


ふたりで懐かしむみたいに笑いながら、十五の夏を思い出していた。

叶わなかったことを惜しむ気持ちとは違う。

ただ、遠い夏に置いたままだった気持ちが、今の自分の手に戻ってきたような、そんな気がした。



3


帰り道、私はひとりで駅まで歩きながら、今日のことをぼんやり反芻していた。



別れ際に蒼真は言った。


「また会える?」


私は、笑って頷いた。


「また、連絡して?」



会うまでは、もっとぎこちなくなるかもしれないと思っていた。

十五年も空いているのだから、何を話せばいいのかわからなくなって、気まずい時間ばかりが流れるのかもしれないと。

けれど、実際に会ってみたら、意外なくらいちゃんと話せた。

昔のことも、今のことも、途切れながらでも言葉にできた。


それでも、やっぱり十五年前と同じではない。


あの頃の蒼真は、私の知っている蒼真だった。

でも今日会った蒼真には、私の知らない十五年がある。

東京に出て、勉強して、働いて、きっと誰かを好きになったこともあって、そうやって今の顔になったのだと思う。


同じように、私にも私の十五年があった。

十五歳のまま、あの夏の続きに立っているわけじゃない。

いろんなことがあって、いろんなものを選んで、今の私になった。

白夜で働いていることも、その十五年の中にちゃんとある。


懐かしかった。

それは本当だ。

でも、懐かしいだけじゃなかった。


昼の光の中で向かい合った蒼真は、昔好きだった男の子に似ていて、でももう別の大人だった。

そのことに戸惑って、安心した。

知らない人みたいだと思う瞬間もあったのに、不思議ともっと話したいとも思った。


じゃあ、今も好きなのかと聞かれたら、まだわからない。


好きだった気持ちは、たしかにあった。

今日会って、それがただのきれいな思い出ではなかったこともわかった。


でも、それが今の恋なのかどうかは、まだ言えない。

十五年ぶりに会ったばかりなのだから、わからないままの気持ちがあっても、たぶんそれでいい。


十五年前の続きをしているわけじゃない。

たぶん、今日初めて会ったのだ。


三十歳になった塚越蒼真に。




蒼い雨 第3話  おわり



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