蒼い雨 第2話
1
「……美雨?」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がひやりとした。
聞き間違えるはずがない。
塚越蒼真。
最後に会ったのは、十五の夏だった。
ほんの数秒、私は息をするのも忘れて彼を見つめた。
私を見る目が、あの頃と同じように見えた。
まっすぐで、少し戸惑っていて、それでも目をそらさない。
そのくせ、背丈も肩の幅も、記憶の中の少年とはまるで違っていた。
こんなふうに大人になるなんて、あの夏には想像もしなかった。
「……蒼真?」
自分の声が、頼りなく聞こえた。
蒼真は、思いがけない再会に息をのむように、わずかに肩を揺らした。
けれど、その続きを言葉にする前に、現実が私たちのあいだへ割って入ってくる。
ここは営業中の店の中だった。
黒服がすぐそばまで来て、抑えた声で「紫乃さん、おねがいします」と告げる。
私は頷いて、蒼真と、その隣にいた藤原さんへ向き直った。
仕事の顔をつくらなければならない。
「さ、どうぞ、こちらです」
案内するために歩き出すと、蒼真が一瞬だけ不思議そうな顔をした気配がした。
けれど、すぐに何かを飲み込んだように表情を整える。
私は後ろからついてくる足音を聞きながら、振り返った。
口元だけで笑う。
「ここでは、紫乃なの」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
隣を歩いていた藤原さんが、蒼真を見て軽く眉を上げる。
「知り合い?」
「同級生」
短く答えた蒼真の声が、思ったより落ち着いていて、逆に胸がざわついた。
同級生。
たしかに、間違ってはいない。
けれど、それだけで済ませてしまうには、私たちのあいだには置き去りにした夏がひとつ、まだそのまま残っている気がした。
背中に、蒼真の視線を感じる。
振り返ることはできないまま、私は紫乃として微笑み続けた。
けれど胸の奥では、十五の夏に名前を呼ばれたままの私が、ずっと立ち尽くしていた。
2
ボックスシートに案内すると、テーブルが整うまでは藤原さんがよくしゃべってくれた。
久しぶりだね、なんて軽い調子で始まった話に、私は相槌を打ちながら合わせる。
今どこに住んでいるのか、仕事は何をしているのか、そんな当たり障りのない近況ばかりなのに、気持ちだけが落ち着かなかった。
蒼真はそのあいだ、言葉少なに私を見ていた。
氷と酒が運ばれてきて、グラスがそろう。
ひとまず乾杯をした。
そして。
「お名刺、いただいてもいい?」
口にしてから、自分でもおかしいと思った。
十五歳の、思春期のまんなかで好きだった男に、客として名刺をもらおうとしている。
蒼真は一瞬だけ黙って、それから財布を開いた。
差し出された名刺を受け取る。
白い紙の上に並んだ文字を見た瞬間、息が浅くなった。
会社名と肩書。
一級建築士。
そして、その下にある名前。
塚越蒼真。
知っているはずの名前なのに、そこに書かれていることのほとんどが、私の知らないものだった。
こんなふうに生きてきたのだと、たった一枚の紙で思い知らされる。
私は名刺を指先でそっとなぞってから、顔を上げた。
蒼真もまた、私を見ていた。
紫乃として座る私を。
酒をつくる私の手元を、蒼真は何度も見ていた。
藤原さんと話しているときも、ときどき視線がぶつかる。
相手が気を遣わなくて済むように笑わせる癖。
その視線に気づいたふりはしないまま、私は氷を鳴らした。
蒼真の知っている十五歳の私は、たぶんこんなふうには笑わなかった。
こんなふうに人に合わせることも、場を整えることも、きっとできなかった。
だからだろうか。
見られているだけなのに、昔の自分と今の自分を並べて比べられているようで、居心地が悪かった。
3
夏休みの少し前だった。
校門を出たところで、不意に名前を呼ばれた。
「美雨」
振り向くと、蒼真がいた。
まるでずっとそこで待っていたみたいに、当然の顔をして立っていた。
蒼真は昔から、私を美雨と呼んでいた。
それが当たり前だった頃が、たしかにあった。
今、この店の中で、私をそう呼ぶお客さんはいない。
みんな私を紫乃と呼ぶ。
そういう名前で笑って、そういう名前で酒をつくって、そういう名前で夜をやり過ごしている。
だから蒼真の口からこぼれた「美雨」は、胸の奥の、もう触れないつもりでいた場所を簡単に揺らした。
その余韻に浸る暇もなく、黒服がそばへ近づいてきた。
「ちょっと」
低い声で呼ばれて、私はすぐに顔を上げる。
「ちょっと、失礼しますね」
席を立ちながらそう言うと、蒼真たちに会釈をした。
藤原さんは気にしていないふうだったけれど、蒼真の視線だけが、私を追いかけてくる気がした。
通路側へ数歩出たところで、私は黒服に声を落とした。
「どうしたの?」
「あちら、少し酔いが回ってて」
示された先に目を向けると、松本さんの席だった。
五十代の、愛想のいい常連客。
羽振りがよくて、店にも長く通ってくれている人だ。
女の子に絡んでも、たいていは機嫌よく笑って終わる。
けれど今夜は、どうやら様子が違うらしかった。
私はその席へ向かい、松本さんの隣に腰を下ろした。
「どうしたんですか。なにかあった?」
まずは水割りを一杯つくる。
氷を入れて、水を注いで、やわらかくかき混ぜる。
その手元を見ながら、松本さんは唇を尖らせた。
「今日、全然来てくれないじゃない」
拗ねた声だった。
私は思わず笑ってしまう。
「私も来たかったんだけど、今日は金曜日でしょう?」
「俺より、向こうの若い男のほうが大事?」
松本さんの視線の先を追うまでもなかった。
蒼真のいる席のほうを見ているのが、すぐにわかった。
胸の奥がひやりとする。
「俺、今月いくら使ったと思ってんの?」
だんだん声が大きくなっていく。
近くの席の視線が、ちらりとこちらへ流れてきた。
まずいな、と思う。
けれど、こういうときほど、こちらが慌ててはいけない。
私はグラスを松本さんの前に置いて、わざと甘えるように首を傾げた。
「あら、松本さん、拗ねてる」
「拗ねるよ、そりゃあ」
「大丈夫。紫乃が来ましたよ」
そう言うと、松本さんは不満そうな顔のまま、けれど口元をゆるめた。
「拗ねないと来てくれないの」
「今日は、たまたま忙しかったの」
私は声をやわらかくして、松本さんの顔をのぞき込む。
「ごめんなさい」
そのひと言を、店の紫乃として言いながら、胸のどこかでは別のことを考えていた。
蒼真が見ている。
そう思うだけで、いつもなら気にも留めない自分の笑い方まで意識してしまう。
気にしたところで仕方がないのに、どうしても気になってしまう。
私は松本さんの隣で微笑みながら、視線だけは一度も蒼真のほうへ向けられなかった。
それでも、視界の端で見えていたのは、少し腰を浮かせていた蒼真だった。
藤原さんはその腕を、掴んで座らせていた。
「あれも仕事だから」
そう言ったのが、かすかに聞こえた。
4
松本さんは、ただ謝っただけでは収まらない。
拗ねた気分をうまくほどいて、機嫌よく転がしていかなければいけなかった。
「忘れていたわけじゃないんですよ」
そう言ってから、私はすぐに思い出したように顔を上げた。
「そうだ。この間言ってた、ダイアモンドの買い付けのお話、どうなりました?」
松本さんの目の色が、わかりやすく変わった。
その話を私が覚えていたことが、うれしかったのだと思う。
さっきまで尖っていた口元が、
ようやくゆるむ。
「インド。行ってきたよぉ」
得意げにそう言う声に、私は笑みを深くした。
「どうでした?」
「うーん。強烈だった」
何がどう強烈だったのかは、結局よくわからない。
けれど、今日のあなたもだいぶ強烈ですよと、胸の中だけでそっとつぶやく。
もちろん、顔には出さない。
「へえ、聞きたいです、その話」
そう返すと、松本さんはますます気分をよくしたらしく、さっきまでの棘が嘘みたいにほどけていった。
しばらくして、機嫌がすっかり直ったころ、和服姿のママが席に着いた。
「松本さん、いつもありがとうございます」
その声を聞いた瞬間、私はようやく肩の力を抜いた。
ママが来てくれたなら、もう大丈夫だ。
松本さんがグラスに口をつけた隙に、ママが私を見てささやいた。
「紫乃、ありがと」
そのひと言だけで、ちゃんと見ていてくれたのだとわかる。
「鈴のところも、あとでちょっと見てやって」
「はい」
小さく頷いて立ち上がる。
ふと視線を向けると、背中合わせの席で別の客を相手にしていた沙耶と目が合った。
ほんの一瞬だけだった。
でも次の瞬間には、沙耶は客に話しかけられて、すぐにそちらへ顔を向けていた。
華やかな笑い声が弾ける。
さっきまでこちらを見ていたことなんてなかったみたいに、きれいに切り替えて。
その鮮やかさに、感心する。
この店では、そうやって空気を止めないことが大事だった。
誰かひとりの機嫌に引きずられて、店全体の流れを濁らせるわけにはいかない。
私もまた、紫乃の顔に戻る。
まだ今夜は終わらない。
蒼真のいる席へ戻る前に、この店の夜に従わなければならなかった。
5
通路をゆっくり歩きながら、春香ちゃんの席に目を向けた。
今日はまだ、しつこく口説かれている様子はなさそうだった。
客の機嫌も悪くない。
春香ちゃんも困った顔はしていない。
これなら、今は様子を見ているだけでよさそうだった。
私は、蒼真の席へ戻ろうと振り返る。
すると、すぐそこに沙耶ちゃんが立っていた。
「さすが、紫乃さん」
含みのある言い方だった。
「なにが?」
そう返すと、沙耶ちゃんは口元を上げる。
どうも彼女には、私は好敵手のひとりに映っているらしい。
けれど、正直なところ、私にはあまり興味がなかった。
張り合う気もないし、勝ち負けを決めたいとも思わない。
私は私の仕事をしていたい。
それだけだ。
私はそれ以上言葉をつながず、そのまま沙耶ちゃんの横をすり抜けた。
ヒールの音を抑えながら、蒼真のいる席へ戻る。
席に着くと、蒼真が私を見た。
その目は、さっきまでとは違っていた。
どこか気にかけるような、落ち着かない色が混じっている。
「大丈夫だった?」
不意にそう聞かれて、私は一瞬だけきょとんとした。
「なにが?」
「さっきの」
ああ、と思う。
松本さんの席のことだ。
「ああ、いつものことだから」
できるだけ軽く答える。
たいしたことじゃないとでも言うみたいに、笑いかけながら。
けれど蒼真は、すぐには頷かなかった。
納得のいかないような顔で、私を見る。
大丈夫だと言ったのに。
松本さんよりも、蒼真にこの店で会ったことを、平気なふりをしている自分まで見抜かれそうな気がした。
6
二十三時を過ぎたころ、藤原さんと蒼真が席を立った。
私はふたりを出入り口まで見送る。
店の外に出ると、夜の空気は湿っていて、さっきまで店の中でまとっていた熱をゆっくり冷ましていくようだった。
けれど胸の内側だけは、まだ落ち着かない。
タクシーは、まだ来ていなかった。
藤原さんは「一本吸ってくる」と言って、ビルの隅に置かれた灰皿のほうへ歩いていく。
私と蒼真だけが、その場に取り残された。
ほんの短い沈黙が落ちる。
「美雨」
呼ばれて、私は顔を上げた。
店の中では紫乃だった私を、蒼真だけが迷いなく美雨と呼ぶ。
その響きに、胸の奥が揺れる。
「今度、ちゃんと話せない?」
まっすぐな言い方だった。
冗談でも、社交辞令でもなくて、ただ本気でそう思っているのがわかる声だった。
私はすぐには返事ができなかった。
少しだけ考える。
中学生のときに好きだった人。
十五年ぶりに、こんな形で偶然再会した人。
しかも今夜、客として私の前に現れた人。
あの頃の蒼真と、今ここにいる蒼真は同じ名前をしているのに、もう別の人みたいでもあった。
だけど、私の名前を呼ぶ声だけは、不思議なくらい昔のままだった。
「連絡先、名刺に書いてある?」
そう聞くと、蒼真はすぐに頷いた。
「うん」
私は彼の目を見たまま、口元をゆるめる。
「考えとく」
それは曖昧な返事のはずなのに、口にした瞬間、自分でも完全には逃げていないことがわかった。
蒼真は何か言いたそうにしたけれど、ちょうどそのとき、遠くからタクシーのライトが近づいてきた。
夜はまだ終わっていないのに、何かがもう始まってしまったような気がして、私はその白い光を黙って見つめていた。
蒼い雨 第2話 おわり




